第6話 らしさ

「へいへーい! かず、じゃなかった……森本くん!」]


 慎也の声がこちらの耳にまで届いてくる。

 声のする方へ目を向けると、彼が和樹に話しかけているところだった。和樹はにこやかにそれに応えているが、心なしか苦笑いのようにも見えて居た堪れない。


 それもそうだ。今まで大した接点もなかった女の子が、最近になっていきなり休み時間になるたび話しかけてくるようになれば誰だってあんな顔になるだろう。

 だが、慎也はそれに気づかず、ぐいぐいと距離を詰めようとする。彼にとってみれば、ただ親友に話しかけるようなものだが、和樹にとってはそうもいかない。

 そのことを彼は理解しているのだろうか。


 あかりは大きくため息をつく。


「どうしたの慎也。ため息なんかついちゃって」


 いつの間に隣に来ていた柚香があかりの顔を覗き込む。彼女は慎也の右隣が席を外しているのを確認してそこにふわりと座る。


「え? い、いや、何でもないよ?」


 あかりはわざとらしく笑い、誤魔化そうとする。柚香はムッとしたように口を尖らせたが、あかりの泳いだ視線の先に和樹たちの姿を発見し、得心がいったように目を細めた。


「さては和樹くんが取られちゃって面白くないんでしょ」


 ふふ、と柚香が口元を手で隠して笑う。

 意外に鋭い彼女にあかりは一瞬、動揺を隠せずおろおろするが、すぐに取り繕い「そんなんじゃないけど」と目を逸らした。それを柚香が見逃すはずもなく、より笑みを深める。


「なんか慎也、前より嘘下手になったんじゃない?」


 何気ない言葉だったが、ぎくりとする。


「そ、そうかな?」

「そうよ! ま、その方がいいけどね。浮気したら一発でわかるし」


 柚香は冗談めかしていたが、決して冗談ではないことは明らかだった。彼女の目が本気なのだ。


 あかりは末恐ろしさを感じつつ、普段から尻に敷かれている様子の慎也を少し気の毒に思った。無論、あかりも浮気する男など死罪に値するのは当然だと考えている。

 しかし、彼は見境のないようには見えなかったので、恋人たる彼女にここまで釘を刺される謂れはないと思った。

 当然、柚香の前では口が裂けてもそんなことは言えないが。

 それに、今は自分が慎也の立場にいるので言ったところでいらぬ不信感を植え付けるだけになってしまう。二つのデメリットを無視してまで感情的にはなれなかった。


 己の感情と慎也の体面を天秤にかけたところで、ふと、柚香の前での慎也の振る舞いはどんな感じなのだろうかと疑問に思う。

 今日に至るまで特に何も考えず、あかりの思う慎也像のままに振る舞ってきたが、実際は異なっているのかもしれない。中身の人格が別人なので差異があるのは仕方ないことだが、今のところ周囲にバレている兆候は見られないので案外自分と慎也は似た者同士なのかもしれない、とも思う。

 あるいは秘められし女優の才が覚醒したか。

 だが、柚香に「嘘が下手になった」と言われたので後者の確率は著しく低いだろう。

 いずれにせよ、柚香に「俺って今までどんな感じだった?」と聞くわけにもいかないので、例え雰囲気が変わっていたとしても、もうしばらくはこのまま突き通すしかないのだ。


 私も、彼も──


 和樹に戯れついている慎也を見やる。


 彼は石田あかりをうまく演じられているのだろうか。

 ついこの間まで、あかりどころか女の子の所作すら危うかったのに、最近の彼は何と言うか「自然」だった。

 だが、それがあかりらしいかと言われれば、そんな気もするしそうじゃない気もする。なにしろ、本当の意味で客観的に自分の姿を目にするのは初めてだったので正解がわからないのだ。


