第7話 幸か不幸か

 左手に持った携帯電話に視線を落とす。

 もはや馴染みとなった自分の顔を暗い画面に映して、ちょいちょいと右手で前髪を弄る。だが、髪質が硬いせいで思ったように前髪が決まってくれない。

 しばらくの間、反抗期の髪の毛と格闘していたが、やがて諦め、大人しく携帯電話をポケットにしまった。

 顔を上げるとちょうど、待ち合わせていた人物が駅の改札を出て手を振りながらこちらへ歩いてくるところだった。


 その姿を目にした途端、心臓が跳ね上がる。どうにか心を落ち着かせようと、昨晩イメージトレーニングした彼との会話をもう一度思い返しながらその到着を待った。


「ごめん慎也、待った?」

「ちょうど今来たところだよ、和樹」

「そっか、よかった」


 和樹はほっとしたように笑顔を見せる。

 その笑顔にあかりも思わず顔が綻ぶ。


 ある種テンプレート化されているそんなやりとりも、彼とならば新鮮に感じられた。むしろ、一生こんなやりとりをしていたいとさえ思う。


 二人は挨拶もそこそこに駅の南口へと歩き始める。


「映画、誘ってくれてありがとな」


 あかりの言葉に和樹が驚いたような表情を見せる。


「珍しい。慎也がお礼言うなんて」

「失礼な。俺だってお礼くらい言うよ」


 冗談めかしてそう答えると、和樹が笑った。


「へえ、成長したじゃん」

「まあね」


 気遣いや遠慮のない、親しみのこもった会話のように見えてその実、あかりの方は気遣いと遠慮に塗れながら、緊張感を持って対応していた。

 自分に自信のない彼女とは対照的に、慎也は少なからず自信家っぽい側面があるので、普段よりも五割増しで堂々と喋るように心がける。だが、そうした緊張とは全く無縁の感情も彼女の中に存在していた。


 えっ! 私、森本くんと二人で歩いてる! デートしてる! わー! わー!


 表で繰り広げられる小気味いい落ち着いた掛け合いとは裏腹に、あかりは彼と二人っきりでのお出かけに舞い上がっていた。心は笛吹け太鼓鳴らせのどんちゃん騒ぎである。


 こんなに心が躍ったのはいつぶりだろう。

 思い出せないが、少なくとも高校に合格した時も、柚香と再び同じクラスになった時でさえもこんなに嬉しいとは思わなかった。


 しかし、あかりはたった十六年ぽっちではあるものの、その経験則から浮かれきって手の舞い足の踏む所を知らずの状態が決して長くは続かないことを知っていた。

 必ず幸せと同じ分だけの不幸が後からやってくるのだ。あるいは前もって代償を払うか。

 そして、ふと考える。最近ツイてないことがあっただろうか、と。


 あった──


 慎也と身体が入れ替わってしまったことだ。

 あれは紛れもなく不幸な出来事であり、しかも現在進行形である。

 しかし、そのおかげでこうして和樹の隣を歩くことができたとも言える。なら、もうすでに悪いことは起こった後であり、その帳尻を合わせるために彼とのデートが生まれたと考えるのが妥当なのではないだろうか。


 そんな思考に行き当たり、口角がせり上がって行くのを自覚しながらも、和樹にそれが悟られぬよう、至って平静を装う。


「何か今日楽しそうだね」


 あかりはドキッとすると同時に感心する。

 やはり彼の目は誤魔化せない。鋭い観察眼を持っている。それは何となく好きな人を目で追っていることによるただの副産物かもしれないが、それでもいい。その眼差しが自分に向けられていることにあかりは喜びを感じていた。


