第8話 涙

 ──今日はいい日だ。


 慎也は不必要なほど身体を弾ませながら、一階へと階段を降りていく。踊り場で本当に踊るように軽やかなステップを踏んでくるっと回る。


 こんなにウキウキした気分になるのは久しぶりではないだろうか。

 そんなことを考えながら、慎也は特別教室棟一階の隅にひっそりとある茶道部室へと足を運んでいた。

 彼が何故こんなにも浮ついているのかと問われれば、それはひとえに彼の友人である和樹へのサプライズプレゼント作戦が大成功を収めたからだった。


 葵の助言を受けつつ、ショッピングモールで選んだちょっといいハンカチを贈ったのだが、これが正解だったようだ。

 何かと雑で適当な男子高校生にしては珍しく、和樹は常にハンカチを携帯していたのを思い出し、センスはからっきしな慎也に代わって葵が今風の落ちついた、それでいてワンポイント個性が感じられるようなデザインの品を選んだ。


 初めは大して仲良くもない女子からの突然の誕生日プレゼントに困惑気味だった和樹も、ハンカチを見るや、驚き、その後嬉しそうな表情に変わっていったのを慎也は見逃さなかった。

 贈り物を喜んでもらえたようで親友冥利に尽きるというものである。無論今は、名も無き女子からのプレゼントという形ではあるが。


 あかりには感謝してもらわねばなるまい。何せ想い人とこれほどまでに距離が近づいたのだから。


 慎也は、そうだ、今度ラーメンかなんか奢ってもらおう、と思いつく。

 だが、結局それは自分の金であることを思い出す。やっぱりあかりの持っている金で一人で食べに行くことにした。


 それと、葵にも改めて感謝しなければならない。

 今度、パフェかなんかでも奢ってやろうか。あかりの金で。あいつ甘いもの好きそうだし、などととりとめもなく考えていると、いつの間にか茶道部室へと到着していた。


 すっかり慣れ親しみ、まるでおばあちゃんちにでも訪れたかのような懐かしささえ覚える。

 慎也が熟れた動作で襖を開けると、八畳ほどの茶室には今日も──


「いらっしゃい、あかりちゃん。今お茶入れるね」


 暖かい雰囲気を纏った恵先輩がいる。この瞬間から時間の流れがものすごくゆったりとしたものになるのだ。


「こんにちは、恵先輩! ありがとうございます」


 挨拶もそこそこに、ちゃぶ台を挟んで先ほどまで恵がいた座布団の向かいに座る。

 慎也は正式な茶道としての作法などまるで知らないが、今までこの茶道部に通っていて困ったことは特にない。何せ抹茶でなく紅茶の香りが漂ってくる茶室だ。茶道としての礼儀も作法もあったもんじゃない。


 しかし、そこがこの茶道部のいいところだった。

 全てを包み込んでくれるような先輩がいて、温かい紅茶があって、趣深い襖と畳がある。校舎の一角、ここに人生の全てがあると言っても過言ではない。それくらい慎也はこの場所が気に入っていた。


