第一章

第1話 転校生

 四月も中旬に差し掛かり、桜の花はすっかり散って瑞々しい葉桜へと見ちがえた頃、一人の転校生がやってきた。


「あ、安岐葵と言います! 前の高校ではテニス部だったので、テニス部に入ろうと思ってます。よろしくお願いします」


 安岐葵あきあおい、と名乗る転校生はぺこり、と頭を下げて照れ臭そうにはにかんだ。


 かわいい。

 葵の自己紹介が終わって高坂慎也こうさかしんやが初めに思い浮かんだ感想はそれだった。葵を見た瞬間、ファンタジーの物語に出てくる妖精は実在していたのか、と思わず勘違いしかけた。


 華奢な体躯にちょこんと乗った頭。細い首筋。茶色っぽい猫っ毛は日光に透けて神々しい。そして、透き通るような白い肌にくりんとした大きな瞳は宝石のように輝いている。

 慎也は儚げで可憐なその容姿から目を離すことができなかった。もし、目を離せば、まるで夢から醒めるように目の前から姿を消してしまうのではないか。そんな気さえした。


 慎也の心に何とも形容し難い感情が広がっていく。十人いたら十人がこう答えるだろう。それは恋だ、と。

 だが、彼自身はその感情がそう言った類のものではないことに充分な確信を持っていた。それよりももっと複雑で不明瞭な、言葉では言い表せない何か──だが、改めて言おう。それが恋愛感情などでないことは間違いない。


 なぜか──それは、安岐葵がれっきとした男だったからだ。




「転校生、めっちゃかわいいよな」


 朝のホームルームを終えるやいなや、机の周りを取り囲まれる葵を横目に、慎也は森本和樹もりもとかずきに話しかけた。


「そうだね、こう言って良いのかわからないけど、女の子みたいだ」

「ああ、学ラン着てなかったら普通に女子だと勘違いしてた」


 女の子みたいだ、と評する和樹に同意する。


 そうなのだ。この高校の制服が男子は学ラン、女子は紺のブレザーと決まっていたから良いものの、もしこれが男女ともに似たような制服だったり、制服の規定がない私服登校の高校だったりした場合、朝の自己紹介だけでは男子であると見抜くことができず、今頃勘違いしたままだったはずだ。それで困ることがあるかと言われれば特にないのだが、後から男子と知る衝撃は計り知れないものがあるだろう。


「慎也、ああいう感じの子が好みなの?」


 あり得たかもしれない可能性に空恐ろしさを感じていると、その様子を見ていたらしい和樹が尋ねる。黒縁の眼鏡の奥に試すような鋭い瞳が光る。


「まさか。てか、そもそも俺彼女いるし」


 そう答えて、葵を挟んで教室の反対、廊下側の壁際に座る少女に目をやる。どうやらお喋りに夢中らしくこちらの会話は聞こえていないようだった。


「そっか」


 慎也の答えを聞いて、和樹の目付きが和らいだ。


 浮気を疑われているのか、はたまた別の意図があるのかはわからないが、たまに和樹の目が真剣になる時がある。

 慎也としては、彼女を放って浮気をする気などさらさら無いし、そんな度胸もないので誤解もいいところなのだが、どうも彼はそれをわかっていないらしい。親友なのに。というか、親友ならむしろ、浮気の一つくらい大目に見てくれてもいいのでは、とも思うが、それを口に出すと、ますます和樹の目が怖くなりそうだったのでやめておく。


