第3話 新生活

『バレないようにお互いになりきって入れ替わった身体のまま生活しよう』


 身体が入れ替わったせいで頭までおかしくなったのかと疑ったが、あかりは大真面目に言っているようだった。それは無理があると反論したが、意外にも彼女は強情で譲らず結局押し切られてしまった。


 そういった経緯があって、慎也は独り見知らぬ土地にて画面の中の地図が指す彼女の家へと歩を進めていたわけだが、どうにも入れ替わった身体に慣れず、何度か躓いて転びそうになっていた。


 まず、身長のせいかそれとも彼女自身の運動能力の問題か、足が思ったよりも上がらず階段に足を引っかけるのだ。

 それに加えてスカートがひらひら揺れるわ、スースーするわで全く気が休まらない。入れ替わったままの生活に早くも音をあげそうになる。

 一つ良い点があるとすれば、電車が揺れてもさほどふらつかないところだろうか。身長の低さも関係していると思うが、以前、男と女で重心の位置が違うと聞いたことがあった。女性の身体の方が幾分か重心が低いので、安定感があるらしい。だが、それだけだ。


 いずれにせよ、なるべく早く元の身体に戻りたい。

 そう慎也が祈っていると、手元の携帯電話からメッセージの着信音が鳴る。

 送信主はあかりだった。


『高坂くんのお家に着きました。おじゃまします』


 慎也は画面に指を滑らせ、手早く『了解。こっちももうすぐ到着する。何かあれば聞いてくれ』と返信して再び地図の画面を開く。


 身体が入れ替わったとはいえ、携帯電話はそれぞれ自分自身のものを使うことで意見が一致していた。後々、連絡内容で話に食い違いが生まれたり、突発的な電話などに対応できなかったりする可能性はあるが、お互いの身体で生活する上で困ったことがあった時に、使い慣れた携帯電話の方がスムーズに相手に連絡ができると考えたのだ。

 だが、慎也とあかりは自覚していないものの、その真意は別のところにあった。彼らにとって携帯電話は精神安定剤の役割を果たしていたのだ。自分の携帯電話を手放すのは何となく憚られたのはそれゆえである。


 現代社会において依存とまではいかずとも、人は日々その小さな機器に頼って生きている。個人情報の保持、他者との連絡手段からネットワークへのアクセス、娯楽まで何でもこなすことができるそれはもはや人間の生活の一部として組み込まれており、自己の化身でもあった。自分が自分であるというある種、証明書みたいなものを手にしていることで、ある程度、入れ替わり生活への不安は軽減される。自覚はせずとも、本能的にそれを感じ取っていたのだ。


 そんな人類の叡智の結晶に従い、慎也が住宅地を進んでいると目的の一軒家に到着した。

 暗くて外観はよくわからないが、表札には『石田』と彫られている。間違いなく彼女の家だった。


 慎也は恐る恐る敷地に足を踏み入れ、緊張した面持ちで玄関の扉を開けた。

 ガチャリという音とともに、自宅とは明らかに異なる他人の家の匂いが鼻腔をくすぐる。

 ゆっくりと中へと入り、ローファーを脱いで廊下へと進むと、あかりの説明通り、玄関入ってすぐの右手側には洗面所があった。普段の慎也は帰宅して手を洗わないこともしばしばあるが、今日は他人の家にいるという緊張感もあって、入念に手を擦る。


 本当に俺、石田さんになっちゃったんだな……。

 鏡に映る自分の姿をまじまじと見る。

 石鹸を流した手で頬に触れる──冷たい。頬をつねる──痛い。だが、未だにしっかりとした実感が湧いてこない。

 ある日突然、ろくに喋ったこともない、辛うじて名前を知っている程度のクラスメイトの少女の姿になってしまったのだから無理もないのだろう。

 慎也は再び頬をいじる。自分とは異なるもちもちとした肌の感触が新鮮だった。好き放題されている顔から視線は下へと降りていく。


 入れ替わったのは身体も──


 慎也はおもむろに自らの胸にある膨らみへと手を伸ばす。が、触れるか触れないかのところで手を止め、逡巡した。


 勝手に彼女の身体に触れてしまって良いのだろうか。彼女は何ともない顔をしていたが男である自分に身体を預けるなど、不安でたまらないはずだ。生活する上で避けては通れない風呂やトイレなどの事情もある。信じて預けてくれた彼女を裏切ることはできない。


 だが、同時に年頃の男子としての興味も無いわけではなかった。異性の身体を見たい、触れたい。自分さえ黙っていれば決してバレることはない、と悪魔が囁いてくる。理性と本能の葛藤に心が乱される。

 そして、ほんの僅差で本能が勝ちそうになった瞬間──


「何やってんのあんた」

「うわあああああ!」


 突然、背後から声をかけられて飛び上がる。振り向くと、四十代半ばくらいの女性が訝しげにこちらを見ていた。女性は目鼻立ちがあかりによく似ており、彼女の母であると容易に判断できた。


「い、いや、ちょっと髪伸びたかなーなんて思いまして」

「ふーん、そう。今日は遅かったわね。もうご飯できてるからさっさと制服着替えちゃいなさい」

「は、はーい」


 少し変な目で見られた気がしたが、特に怪しまれてはいないようだった。そっと胸を撫で下ろす。

 まさか娘の身体の中に知らないの男の精神が入っているとは夢にも思わないだろう。しかし、万が一に備えて、うっかりボロを出さないように気を引き締める。

 今のところ、やましいことは何もない。これからは邪な感情は捨てて、元に戻るその日まで石田あかりに徹すれば良いだけの話だった。


 心機一転、慎也は清々しい気持ちで洗面所を後にする。

 だが、そのわずか数十秒後に、あかりの部屋で制服から着替えるというミッションに頭を抱えることになろうとは、この時はまだ想像すらしていなかった。

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