 身体が元に戻っても、たまにここを訪れよう。いっそ入部してしまうのも悪くはない。

 そう思案している間に、紅茶が入った。


「いつもすみません、お茶入れていただいて」


 慎也がぺこり、と頭を下げる。


「気にしないで。私が好きでやってることだもの。そのかわり、もし後輩ちゃんができたらその時はあかりちゃんが入れてあげてね?」


 恵には珍しい茶目っ気のある笑顔で言った。

 慎也は「もちろんです!」と元気よく答えて、そっとマグカップに口をつける。

 紅茶の香りが鼻から抜けていき、温かいものが喉を伝っていくのを感じた。紅茶の良し悪しなどまるでわからないが、ここで飲む紅茶は美味しいと思う。


 束の間、静かな時間が流れる。先に切り出したのは慎也だった。


「そういえば、聞いてくださいよ! 今日かず……じゃなくて森本くんと仲良くなったんですよ!」


 ずっと誰かに話したくてうずうずしていたことを話題として持ち寄る。


「あら、そうなの」


 恵は驚きつつも、目を細めて優しく微笑んだ。


「そうなんですよ! 実はこの間、クラスの奴とプレゼントを買いに行きまして、あ、その子はめっちゃ可愛いんですけど男で……」


 慎也は事の顛末を、冗談を交えつつ、時折オーバーかなと思うくらいに誇張しながら恵に話した。

 恵は慎也の語りに相槌を打ち、ところどころくすくすと笑いを漏らしつつ、耳を傾けた。

 聞き上手な彼女に乗せられて、慎也はいっそう愉快な口ぶりになっていき、時間も忘れてころころと話題の転がるままにおしゃべりに夢中になっていった。


「そんで、古文の高橋先生にブチギレられてて……あっ、もうこんな時間!」


 ふと目に入った携帯電話の画面に表示された時刻が十八時を過ぎており、障子越しであっても外が暗くなっているのがわかった。


「すみません、めっちゃ喋っちゃって」

「ううん。あかりちゃんのお話、面白いからすごく楽しかった。こんなに笑ったの久々かも」


 恵はふーっと満足げに息を吐く。

 無駄話に付き合わせてしまったかと心配になったが、杞憂だったようで胸を撫で下ろす。それどころか、彼女に楽しかったとまで言ってもらえて、本当に今日はいい日だな、と慎也はしみじみ思う。


 二人でマグカップを片づけ、簡単に帰り支度を整える。名残惜しく思いながらも茶道部室を後にして、蛍光灯の明かりが照らすリノリウムの廊下を昇降口に向けて歩いていく。


「なんか寂しくなっちゃうなあ」


 二人で廊下を進む途中、暗くなった窓の外を眺めながら、恵は呟いた。


「わかります、日が沈んだ後って何ともいえない寂しさがありますよね」


 慎也が同調するが、彼女はゆっくりと首を振った。


「そうじゃなくて……ほら、私今年受験生でしょ? そろそろ本格的に勉強始めなきゃいけないから、茶道部にはあまり来られなくなっちゃうの」


 慎也の脳内に衝撃が走る。


 そうか……先輩、いなくなっちゃうのか……。


 恵が三年生であることは知っていたはずだが、そこまで深く考えたことはなかった。

 彼女と出会ったのはつい最近のことであり、こんなに早く別れを意識することになろうとは思わなかったのだ。

 まだ五月とはいえ、一年はあっという間に過ぎる。茶道部以外では恵と顔を合わす機会はほとんど無く、彼女が部室に来ない日も次第と増え、いずれは全く来なくなるだろう。彼女と過ごす時間は限られているのだ。