 いずれにしても、普段の和樹は気のいいやつで話も合う唯一無二の親友である。彼に見限られないように浮気だけはやめておこう。慎也はそう心に誓いつつ口を開く。


「そういや和樹さ、今度新しく公開する映画、観に行かね?」

「いいね。『いたずらな恋』でしょ? ちょうど僕も観たいと思ってたんだ」


 慎也は彼の返答に満足する。何の映画を観に行くか言っていないのにも関わらず、ずばり当てて見せた。にやっと笑う和樹を見て、慎也も笑い返した。

 やはり彼とは、気が合う。




 ***




「転校生の子、すごいかわいくない?」


 朝のホームルームを終えるやいなや、机の周りを取り囲まれる葵を横目に、石田いしだあかりは佐々木柚香ささきゆずかに話しかけた。


「そうね、まるで女の子みたい。でも男としてはちょっとねーって感じよね」


 多少ぼやかしながらもばっさり切り捨てるような彼女の物言いに、あかりは内心苦笑いを浮かべる。

 やっぱり自分に自信を持っている人の言い様は違うなあ、と思いつつ、彼女に「女の子みたい」と評された自己紹介の時の葵の姿を思い起こしていた。


 彼の姿を目にした瞬間、まるで小さい頃に読んでもらった絵本の中から飛び出してきた妖精か天使のようだと思った。

 小柄なのにすらっとしていて、肌は新雪のように真っ白。ふわふわの柔らかそうな髪質。二重で大きな黒目は吸い込まれそうなほど深くて、唇はぷるんと潤いを湛えている。

 およそ女の子と言って差し支えないほど可憐な彼の容姿に、思わず息を呑んでいた。目を離せないでいた。まるで恋に落ちてしまったかのように。


 だが、同時に己の中から沸々と負の感情が湧き出でてくるのも感じた。女である自分よりも女の子らしい男が存在するのなら、いったい自分は何者なのか、と。


 彼と比べて、足は細くないし顔も小さくない。そのくせ黒目は小さく三白眼だ。

 かわいくない。

 無論、土俵が全然違うのは百も承知である。葵は男で、自分は女だ。性別も恋愛対象も違う。だが、それゆえに女である自分よりも男である彼がかわいいという事実は、なけなしのプライドを容赦無くズタズタにして惨めな気分にさせるのだ。

 だから、葵を目にして抱いた感情は恋などではない。そもそも自分は──


「あ、ごめん。あかりってああいうのがタイプだった?」


 急に押し黙ってしまったあかりを見て、自らの発言で不機嫌にさせたと勘違いしたのか、柚香がからっと謝る。


「あ、ううん、そういうわけじゃないけど……。柚香はもっと男の子っぽい子が好きだよね。高坂くんもそうだし」


 あかりは取り繕うように話題を彼女のことへと移した。


「まあね。やっぱいざって時守ってくれそうな男子じゃないと」

「いざって時ってどんな時?」

「いざって時はいざって時よ」


 得意げにそう宣う彼女に「そっか」と笑いかけつつ、葵を挟んで教室の反対側、窓際に佇む青年に目をやる。

 あかりが視線を注ぐのは、たった今話題に上がった柚香の恋人たる高坂慎也。ではなく、その隣、森本和樹だった。


 慎也と仲良さそうに話す和樹を見て内心ため息をつく。聞くところによると、彼らは一年生の頃に意気投合して、それ以来、自他ともに認める親友らしい。


 そんな和樹に想いを寄せていること、そして、仲良くしている柚香の恋人が慎也だったこともあって、彼らがあかりを気にする以上にあかりは彼らのことを気にかけていた。


 そして、それゆえに気づいてしまった──和樹が慎也に向ける視線が慎也のそれとは違うことに。


 本人にはとても訊けないので、完全に女の勘だ。だから、間違っているかもしれない、むしろ間違っていてほしいと祈るまである。

 だが、たぶん、おそらく、きっと森本和樹は高坂慎也に対して、恋愛的な意味で好意を抱いている。あかりはそう、確信していた。




 二年生になって授業の内容はますます難しくなり、先生が黒板に書いた板書と睨めっこしていたらあっという間に放課後になっていた。

 まだ四月なのにこの体たらくでは先が思いやられるな、と自らの将来を案じつつ、あかりは机の周りを整頓し、部活に行く準備を始める。と、既に帰る支度を済ませたらしい柚香が声をかけてきた。


「あかり! 今日一緒に帰らない?」


 ──きた。

 心臓がひときわ大きくどくん、と鼓動し始める。


「あー、うー、えーっと今日は部活に行こうかなーなんて」

「テニス部?」


 柚香の表情が曇る。剣呑な雰囲気を感じて背中に冷や汗が伝う。


「あ、いや、うーんと、茶道部の方に行く……かな?」

「ふーん、そう」


 歯切れの悪いあかりに、柚香は突然興味を無くしたように素っ気ない相槌を打つ。それから別れの挨拶もそこそこに踵を返し、あかりが「うん、またね」と返す頃には、彼女は視線を慎也へと移して彼のいる方に歩き出していた。


 ──またやってしまった。

 あかりは背中に滝のような冷や汗が伝うのを感じながら自省した。確実に柚香は苛立っていた。そして、その原因の一端は自分にあるだろう。


 あかりは帰り支度の途中だったことを思い出し、急いで荷物をまとめる。だが、素早く動かす手とは対照的にその心は沈みきっていた。


 柚香には思い通りにならないことがあると不機嫌になる子どもっぽい節がある。彼女自身は表に出さないようにしているつもりだろうが、あかりは人の感情の機微に聡いおかげもあって敏感にそれを感じ取っていた。ゆえに、日頃彼女からの誘いは基本的に断らないのだが、やむを得ず断る場合、不機嫌にさせまいと曖昧な態度をとってしまうと余計に彼女をイライラさせることになるのだ。頭ではそれを理解していたはずなのに、急な誘いに動揺して生来の優柔不断な性質が出てしまった。