「そうか?」


 だが、あくまでとぼける。


「ふふっ。まあ、元気になったようで何よりだよ」


 今度はぎくりとする。

 やっぱり彼は気にしていたのだ。

 同時に、和樹に対する想いとは種類が異なれど同等に大好きな人、宮内恵のことが思い出される。


 和樹に映画に誘われた日、あかりは彼女に拒絶されてひどくショックを受けていた。

 男嫌いの恵に対して、男の姿であってもあわよくば仲良くなれるのでは、というあかりの浅慮が招いた結果だったが、自分の存在まで否定された気になって落ち込んでいたのだ。

 それを見抜いていたのだろう。故に彼は「元気になって良かった」と口にしたのだ。


 心が嫌な喜びにざわめくのを感じた。


 森本くんが私のことを気にしてくれている──


 彼にとってはあかりなど眼中におらず、ただ目の前の慎也を心配したに過ぎないのはわかっている。でも、落ち込んでいたのは紛れもない自分自身だ。


 ──入れ替われてよかったかも。


 気がつけば、絶対に行きついてははいけない類の思考に支配されている自分がいて、それを必死に否定する自分との、相反する二つの感情に心が引き裂かれそうになる。


 入れ替わらなければ和樹とは話す機会は訪れなかった。

 だが、入れ替わったことで恵と話す機会は永遠に失われた。

 元の身体に戻ることができれば、恵との日常を取り戻せるが、こうして和樹と二人で出かける機会は二度と訪れないだろう。


 私は本当に元に戻りたいのかな。


 心のどこかでこの生活を楽しんではいないか。

 ドライヤーなしに勝手に乾く髪を便利に思っていないか。

 体重を気にせず好きなものを好きなだけ食べられる環境に甘えていないか。

 容姿に自信を持っていないか。

 何もしなくても周りに人が集まってくる人望に喜んでいないか。

 柚香に言い寄られることに優越感を覚えていないか。


 そして──


 好きな人から想われる立場に幸運を感じていないか。


 あかりは慌てて首を振る。


 そんなことない。あっちゃいけない。私は戻りたいんだ。


 自分に言い聞かせるように、心の中で強く否定する。彼の想いを踏み躙るようなこんな歪んだ両想い、存在してはいけないのだから。


 だが、彼女の意志とは裏腹に、彼女の瞳は和樹の一挙手一投足を追い続けていた。






「いやー! 奇遇って本当にあるんだなー!」


 慎也は心底嬉しそうな表情であかりと和樹を交互に見る。

 その隣で少し居心地が悪そうに小動物然と縮こまっている葵もちらちらと二人の様子を窺っていた。


 最悪だった。

 なぜこんなことになってしまったのだ。せっかくのデートが台無しではないか、と内心嘆くあかり。

 ──時は数分前に遡る。


 映画を観終え、余韻に浸りつつ映画館に併設されたショッピングモールを二人で流していると、前から見覚えのある姿がこちらへと歩いてくるのを見かけた。というか自分だった。

 脊髄反射並みの素早さで引き返そうと判断し、隣を歩く和樹の手をとり踵を返したが、時すでに遅し。あかりの姿をした彼、慎也に気づかれた後だったのだ。

 あかりは自らの運のなさに頭を抱えた。


 しかも──


 ぐるりと辺りを見回す。自分の姿をした慎也と葵以外に見知った人影は見られない。

 つまり、彼らは二人きりでショッピングモールを回っていたことになる。見ようによっては、というか見る者のほとんどは彼らがデートしていると思うだろう。


 あかりは和樹の横顔を盗み見る。

 彼らを目にしてどう思っているのか、その表情からは窺えない。だが、幸いにも葵は中性的な容姿のおかげでいくらか幼く見える。

 あかりは和樹が単なる同性の友達、あるいは仲のいい姉弟だと勘違いしてくれることを祈ろうとして、皆同じクラスだったことを思い出す。


 私もなかなかツイてない人間だなあ……。


 先ほどまでの気分とは一転、もはや悲嘆を通り越して逆に笑いさえ込み上げてくる。やっぱり幸と不幸の天秤は水平になるように上手く調整されているようだ。


 こうなればもうやけくそで、あかりが顔を引き攣らせながら「せっかくだし四人でどっかお茶する?」と提案すると、意外にも「いいねえ」と慎也がのってきた。

 自らのデートをぶち壊されるよりも、相手のデートに見える何かを解消させたいがゆえの発言だったが、葵との恋仲を噂されては元に戻った時に困る、という当たり前の考えがまだしっかりと自分の中に息づいているようで、あかりは微かな安堵を覚えた。

