第25話 キス
僅かな沈黙の後、慎也が口を開いた。
「──ごめん。俺は葵の気持ちに応えることはできない……本当にその──すまない」
慎也は葵の目を真っ直ぐに見て伝えた。
いろんな気持ちが押し寄せてきて、思わず口から飛び出した謝罪の言葉が、彼に正しく伝わっているのかはわからない。
だがそれでも、謝らなければ慎也の気が済まなかった。
慎也の言葉に、葵は静かに頷く。
「謝らないでよ。ぼくは気持ちを伝えられただけで満足なんだから。ありがとう、慎也」
彼はどこか晴れ晴れとした穏やかな笑顔でそう言った。
だが、視線を落とした彼の表情にまるで何かを諦めてしまったような、切なげで寂しい虚無感が影を落とすのを慎也は見逃すことができなかった。
すぐに顔を上げて「あ、心配しなくてもちゃんと元には戻すから大丈夫だよ」と気丈に手を振る葵の言葉を遮って、慎也はほとんど叫ぶに近いくらい大きな声で彼の名を呼ぶ。
「葵!」
呼ばれた本人、そして隣のあかりまでも驚いた顔で慎也の方を見る。
「こんなことを頼むのは失礼かもしれない。けれど俺は! 葵と仲良くなれて、好きになってもらえて本当に嬉しかった。だから! これまでと同じ、いやそれ以上に俺と喋って、遊んで、仲良くしてくれないか! 俺は葵との関係がこれで終わりだなんて絶対に嫌だ!」
近くに自分がいることで彼を苦しめることになるかもしれない。
和樹のように自分のせいで何かを諦めさせることになるかもれない。だからといって遠ざけて、今までみたく理解した気になって、本当は何も知らないまま、気づかないまま暮らしていくなど御免だった。
同じ阿呆ならせめて人とわかり合う努力をする阿呆でありたい。
心からの叫びは彼に届いただろうか。それとも、考えられない、と拒絶されただろうか。
慎也がおもむろに顔を上げると、葵はその大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて泣いていた。
「……うんっ!」
同時に、嬉しそうに満面の笑みも浮かべている。
「わ、私もっ! 葵くんのこともっと知りたい! 仲良くなりたい! ……いいかな?」
あかりも勇気を振り絞ったように叫ぶ。
「もちろんっ! ……あり、がとう。ぼく、こんなに幸せな気持ちになった、の……初めて、だよ」
瞳に涙を溜め、照れ臭そうにはにかむ彼の姿は、満天の星々が降り注ぐ湖も相まって、どこか浮世離れしたような現実とは思えない美しさがあった。
だが、彼の心は紛れもなく人間そのもので、間違いなく今、目の前に存在している。
なぜなら、瞳に映る葵の瞳にもまた、自分とあかりの姿が映っているのだから──
三人の間に朗らかな夜の風が吹いていく。それは先よりも暖かくて、優しくて、ちょっぴり楽しげだった。
幼子のように目を泣き腫らした葵が二人に笑いかける。
慎也とあかりも、同じように微笑みを返した。
「二人とも、ありがとう。──そろそろ、みんなのところに戻ろっか。片付け放り出してきちゃったし」
葵はえへへ、といたずらっぽい笑みを浮かべて、桟橋から砂浜の方へと向けて歩き出す。
だが、途中で二人がついてきていないことに気がついたらしく、不思議そうな顔をして振り返った。
「二人とも戻らないの?」
慎也はあかりと顔を見合わせた後、葵の方へと向き直り、言い出しにくそうに口を開く。
「あのー、俺たちの身体を元に戻してくれるっていうのは……」
「──あっ! ごめん忘れてた! す、すぐに準備するね!」
意地悪でもドッキリでもなんでもなく本当に忘れていたらしく、葵は慌てて二人のところまで踵を返す。
相変わらずの葵になんだか気が抜けるようだったが、慎也もあかりと向かい合って準備を始める。
「よし──じゃあこの実験もこれで最後だな、あかり」
「うん。今までわがままに付き合ってくれて──ありがとね」
「そんなことねえよ。こっちこそ感謝することばかりだ。本当にありがとう」
しばしの間、互いに見つめ合う。走馬灯の如く、今までの日々が脳裏を過ぎ去っていく。
だが、それも今日でおしまいだ。
明日からは自分の身体で自分自身として生きていくのだ。
少し寂しい気もするが、本来の姿に戻るだけである。それに何もあかりと別れるわけじゃない。また、すぐに会うことになるだろうし、もっとも、彼女とは長い付き合いになりそうな予感がした。
「──じゃあ、いくぞ」
「──うん」
慎也は軽く背伸びをし、あかりの頭を優しく引き寄せる。互いの顔が近づき、やがて目を閉じる。
この目を開けた時にはもう、元の身体に戻っていることだろう。
二人の唇は惹きつけ合うようにその距離を縮めていき、そして──
「二人は何やってるの?」
重ならなかった。
心底不思議そうな顔をした葵が首を傾げる。
もしかして彼はまたうっかり忘れているのだろうか。慎也は苦笑いを浮かべつつ、答える。
「キスするんだよ。入れ替わるのに必要なんだろ?」
「ああ、そういうこと!」
葵は得心いったように手を打つ。
慎也は彼がようやく思い出してくれたことにほっと安堵し、あかりとのキスを再開しようとする。が、またも阻まれる。
「それ、実は関係ないんだ」
「え?」「え?」
慎也とあかり、二人は思わず自分の耳を疑う。
関係ない、とはいったいどういうことだろうか。
「別にわざわざちゅーしなくても、目さえ瞑ってくれれば身体を入れ替えられるんだ。あの時はせっかくならドラマチックな方がいいかなーって思ってタイミング合わせてみたけど」
あはは、と気の抜けた笑い声を上げる葵。
慎也はあかりと顔を見合わせる。
おそらく彼女と全く同じことを考えているだろう。
この目の前でへらへら笑う妖精に、初めて張り手を食らわしてやりたくなった、と。
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