 慎也は無性に寂しくなった。

 そして、まだ出会ったばかりの自分がこんな気持ちになるのなら、あかりの寂しさは計り知れない。

 自分ごときが先輩との時間を奪っていて良いのだろうか。慎也は一刻も早く元に戻りたいという思いに駆られる。


 慎也の漠然とした焦燥感を知ってか知らずか、恵がふっと柔らかい笑みを浮かべて言う。


「大丈夫だよ。あかりちゃんなら」

「……そう、ですかね」


 何が「大丈夫」だというのかはさっぱりわからなかった。だが、彼女の言葉に心が落ち着いたのも事実だった。

 もしかすると彼女は自分たちが入れ替わっていることにも気がついているのかもしれない、とさえ思う。


「ごめんね。せっかくたくさん楽しい話してくれたのに暗いムードにしちゃって」


 そう言って、恵は気分を変えるように両手を合わせて乾いた音を鳴らした。


「よし、森本くんの話をしよう」

「……何でここで森本くんの話なんですか」


 呆れたように笑う慎也に、恵がにやっと口元を歪めて答える。


「だってあかりちゃん、その子の話している時が一番嬉しそうだったもの」

「嬉しい……? まあ嬉しいかなあ?」


 いまいち納得いかない慎也だったが、次の彼女の言葉は納得どころか、耳を疑うものだった。


「またまたあ。私あかりちゃんのこと応援してるからね。愛はきっと性別を越えるよ。高坂くんのことが好きな森本くんだってあかりちゃんの愛の前には跪くよ」


 雰囲気を明るくするためか、冗談めかして言う。

 彼女の笑えない冗談に慎也は一瞬、表情を固くしてから、やがて乾いた笑い声をあげる。


 和樹が俺のことを好き? だって?

 ──あり得ない。


 必死に脳内で否定する。だが、彼女の言葉に冗談など無いことは、出会って間もない慎也でさえ知っていた。






 一晩経って、心もだいぶ落ち着きを取り戻したかのように思えたが、ふとした拍子に昨日のことを思い出すたび、腹の底から激情と悍ましい感情が入り混じった何かが沸々と込み上げてくる。

 それほどまでに慎也にとって、親友である和樹が自分に対して恋愛感情を抱いていたという事実は衝撃的だったのである。


 口から長く息を吐き出して、ぐちゃぐちゃになった心を整理しようとする。だが、自分の姿をしたあかりと和樹が仲睦まじそうに会話しているのが目に入り、再び心が掻き乱されるのだった。


 我慢の限界だった。


 慎也は放課後を告げるチャイムが鳴ると同時にあかりの席まで行き、小声で「ちょっと面貸せよ」と乱暴に伝えると返事も待たずに先に廊下へと出ていく。


 向かった先は偶に慎也とあかりが、互いの情報のすり合わせや、困ったことがあった際に相談し合う時に使う空き教室だった。そこには滅多に人が来ないので重宝していた。


 いつもの空き教室で彼女を待つ時間がいやに長く感じられるのは気のせいだろうか。

 待っている間に言いたいことをまとめようと目を瞑るが、それがかえって余計な感情を浮上させる余地を生むことになり、どうしようもなく苛立つ。

 どうにか自分で自分を宥めようと深呼吸してみるも一向に気分は晴れない。


 程なくして、彼女が顔を見せる。


「いきなりなに? 今日は『実験』の日じゃないよね? お……私、この後部活のミーティング出なきゃいけないんだけど……」


 呑気にそう宣う彼女、正確には自分の顔だが、その顔を見ていると無性に腹が立ってくる。まるで自分の間抜けさを目の当たりにしているようで気分が悪い。


 俺は……俺のものだって言うのに……


「…………んだろ」

「え?」

「知ってたんだろ! 和樹が俺のこと好きだってこと!」


 慎也は感情の奔るままに声を荒げ、あかりを睨みつけた。

 彼女は肩をビクッと震わせてから驚いたような表情を浮かべる。その様子に少し冷静さを取り戻した慎也は、静かに尋ねる。


「……何で言わなかったんだよ」

「それは…………だって私の勝手な想像だし……言えるわけないっていうかなんていうか……」


 あかりは目を逸らす。それから慎也を極力刺激しないようにでもしているのか、彼女は顔色を窺いながら、おずおずといった様子で弁明を口にした。

 その腫れ物に触るような態度が慎也の癇に障る。


「でも、先輩に話すってことはよ、確証はあったんだろ」

「それは……」


 慎也の刺々しい物言いにあかりは黙りこくる。沈黙が答えであるようなものだった。


 慎也の脳裏に自分と和樹が裸で抱き合っている映像が流れ込んでくる。言いようの知れぬ嫌悪感が襲う。


 無論、和樹のことは好きだ。だが、そういう対象として見たことは一度もなかった。

 ──いわゆる恋愛対象としてなど。


 自分は同性愛に理解がある方だと勝手に考えていた。

 しかし、それは思い込みだったと気づく。いざ自分が同性、しかも親友だと思っていた彼に恋愛対象として見られていると知ると、心の奥底から悍ましい感情が湧き上がってくるのを堪えきれない。