 和樹の方に目をやると、彼も特に異論はないようで頷いていた。


 そうと決まれば、早速ファミレス、それかフードコートへ行こう、とあれこれ言い合いつつ、皆ゆっくりと歩き出す。だが、そこに待ったをかけたのは葵だった。


「あ、あの、ぼくも一緒にいて良いのかな……? 迷惑じゃない……?」


 不安げなその表情はいとも簡単に壊れてしまうガラス細工のような危うさを孕んでいた。


「どうして?」


 思わずあかりが見惚れていると、眼鏡の奥にたっぷりと優しさを湛えた和樹が彼に尋ねる。


「えっと、みんな仲良さそうだし、ぼくがいたら邪魔かなって……」


 葵は消え入りそうなか細い声でそう呟いた。その言葉に彼以外の三人で顔を見合わす。それから、和樹が再び葵に優しく微笑みかけた。


「そんなことあるわけないじゃないか。むしろ皆、葵くんともっと仲良くなりたいと思っているよ」

「そう、なの?」


 微かな希望が彼の目に宿る。


「そうに決まってるだろ! じゃなきゃ、お前と一緒に買い物来てないって!」


 思わず抱きしめたくなるような儚げな葵の姿に心を突き動かされでもしたのか、慎也はあかりとしての演技を忘れて強く訴えた。和樹とあかりも彼に頷く。


「……よかった……ありがとう」


 葵はほっとしたような笑みを浮かべて、それから少し照れたように目を逸らした。慎也は満足気に笑って「じゃあ、行こうか」と先頭を歩き出し、皆、彼に続いた。


 ちょっとした感動の場面。


 だが、あかりは見逃さなかった。少し遅れてついてくる葵の宝石のように大きな瞳が、その前を歩く少女の横顔を映していたことを。

 そして、その視線に熱が帯びていたことを──






 やっぱ好きになってるよなあ。


 あかりは内心ため息をついた。

 彼女の視線はやたら騒がしくする慎也、ではなく、そんな彼に盛大に誕生日を祝われて少し戸惑っている和樹、でもなく、それを遠巻きに眺めている葵にあった。


 ポーッと熱に浮かされたような表情で、おそらく彼は無意識だろうが、少女の姿をした慎也のことを目で追っている。

 つまるところ、彼は恋する乙女だった。正確には少年だが。


 しかしながら、葵の愛らしい見た目だから良いものの、慎也をじーっと見つめては時々頬を赤らめ、頭をぶんぶん振る様子は今どき恋する乙女であってもやらないのではないだろうか、とあかりは少し呆れた。

 そして、そのいじらしい恋心を向けられている当の本人、慎也は全くそれに気がついていない。


 普段のあかりならば、こんなに面白いことはないとばかりに二人を観察し、その行く末を見守っているところだが、今回ばかりはそうも言っていられなかった。

 なにせ、葵が好きになったのはあかりであり、慎也でもあったからだ。


 外見はれっきとした女の子でお世辞にも美少女とは言えないが、不細工だと謗

られるほどではない、紛れもなくあかりの容姿。

 一方でその中身は、嫌味のない明るさと責任感を兼ね備えた、まさに生まれながらに主人公みたいな性格の慎也である。


 外見か性格。

 人が人を好きになる要因はそのどちらかにあるといえるが、葵があかりに恋心を抱くきっかけとなった要因は、まず間違いなく慎也の性格にあるだろう。

 無論、憶測なので真実は異なるかもしれないが。

 かといって、あかりは自分の容姿のおかげだ、と言えるほど身の程知らずではなかった。皆があかりだと思っている今の人物の八割方は慎也で構成されていると言っても過言ではないかもしれない、とさえ思う。


 あかりは嬉しいような虚しいような複雑な気持ちだった。

 嬉しい理由は、自分が今まで恋愛経験がないのは単純に容姿のせいではない、ということが証明されたからだった。

 だが、それと同時に性格の方に難があることを突きつけられた。そして、彼の誰にでも分け隔てない振る舞いは自分には絶対に真似できない、とも悟った。

 慎也の整った外見を得てもなお、自分の性格に変化はないのだ。どうして、あかりの容姿のまま自信が持てるというのだろうか。


 あかりは暗くなりかけた心に蓋をして、落ち込むまいと顔を上げる。


 どうにもならないことでくよくよ悩んでも仕方ないし。──それよりも。


 再び視線は葵へと引き寄せられる。彼はまだぼんやりと慎也の横顔を眺めているようだった。


 あかりは申し訳なさに心が痛んだ。

 彼が恋する「あかり」など、この世のどこにも存在しないに等しい。


 そして、今も間抜けに笑っている、恋の視線にまるで気づいてない慎也。

 あかりは彼が事実に気づいた瞬間を想像して、背中にぞわぞわとした悪寒を感じるのであった。

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