 思わずため息を漏らす。だが、いつまでも項垂れているわけにもいかない。

 あかりは慎也と話している柚香を一瞥してから教室を後にすることにした。

 教室を去った後も、彼女の甲高い声が遠くの方から聞こえてくる。先ほどの失敗がいやでも思い出され、再びため息をついてしまう。


 あかりは常々、自分と柚香は友達として釣り合っていないのではないかと疑問に思っていた。

 柚香は自分と違ってモデル体型で顔も整っている。性格だって明るく、同じようにかわいい友達も多い。そんな彼女が慕ってくれているのは嬉しくもあり、不思議でもあった。彼女はきっと対等の友達として見てくれているだろう。けれど、あかりにはその自信がなかった。


 女子にとって容姿は友達選びにおける重要なファクターの一つであることは言うまでもない。ここで大事なのが、図抜けていても駄目だということである。

 あまりに容姿端麗だと今度は僻みの対象となる。かわい過ぎず、かといってダサくもない微妙なラインにいなければならない。当然、容姿が基準に達していないと判断されれば、容赦無く切り捨てられる。

 幸い、あかりは柚香と一年以上の付き合いなので、かわいくないにしろダサくはないと判断されているのだろう。最低限、今時のメイクやファッションに食らいついていて本当に良かったと思う。だが、それもいつまで続くかわからない。化けの皮が剥がれた時が彼女との関係の切れ目に違いなかった。


 あかりは時々、そんな残酷で苛烈な生存競争が繰り広げられている女の世界から逃げたくてたまらなくなる。


 男子はいいなあ……。


 いつも教室で仲良さそうに戯れあっている和樹と慎也の姿を思い浮かべる。きっと彼らの間には格差も上下関係なんてものもないんだろうなあ、と羨ましく思った。

 彼らだけではない。教室にいる男子たちは皆、それぞれの友達と対等に付き合っているような気がした。きっと容姿も、声の大きさも、身体能力だって関係ない真の友情があるのだろう。

 ひょっとすると、女の中にもそれはあるかもしれない──何にも縛られない真の友情が。

 だがしかし、相手が自分より上か下か、周りにどう見られているか、常に気にしてしまうような自分には無縁のものであることだけは間違いなかった。


 そんなふうにネガティブな思考に陥り続け、お通夜のように沈んだ気分で歩いていると、いつの間にか茶道部の部室の前まで来ていた。


 ──先輩に会うのにこんな顔は良くないっ。


 暗い気持ちを入れ替えるべく、頬を軽く二回叩く。それから勢いよく引き戸を引き、踏み込みで上履きを脱いで、さらに奥の襖を開ける。


「めぐみ先輩、こんにちは!」


 茶室に入ると同時に、いつもより気持ち、大きな声で挨拶するが、中には誰もいなかった。


 あかりは、珍しくまだ先輩は来ていないのか、と拍子抜けしつつ、茶室の隅に重ねてある座布団を二枚引っ張り出し、小さいちゃぶ台を挟んで対面に敷く。そして片側に座り足を崩した。


 はあ、落ち着く……。


 古い畳と襖の香りが鼻いっぱいに広がった。田舎のおばあちゃんの家を訪れた時のようなどこか懐かしい、郷愁を感じさせる匂いだ。ずっと包まれていたくなる。

 あかりは誰もいないのをいいことに足を存分に伸ばして、リラックスする。自然とあくびが出た。


 あかりは校舎の一角にある、この八畳ほどの狭い茶室が大好きだった。

 悩み事や落ち込む事があってもここに来るといつも心が安らぐ。茶道部の部員(といっても今は二人しかいないが)以外は入ってこない、不可侵の空間。学校にいる間は唯一、この場所でだけありのままの自分でいられる気がした。


 障子越しに入ってくる柔らかな光と暖かい畳が眠気を誘う。

 つい、うつらうつらしていると、ガラガラと扉を引く音に目覚めさせられた。それからまもなくして襖が開けられ、上気した表情を浮かべる少女、宮内恵みやうちめぐみが現れた。


