第2話 入れ替わり
「うわああああああああああ!」
「きゃああああああああああ!」
男子と女子、二つの悲鳴が重なって刹那の沈黙を切り裂く。二人して仰け反り、尻を引き摺りながら後退した。
あかりは混乱した。目の前にいるのは紛れもなく自分自身だ。
ドッペルゲンガーか、生霊か、それとも自分はすでに死んでいて、魂となって生前の身体を見ているのか。あるいは単純に頭がおかしくなったのかもしれない。
様々な可能性が脳内を駆け巡る中、ある違和感が頭を掠めた。自分の発していた悲鳴が低かったのだ。
ほとんど働いていない頭で、反射的に喉に手を当てる。そこでさらなる違和感にぶつかった。喉にゴツゴツとした腫瘍のようなものがあるではないか。
私、死ぬかもしれない。
パニックになり、下を向いてどう足掻いても自分から見ることができない喉元を見ようと躍起になっていると、不意に気がつく。喉を押さえた自分の手がいつもより大きいことに。それどころか、黒いズボンを履いている。金ボタンが胸元から腹にかけて光っている。
これはどういう……?
「──あの」
次々と押しつけられる謎にもはや思考を放棄して、呆然とへたり込んでいると、すぐそばから声がかかる。見れば、自分の姿をした何者かがおずおずといった様子で口を開いていた。
「もしかして石田さんだったりする? 俺、高坂なんだけど」
何を言っているのか理解が追いつかなかった。
コウサカ? コウサカってあの高坂?
怪訝な顔をして頭の上に疑問符を浮かべているあかりに、慎也はほら、と見覚えのあるピンク色をした手のひらサイズのコンパクトミラーを向ける。あかりの視線の先にいたのは、鏡に映った高坂慎也の姿、つまり、彼の姿をした自分だった。
「俺たち、入れ替わっちゃったのかもしれないな」
困ったように苦笑いしながら頬をかくあかりの姿をした慎也に、彼女はこれがどうか悪い夢であってくれ、と祈るばかりであった。
「一旦、整理していい?」
電気をつけた明るい教室で一組の男女が対面に並べた椅子に座って向かい合っている。
あかりはこんがらがりそうになる頭を必死に働かせて言葉を続けた。
「えーっと、私が高坂くんの身体に移っちゃって、高坂くんが私の身体に移っちゃったってことだよね」
「そうだな」
慎也が頷く。
「で、入れ替わっちゃった原因はたぶん二人がぶつかったから」
「そう思って元に戻らないか何度か試してみたけど、結局ダメだったな」
「どうしよう……」
「まいったな……」
二人のため息が重なる。
あかりは慎也の方を見やった。彼は紛れもなく自分の姿をしているが、脳がその事実を全力で拒否している。まるで質の悪いトリックアートか錯視の図形でも見ているかのようだった。ずっと見ていると頭がおかしくなりそうなので、早々に目を逸らす。
何故こんなことになってしまったのか。ぶつかって入れ替わるなど、ドラマやアニメじゃないんだから勘弁してほしい。
あの時、無理に立て付けの悪い扉を開けようとしないで大人しく開けっぱなしだった前の扉から出ていれば良かった。
再びため息をつく。もしかすると、ぶつかった時に気絶して、まだ夢を見ているのかもしれない。あかりは淡い期待を抱くが、ぶつかった拍子に切ったと思われる唇の裏側の痛みが声高々にそれを否定していた。
こういう時、ドラマやアニメではどうしてたんだっけ、とぼーっと考える。その時、彼女の背中を電流が走る。
「──キス」
「え?」
突然呟かれた何の脈絡もない言葉に慎也が怪訝な表情を向ける。だが、あかりはそれを意に介さず、ひとり鼻息荒く興奮した様子で話し始める。
「キスだよ、キス! もしかして私たちぶつかった拍子にキスしちゃったんじゃない? ほら、よくドラマとかであるじゃん! キスでお互いの身体が入れ替わっ……ちゃう……やつ……だから…………」