 私ってどんなだったっけ。慎也を演じていない私って──


「──にしても最近あかりどうしちゃったのかしら?」


 まるで心を読んだかのような柚香の発言にドキッとする。

 うっかり心の声が漏れてしまっていたかと焦って口元を押さえたが、彼女の表情を見る限りそうではないようだ。


「なーんかやけに和樹くんに絡みに行くけど、好きってわけでもなさそうだし。そもそもあかりって気になる相手にガンガンいくタイプじゃないはずなのよねえ」


 独り言のようにブツブツ言いながら考え込む柚香をよそに、あかりは内心冷や汗をかいていた。


 やばい、怪しまれてる。


 流石と言うべきか、ずっと行動を共にしていることに加え、持ち前の鋭さも相まって彼女の目は誤魔化しきれないようだった。

 確実に以前と性格が異なるあかりの変化に気がついている。

 だが、まさか中身が入れ替わっているとは思い当たらないだろうから、その点で首の皮一枚つながっているといったところだろうか。


 先ほどの眼光を思い出して身震いする。

 もし気づかれでもしたら、浮気どころの騒ぎじゃない。二人だけの秘密を共有して、放課後に逢瀬を繰り返し、あまつさえ何度もキスをしてしまったのだ。確実に殺される。

 暴力だけならまだしも、社会的に殺されれば終わりだ。好奇の目に晒され、陰口を叩かれ、誰も手を取るものはなく孤立する。そうなったらもはや学校にはいられない。

 想像しただけで首筋にナイフを突きつけられたように息が詰まり、とめどない悪寒が全身を襲う。


「まあでも、前よりも明るくていい感じだしなんかあったのかもね」


 隣であかりが戦慄していることなどつゆ知らず、柚香は呑気にそう結論づける。


「そ、そうかもねー」

「どうしたの慎也。なんか顔色悪いけど」


 額に汗を浮かべるあかりを不審に思ったらしく怪訝そうな表情を浮かべて尋ねる。


「だ、大丈夫大丈夫! ちょっと体冷えちゃっただけだから」


 慌てて手を振って否定すると、柚香が心配と呆れが混ざったような顔で言った。


「そう? なら、もっと男らしくシャキっとしなさいよ。なよなよしてたら風邪引くわよ」


 彼女に反論したくなる気持ちも僅かにあったが、いつもの癖で笑ってその場を流した。


 ──男らしく。


 その言葉が妙に胸でつっかえる。慎也もそれにこだわる部分を見せたことがあったような。

 だが、今は彼女の言う通り、男らしく振る舞って中身があかりだとバレないようにしなくてはならない。


 どんよりとした曇り空が窓越しに鈍く蠢いていた。今にも雨が降り出しそうな天気に、今日は傘を持ってきていないことを思い出し、少し憂鬱になった。




 ***




 ──なぜだろう。全く上手くいかない。


 現代文の教科書を広げ、いかにも集中して文章を読み解いているように見せて、その実、慎也の頭の中は森本和樹のことで頭がいっぱいだった。

 傍から見れば、華の女子高生が意中の想い人のことを考えて物思いに耽っている姿でしかないが、彼にはそんな気さらさらない。彼の関心は専ら、如何にあかりとして和樹と接近するか、その一点にしかないのだ。


 慎也は言わずもがな、和樹と親友である。故に、彼の趣味嗜好から性格、信条まで、彼に関するたいていのことは知っているつもりだった。

 まだ知り合って一年と少ししか経っていないが、出会って会話した瞬間、まるで生き別れた双子の兄弟が再び出会ったかのように気が合い、すぐに打ち解けた。

 慎也の中で和樹が知り合いから親友へと昇格するのも時間は掛からず、和樹の方も同じように思ってくれていると感じていた。


 前世からの縁。


 慎也は前世など全く信じていないが、仮に存在し、前世からの友は誰かと聞かれれば間違いなく和樹の名を挙げる。それくらいには心の深いところで繋がりを感じていた。


 だからこそ、不思議であり、少し不満だった──現状、彼に一歩距離を置かれていることに。

 もちろん、今はあかりの身体で彼に接している。

 性別どころか、声も姿形も元の慎也とはまるっきり別人に変わってしまっている。その状態で慎也だと気づいてくれとは言わない。

 だが、仮にも親友ならせめて、何となくでもいいからシンパシーを感じて心を開いてくれてもいいのではないか、と言うのが本音であり、願いでもあった。


 それとも、親友だと思っていたのは俺だけだったのかよ……。


 決してそんなことはないと頭ではわかってはいるのだが、ついため息が漏れる。


 ──やめたやめた。普通に考えて親友が別人に入れ替わっているなんて思いつくわけない。あくまで石田あかりとしてあいつと仲良くなろう。


 ネガティブな思考を払って、前向きに考える。

 そもそも、半ば強引にあかりの恋愛の後押しを申し出たのは単純に和樹と話すきっかけが欲しかったからだ。

 あかりの身体になってからというもの、和樹と話す機会は全くなかった。それがこうして和樹に絡みに行けるようになっただけ御の字である。

 慎也はそう思うことにした。


 そうと決まれば、どうやって彼と仲良くなるかだ。

 呼び方を親しげにあだ名にするとか?

 思い切ってボディータッチに挑戦するか?