「あら、あかりちゃん今日はこっち来てくれたのね」


 彼女はあかりの姿を認めると嬉しそうにはにかんだ。その笑顔を見れば、さっきまでうじうじ悩んでいたことが嘘かのように心が晴れ渡った。


「恵先輩、こんにちは。そうです! 先輩とお喋りしたくて……って先輩顔赤いですよ! 体調悪いんじゃないですか?」


 彼女の白い肌は耳まで真っ赤に染め上げられている。あかりは心配になって尋ねるも、「ちょっと走っただけだから気にしないで」とはぐらかされてしまう。

 彼女の慌てた様子にあかりは訝しんだが、「それより、ほらお茶しましょう」と強引に押し切られる。


「あ、恵先輩! お茶なら私が」


 そのまま奥の物置兼給湯室へ入っていく恵を見て、思わず立ち上がる。


「いいからいいから。あかりちゃんは座ってて」

「でも……」


 なおも食い下がるあかりに恵が給湯室から顔を出して言う。


「なあに? 私の淹れたお茶はまずいとでも?」


 あかりが慌ててぶんぶんと首を横に振ると、恵がくすっと笑った。

 彼女の柔らかい笑顔に甘えてありがたく畳の上で待たせてもらうことにする。

 しばらくすると給湯室からほのかに紅茶の香りが漂ってきた。およそ純和風の茶室には似つかわしくないが、あかりにとってはいつもと変わらぬいい香りだった。


 この茶道部は、部活動という名目でその実、あかりと恵のお茶会サークルと成り果てていた。何なら、正式には部ですらなく、同好会である。昨年はもう一人部員がいたのだが、今はもう卒業している。そして今年は新入生がまだ入っていないので、来年、恵が卒業すると部員はあかり一人となる予定だった。


 四月の頭こそ、どうにかその未来を阻止しようと、部員集めに精を出していたが、この頃はもう諦めていた。

 新入生は思ったよりも志が高い子が多く、だらけきった地味な茶道部には目もくれないで、運動部や軽音部といった華があって技術面でも精神面でも自分を成長させてくれそうなところに流れていく。何となくお菓子食べられそうだから、という理由で茶道部に流れ着いたあかりとはえらい違いであった。


 きっとこのまま新たな部員が入ることはないのだろう。それはそれで悪くない気がした。新入部員とうまくやっていける保証はないし、ある日突然、茶道部が解体させられてしまう可能性だってある。そうじゃなくたって──


「どうしたの、あかりちゃん。何か悩み事?」


 小さいお盆に紅茶を乗せて運んできた恵が顔を覗き込む。あかりは先ほどの柚香との出来事を思い出し、ドキッとした。


 やはり彼女には敵わない。何でもお見通し。この優しい笑顔と温かさに包まれたら何でも話せる気がした。


「実は──」


 恵は文学少女っぽい雰囲気を纏っているが、意外に芯の強い人だとあかりは感じていた。それでいて物腰は柔らかくて、何より優しくて温かい。だから、こうして何度か相談に乗ってもらっては、心のもやもやを解消していた。

 彼女よりも素敵な人はいない。そう断言できるくらいに憧れ、慕い、尊敬している。故に、新入部員も別にいなくていいと思っていた。彼女が卒業したら、あかりは茶道部も廃部にするつもりである。もともと正式な部でないし、ちょうどいい。少し後ろめたくて恵にはまだ伝えていないが、きっと許してくれるだろう。


「そういえば、あかりちゃんどうなの?」


 本日の相談を終えて心を軽くしてもらい、一息ついているところに恵から尋ねられる。


「何がですか?」


 何かあったけな、とぼんやり考えながら尋ね返す。


「ほら、前に話してくれた彼。あかりちゃんが気になってるって言う」

「あー、森本くん」


 あかりの脳裏に黒縁の眼鏡をかけた優しげな顔つきの少年が浮かぶ。


「そうそうその男の子。でも、その子はいつも一緒にいる男子が好きなんでしょう?」

「たぶんそうなんですよねえ。もうわたしに望みないっていうか」


 あはは、と苦笑しながら答えた。それを聞いて恵は意味ありげな視線を送る。


「でも、好きなんでしょう?」

「うう、恵先輩のいじわる……」


 うふふ、と品良く笑う恵を見て、あかりは心が満たされていくのを感じる。この時間が永遠に続けばいいのに、と願う一方、どんなに長くてもあと一年程しか残っていないことに寂しさが押し寄せる。