初めこそ大発見に我を忘れて威勢よく口を開いたが、途中で冷静さを取り戻し、今から自分が言わんとすることに恥ずかしさを覚える。結果、尻すぼみになり、最後まで言い切ることができなかった。
だが、慎也は彼女の意図するところに気づいて得心いった顔になる。
「あー、なるほどな。確かに口の中切れてるな……よし、試してみるか」
「ちょ、ま、待って待って! ほ、本当にする、の?」
「ああ。元に戻るかもしれないんだから試すしかないだろ。別に自分とキスするようなもんだし恥ずかしがることないって」
「そうかもだけど……」
「ほら、下向いてくれないとキスできないだろ」
自分の姿をした別人に迫られるのは奇妙な気分だった。だが、彼の言う通り、試してみるほかないのだ。あかりは観念したように目を瞑って、慎也がキスしやすいように首を曲げる。
初めてのキスは好きな人でないにしろ、せめて自分の姿で、自分の姿をしていない人と経験したかった……。
そう嘆くあかりの唇に柔らかいものが触れる。緊張で肩が強張る。その一方で、私の唇って意外にふにっとしてて柔らかいんだな、とどこか他人事に考える冷静な自分もいた。
永遠のようで一瞬だった時間が過ぎ、おもむろに目を開ける。
頭一つぶん下に自分の顔。同じように見上げる瞳が落胆の色に変わった。
「くそ、ダメかー!」
「……みたいだね」
念の為、当時の状況を再現して、教室後方の扉付近でぶつかりながらのキスも試してみたが、結果は変わらなかった。渾身の妙案も駄目となるといよいよ望みは薄くなり、入れ替わったまま戻らないという可能性が現実味を帯びてくる。だが、あまりにも非日常感が強く、なかなか実感が湧かない。
あかりはもはや万策尽きて途方に暮れていた。
慎也も同様に困惑した表情で腕を組んでいたが、やがてやむなしといった様子で口を開いた。
「仕方ない。とりあえず誰かに事情を説明してみるか」
あかりも彼の意見に賛成して頷こうとする。が、すぐに思い直す。
「だ、ダメ!」
「なんで?」
否定されるとは思ってもみなかったのか、彼は驚いたように尋ねた。
「キスして入れ替わったなんて知れたら、その、変なふうに噂されるし……だいいち柚香になんて説明すればいいの?」
「そんなのぶつかった拍子に事故でって言えばいいだろ。悪いの俺だし、言いにくけりゃ俺が説明するけど」
「い、いや! そういう問題じゃなくて! 仮に事故だって言っても柚香が信じてくれるかなって……。てか、そもそも入れ替わってること自体信じてもらえるかわかんないし、変な子だと思われたら高校生活終わりだし……」
「じゃあどうするって言うんだよ」
慎也が呆れたように言う。
きっと彼にはわからないのだろう。いや、男には理解できるまい。女の醜い感情と容赦無く他人を蹴落として下に見る性根。それが取り巻く世界を。
例え事故だったとしても、他人の彼氏を奪う素振りを見せた奴など信用されない。表面上は何にもないように見えるが、蟠りは絶対に残る。それどころか「私、入れ替わっちゃったの」などと吹聴して歩いた日には最後、頭がおかしいまではいかずとも、不思議ちゃん扱いされて周りから距離を置かれる。孤立する。そうなれば、もはや高校生活を生き抜くことなんて出来ないのだ。
あかりは決心したように顔を上げて、口を開く。
「──バレないようにお互いになりきって入れ替わった身体のまま生活しよう」
我ながら、常軌を逸した提案だと思う。その証拠に彼の表情は呆れを通り越して愕然としている。
上手くいくかはわからない。辛い思いもするかもしれない。
それでも──
ちっぽけなプライドだと、弱い心だと笑われても、あかりは独りになる方がよっぽど嫌だった。
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