「……他人の身体使って好きなやつと両想いになれて嬉しかったか? ……もしかして入れ替わったこと皆にバラしたくなかったのはそれが目的だったとか?」


 慎也は皮肉めいた口調であかりに詰問する。


「──違う!」


 あかりが声を張り上げる。彼女らしくない大声は魂からの悲痛な叫びにも聞こえた。


 あかりはそんな人間じゃない。それは慎也もわかっていた。

 入れ替わってからの数十日間、曲がりなりにも彼女と、そして、その友人たちと触れ合ってきて、彼女の人間性はわかっているつもりだ。

 彼女は優しくて、それでいて臆病だ。

 だから、自分は彼女に甘えてしまっている。和樹に対する好意と嫌悪感がごちゃ混ぜになって処理しきれなくなった気持ちを、目の前のあかりに怒りの矛先を向けることで安定させようとしたのだ。

 しかし、わかってはいても一度堰を切ったように流れ出した感情の波を今更になって抑えることなど、もはや不可能だった。


「どうだか。この間だって二人でデート? 楽しんでたみたいだしな」

「…………」


 あかりは俯いて黙ったままだった。


「俺の気持ちは無視して勝手に恋愛すすめてたわけだ」


 煽り立てるような慎也の言葉に、あかりはパッと勢いよく顔を上げて目の前の彼を鋭く睨め付ける。


「……あんただって! あんただって、頼んでもないのに私の身体で森本くんに近づいてさ! 人の気持ち無視してるのはどっちよ!」


 彼女の勢いに慎也は僅かにたじろぐ。


「俺は良かれと思って!」

「それが余計だって言ってるの!」


 あかりの訴えをきっかけに、空き教室から空気が失われたようにしんと静まり返る。

 微かに開いている窓からは早くも練習を始めたらしき野球の声出しが聞こえてくる。

 興奮冷めやらぬ二人の息遣いが落ち着き始めた頃、あかりが口を開いた。


「……だいたい、私のふりして恵先輩からいろいろ聞いてさ。今まで気づけなかったくせに教えてもらったからってそれはないんじゃないの?」


 そっぽを向いて非難するような言い方で呟く。


「私のふりって……それはお互い様だろ」

「そうだよ。そうだけどさ、お互いに秘密を知っちゃっても普通知らないふりするじゃん! 私だってあんたが家ではだらしないこととか、部屋に隠してるえっちなものとか、中学生の頃の変な日記見つけちゃったりしたけど……けど、何も言わなかった! それなのに、あんたは私が森本くんのこと好きだってわかった途端、周りから見てもあんなにわかりやすく森本くんにアピールして……しかも安岐くんと一緒のとこ、森本くんに見られるし……もう最悪」


 あかりの目から涙が零れる。

 まるでコップに水を注ぎすぎてしまったかのように彼女は涙を溢した。

 外見は慎也なので男泣きに見える。だが、涙を拭う仕草は女の子そのものだった。


 彼女の涙を見て、慎也の中に罪悪感が芽生える。どうにも居心地が悪い。

 何と声をかけるべきか散々迷った挙句、考えないままに口を開いた。


「……悪かったよ。でもよ、和樹は男が好きなんだからどのみちおま……あかりにチャンスはないんじゃねーの」


 そう口にした瞬間、慎也は自らの失言に気づいた。

 なぜなら、目の前のあかりの瞳が悲しげに大きく揺れたからだった。

 いつだって後悔した時にはもう遅い。

 一度口に出してしまった言葉はもう取り戻せないのだ。


「……最低」


 彼女は静かにそう吐き捨てると足早に教室から去っていった。


 再び静けさを取り戻した空き教室には、遠くに聞こえる野球部の声出しの中、あかりが出ていった引き戸をただ見つめる慎也と、そして床には彼女の涙の雫跡が残されていた。

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