エピローグ

第26話 日常

 残暑も遠のき、木々が紅や橙、黄土色に色づき始め、かぼちゃが美味しく感じる季節。

 あかりはセミロングの黒髪と学校指定の紺のスカートをひらめかせ、特別教室棟の一階廊下を突き進んでいた。

 その進む先には、ここしばらく足が遠のいていた、あかりにとって馴染み深いあの場所がある。早くそこに着きたくて心なしか少し早足で駆けていった。


 急く心を抑えて、ようやく『茶道室』と書かれたプレートの下にある扉の前までたどり着く。

 扉の窓には磨りガラスがはまっていて中の様子は窺えない。そうでなくとも、この扉の先にはもう一枚、襖が隔ててあるので、部屋に誰がいるのかは実際に入るまでお楽しみだ。

 あかりは一呼吸置いて、扉とその奥の襖を順番に開けた。


「おっすー! 舞ちゃん! 元気にやってる……かい?」


 襖の先、八畳ほどの狭い茶室にはあかりが名前を呼んだ舞、というポニーテールの女子生徒の他にもう一人、意外な人物が紅茶をくゆらせていた。


「恵先輩! どうしてここに?」


 目を見開いて驚くあかりに、恵はしてやったり、という笑みを浮かべて言う。


「茶道部に新しい後輩の子が入ったって聞いたから来ちゃった。あかりちゃんが誘ったんでしょう? ね? 舞ちゃん」

「はい! あかり先輩に声かけてもらえて本当によかったです」


 舞はキラキラした瞳であかりを見つめた。

 慣れない尊敬の眼差しにあかりはくすぐったいような、恥ずかしいような居心地の悪さを覚えつつ、未だどや顔を崩さない恵へと視線を戻す。


「恵先輩、受験生なのに、その、ここにいて大丈夫ですか?」


 気を遣うように尋ねるあかりに恵は「たまには息抜きも必要でしょう? それにこう見えて私、やる時はやる女だから大丈夫よ」と返す。彼女にしてはだいぶ根拠の薄い「大丈夫」だが、彼女がそう言うのならおそらく大丈夫なのだろう。


「──それに」


 続ける恵の表情がふわっと緩む。


「私、この場所が好きだもの。だから、あかりちゃんと、そして舞ちゃんが来てくれてよかった」


 彼女の安心しきった優しい笑顔を見て、あかりはこの場所を残す決断をして本当に良かったと心から思った。今日まで面倒を見てくれた恵と、この時期ながら茶道部に新しく加入してくれた舞には感謝してもしきれない。

 あかりはそれを僅かながらでも伝えようと口を開くが、「あっ」と何かを思い出したらしい恵によって遮られたため、言葉は紅茶の香りの中に溶けていく。


「そういえば、あれから全然聞いてなかったけれど、例の森本くんとはどうなったの? あかりちゃん」

「あかり先輩の恋バナですか? 聞きたいです!」


 ニヤニヤとした笑みを浮かべる恵とその隣で一段と瞳を輝かせる舞に詰め寄られて、思わず苦笑する。

 しばらく見ないうちに恵は恋人の影響を受けてしまったらしい。あかりは脳裏にいやらしい笑顔で迫ってくる里沙子の姿を過らせつつ、まるで今日の朝ごはんでも聞かれたかの如く軽やかな口調で答える。


「告白して、振られちゃいました」


 わかりやすく二人の表情が固まるのがなんだかおかしかった。だが、雰囲気が暗くなるのも嫌なので、早々に続きを口にすることにした。


「でも、いいんです。わかってたことですから。きっとちょっと前までの自分だったら、告白せずに諦めたふりだけして、ずるずる引きずってたと思います。でも、ちゃんと気持ちを伝えられて、ちゃんと振られて、それでちゃんと前に進めるからいいんです」


 初めは驚いていたように目を見開いていた恵もあかりの話を聞いて微笑む。


「そっか」

「はい。まあ、あわよくば付き合いたかったですけどね」


 あかりが冗談めかすと、舞も穏やかに笑った。もうすでに茶室内にはいつもの暖かくて懐かしい雰囲気が戻っていた。


 ──ああ、落ち着くなあ。ずっとこうしていたい。


 しみじみとしつつ、二人が囲むちゃぶ台に自分も交ざろうと腰を下ろしかけた時、あることを思い出した。


「……あー、私教室に古文のワークブック、置いてきちゃったかも」


 急いでリュックの中を確認するも、そこにワークブックの影はない。


「ちょっと取ってきます! すぐに戻るんでお二人はゆっくりしててください!」

「いってらっしゃい」「お気をつけて!」


 二つの声に送り出されてあかりは茶道部室を飛び出した。西日が差し始めて眩しい。

 何だか前にもこんなことがあったような、とデジャブを感じる。

 あかりはその正体を遠い記憶から探ろうとしてやっぱりやめた。それよりも今は古文である。せっかく恵先輩が遊びにきてくれたのだ。いっときも無駄にはしたくない。

 あかりはスピードを上げて階段を駆け上がっていく。


 階段を昇り切って、渡り廊下を巡って、まだ何人かの生徒が残る教室をいくつか通り過ぎて、ようやく普段通う教室が見えてくる。

 相変わらず、遠い場所にあるなあ。いや、この場合、茶道部の部室が遠いのか。まあ、どっちでもいっか。

 そんな他愛もないことを考えながら西日の中を歩いていく。だが、気持ちが急いているせいか、教室が近づくにつれ、無意識に駆け足になってしまう。と、不意に廊下の向こう側から同じように廊下を走ってくる人影が目に入った。