 あれやこれやと頭を悩ませているうちにチャイムが鳴り、内容が全く頭に入らないまま現代文の授業が終了した。

 慎也は片付けもそこそこに席を立ち、和樹の机へと声をかけに行こうとする。だが、その道中、誰かの机からはみ出していた教科書類に腕を引っ掛けてしまい、上に乗っていたペンケースごと盛大に床にぶち撒けてしまった。


「やばっ! マジでごめん!」


 持ち主も確認せず慌てて床にしゃがみ込み、散乱した教科書や筆記用具を拾い集める。埃がついてしまった現代文の教科書を手で払っていると、記名で持ち主が誰だったかに気づく。

 直後、すぐそばから明らかに自分のものとは異なった甘い、それでいてしつこくないふんわりとしたいい匂いが風に乗ってやってきた。


「ごめんね、ありがとう」


 優しい声色に誘われて顔を上げると、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳が覗き込んでいた。


「……安岐……くん」


 刹那、言葉を忘れるがすぐに我に返り、拾う作業に戻る。隣では同じように葵がペンを拾っている。


「ごめん。落としちゃって。壊れたり汚れたりしてんのない?」


 慎也が心配すると、葵は首を振った。


「大丈夫! ……それより石田さん授業中ぼーっとしてたみたいだけど、大丈夫? 体調悪い?」


 逆に心配で返され、慎也は居た堪れない気持ちになる。

 上の空だったのは体調不良でも何でもなく、ただ和樹のことで頭がいっぱいだったから、なんて呆れる理由、言えるはずもなく、苦笑いで心配に感謝しつつ何ともないことを伝える。


 しかし、彼には全てお見通しのようだった。


「……じゃあ、森本くんのこと気になってた、とか?」


 小首を傾げて、恐る恐るといった様子だった。

 無性に胸の奥にある何かが掻き立てられる。

 慎也は小動物に対する庇護欲にも似たそれを彼に対して感じるのはあまりに失礼だと思った。

 彼は男だ。

 だが、どうにもその唇が、その瞳が慎也の視線を惹きつけてやまない。

 自分の中に生まれたあり得べからざる感情に蓋をしたくて、思わす葵の質問に肯定の意を示す。


「…………ああ、まあ」


 慎也が答えた途端、葵の瞳が輝き出した。


「やっぱり! 最近仲良さそうにしてるもんね!」


 思考がようやく回転し始めた慎也は、自分が和樹の席に行く途中だったことを思い出し、そして苦笑する。


「それがそうでもなくてなー」

「そうなの? でも好きなんだよね?」

「好きって言うか……まあ好きなのか? 今は……好きだそうだ」

「何で他人事?」


 葵が口の中で飴玉でも転がすかのようにコロコロと笑う。

 自分の中の感情を咀嚼しきれずに意味不明な回答をしてしまった。口調も男っぽくなっている。

 いかんいかん、今はあかりとして回答しなければならないのだ、と気を取り直す。ちょうど、床に散乱した物も拾い終えた。


「とにかく何かいい案ないかな? 仲良くなるための」


 立ち上がりつつ、慎也がさりげなく尋ねる。

 同様に立ち上がった葵は顎に指を当てて案を出そうとする。彼の顔はちょうど慎也の目線の先、つまりあかりと同じくらいの身長のようだ。


「うーん」


 葵の真剣な表情を眺めつつ、しばらく待つ。やがて思いついたらしく、パッと表情が明るくなった。


「ありきたりかもだけどプレゼントとかはどう?」

「それいいね! かず……じゃなくて森本くんの誕生日もうすぐだし! あっ」


 声を張り上げたことで和樹に聞かれたかもしれないと、彼の方を窺ったが彼はあかりとの会話に夢中なようだった。ほっと胸を撫で下ろし、葵に向き直る。


「めっちゃいい案出してくれて助かったよ。……それでさ、頼みがあるんだけど、良かったらプレゼント選び付き合ってくれない?」


 誘ったのは決してプレゼント選びに自信がないからではない。むしろ、和樹のドストライクを狙える自信がある。ただ、自分でも思いつかなかった案を出してくれた彼がいれば、より確実だと思ったからだ。

 散々、失敗してきてもう失敗はできない。そういった考えから慎也は葵をプレゼント選びに誘った。


 葵は驚いた様子だったが、すぐに二つ返事で了承した。慎也は和樹と深められる可能性がさらに高まったことに安堵する。


 だが、彼は気づかなかった──和樹と仲を深めることとは別に、葵とも仲良くなれたことを喜んでいる自分がいることに──

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