 かきあげた黒髪。身長はあかりより頭ひとつ分高いくらいだろうか。一見、細いように見えるが、意外と筋肉がある。そして、遠目からでもわかる通った鼻筋とはっきりとした二重。その人影はあかり自身、よく見知った人影だった。


「慎也」


 教室の前で立ち止まり、彼の名を口にする。


「おう、あかりか」


 向かい側から近づいてきた彼も立ち止まった。二つの視線が正面から絡み合い、自然と二人の表情が緩む。


「どうしたの? 今、部活中じゃないの」

「里沙子先輩から逃げてきた。『古文の課題教室に忘れたんで』って言って。あの人受験ないからって部活に好き放題入り浸りすぎだよな。しかも今日は顧問が休みだからいつもより大暴れしてる」


 たまったもんじゃない、と顔を顰める慎也にあかりは深く共感する。あかりもしょっちゅう里沙子の餌食になっているので痛いくらいに気持ちがわかった。が、それゆえに疑問が湧いた。


「よく逃げてこられたね。絶対逃がさなそうなのに」

「代わりに葵を差し出してきた。葵には申し訳ないことをしたな。かわいそうに」


 慎也は遠い目をして答えた。あかりは、自分から生贄に差し出しておいてよくもまあ抜け抜けとそんなふうに言えるな、と白々しい目を向ける。

 だが、生贄にされたらしい彼は最近、可愛さ余って憎さ百倍みたいに感じてきたところだったので、むしろいい気味かもしれない。

 内心、慎也に親指を突き立ててほくそ笑んでいると、彼から「とりあえず中、入ろうぜ」と催促される。

 あかりがそれに頷いて扉を開けると──


「あ! 慎也! もう部活終わったの?」

「おつかれ。慎也、あかりさん」


 がらんとした夕暮れの教室には、適当な椅子に座る和樹と、これまた適当な机に腰掛ける柚香の姿があった。


 ──あかりさん。


 他意はないとわかってはいても、不意に名前を呼ばれると未だにドキッとしてしまうのが悲しき乙女の性だった。


「部活は終わってねーぞ。あと別に俺が終わるまで待たなくてもいいって言っただろ? その……待たせるの悪いし」

「いーの! 今日は待ちたい日なの! それに和樹が話し相手になってくれるから退屈しないし!」

「あんま和樹に迷惑かけるなよ。和樹も面倒くさかったらガツンと言ってくれていいんだぞ?」

「別に迷惑じゃないよ。僕も今日は待ちたい日なのかもね」

「ほーら! 和樹は優しいんだから。てか、慎也私のこと面倒くさい女だって言った! ひどい!」

「そうは言ってないだろ!」


 あかりを置いて会話は転がっていく。だが、全く悪い気はしない。むしろその逆、この場が心地いいとさえ感じる。かけがえのない親友がいて、想いを寄せる人がいて、そして、世界中を探し回ったとて二人といない、運命を分かち合った戦友であり、きょうだいでもある彼がいる。

 不思議な関係だけれど、とても暖かい関係。


「────だからそんなこと言ってないだろ! なあ、あかりも柚香に何か言ってやってくれよ」


 柚香と戯れあっていたらしい慎也がこちらを振り向く。つられるようにしてこちらを見た柚香とも目が合う。そして、楽しそうに笑っていた和樹にも眼鏡越しに何かを期待するような視線を送られた。


 ああ、私は何て幸せなんだろう。


 自分のありのままを受け入れてくれる仲間が、友達がいる。きっと彼らとはこの先、何年、何十年と変わらぬ関係を築いていけるだろう。

 根拠など無きに等しいけれど、不思議とそんな予感がした。


 皆があかりの言葉を待っている。何を言うべきかはわからない。けれど、心に浮かんだ言葉をそのまま口にすれば、きっと彼らはそれを笑顔で迎えてくれるに違いない。

 あかりは口を開き、空気を吸う。と、その瞬間、がらり、と背後の扉が勢いよく開いた。

 皆が一斉に扉の方へと目を向ける。


「ひどいよ慎也! ぼくを置いていくなんて……ってみんなで集まって何の話をしてるの?」


 闖入者の正体はぷりぷりと怒った様子の葵だった。

 だが、放課後の教室にしては些か珍しい光景に早くも怒りを忘れたようだ。不思議そうに首を傾げている。

 そういえば、すっかり彼のことを忘れていた。頼んでもないのに人生を大きく変えてくれた悪い妖精。けれど、今では感謝している──こともなくもなくもなくもない、くらいがちょうどいいだろう。

 思い返せば、身体を元に戻してもらった後も色々あった。だが、思い出に浸るのは後にしてそろそろ答えてやらねば、また彼にいたずらされるかもしれない。

 あかりは口を開けかけて、ふと、黒板に書かれた今日の日付が目に入る。


 ──いたずら、ねえ。……そうだっ!


 あかりは口元にいたずら心を忍ばせつつ、親しみと憎しみと優しさとほんのちょっぴりの皮肉をこめて、彼にこう答えた。


「ハロウィーンの妖精は本当に存在するのか、って話」

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スクランブル・マジックアワー 三ツ石れい @mitsuishirei

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