 ──恵先輩には受験勉強もあるからもしかするともっと短いかも……。やっぱり来年廃部にするつもりだとちゃんと伝えようかな……。


 でも、その前に。


「そういうめぐみ先輩は彼氏とかいないんですか?」

「え? 私?」


 普段、穏やかな彼女が頬を染めて慌てているところを見たい、といういたずら心が芽生えた。

 あかりはにやにやしながら恵の返答を待つ。だが、期待したような恥じらう様子はなく、代わりに彼女には珍しいいたずらっぽい表情であかりに笑いかけた。


「ふふっ。秘密」



 ***




 高坂慎也はラケットバッグからテニスラケットとシューズを取り出すと、素早くスニーカーからシューズへと履き替え、慌ててフェンスの入り口からテニスコートに入る。


 ──よかった。まだ練習は始まってないみたいだな。


 コートの端で集合しているらしい部員たちの様子を見て安堵する。

 男子テニス部の次期部長が練習に遅れたとあらば、全くもって格好がつかない。この春、新しく入った新入部員たちに背中を見せるため、そして、先輩たちの期待に応えるためにも一層気合を入れて部活に取り組まなければならないのだ。


 その大事な時期だと言うのに柚香は……。


 慎也は恋人である彼女との先程のやりとりを振り返って苦笑いを浮かべる。


「今日は一緒に帰りたい」と駄々をこねる柚香に、今は大事な時期だから部活を休んで帰ることはできないと断ったのだが、その返答が気に入らなかったのか、彼女は意地になって部活が終わるまで待っていると言い出したのだ。

 流石にそこまでの長時間待っていてもらうのは気がひけるし、何より時間を無駄にすることになるので、やんわりと嗜めたのだが、今度は「私と部活どっちが大事なのよ」というありきたりな台詞を吐いて泣き出してしまった。

 いくらなんでも柚香をそのまま放って部活に行くわけにはいかず、あの手この手を尽くして宥めていたら遅れてしまったというわけである。


 近頃、彼女の言動を窮屈に感じることが多くなったように思う。

 何かにつけて慎也に「自分のことが好きか」あるいは「好きならば態度で示してほしい」と迫ってくる。初めのうちは甘ったるいカップルのよくある愛情表現になり得たが、こうも頻度が多いと言い加減うんざりしてくる。


 慎也は知らず知らずのうちに思案に沈み、ため息をついている自分に気づいて慌てて首を振る。

 ぐずぐず言い訳を垂れていても仕方がない。慎也は表情を引き締めると、駆け足でコートの中へと向かった。


「すいません! 遅れました!」


 部員の集団の輪に入り、開口一番謝る。


「おう、高坂。ちょうどよかった。今日転校してきたっていうお前のクラスの安岐が練習に参加するっちゅうから、いろいろ面倒見てやってくれ」


 顧問の大崎は慎也の遅刻を咎めることはせず、かわりに頼み事をした。

 慎也が視線を移すと、大柄な大崎の隣にちょこんと縮こまっている安岐葵の姿を見つける。男女共通の体操服姿だと彼が本当に男子なのか疑問を抱かざるを得ない。


「よ、よろしくお願いします」

「ああ、よろしく」


 緊張している様子の葵に優しく声をかける。


「よし、それじゃ新学期始まって間もないが気ぃ引き締めていくようにー。各自練習に戻れー」


 大崎の声かけに返事をして練習の準備を始める。各自散会する中、慎也は葵の方へと近づいていった。


「改めてよろしくな。高坂慎也だ」

「あの、よろしくお願いします! 安岐葵です」


 葵はぺこり、と頭を下げる。慎也はそんな彼の肩を軽く叩いた。


「そんな緊張しなくても大丈夫だって! 同じクラスだし」

「そう、だよね。ふふっ」


 慎也の気さくな話し方にいくらか緊張がほぐれたのか、葵は照れくさそうに笑った。

 慎也は、その花が咲いたような笑顔に思わず見惚れてしまいそうになるのをどうにか堪えて、彼に尋ねる。


「安岐はテニスどれくらいやってるんだ?」

「えっと、昔ちょっとやってて、高校生になってからまた始めた……かな?」


 慎也よりも頭ひとつ分身長の低い彼は上目遣いをするみたいに見上げつつ、おずおずとそう答える。


「おおっ! じゃあ結構うまいんじゃないのか? 後でラリーしようぜ」

「そんな、全然だよ! あ、でも、今日は見学だけのつもりだったからラケット持ってきてなくて……せっかく誘ってくれたのにごめんなさい……」


 葵はしゅんとして、捨てられた子犬のような目で謝る。

 そんなことで怒る慎也ではない。むしろ初日から図々しく誘ったこちらの方が悪いと思うくらいだった。

 別に謝ることはない、新入生の仮入部期間用のラケットが余ってるはずだから、それを貸す事もできる。慎也がそう伝えると、暗く沈んでいた葵の表情がパッと明るくなった。彼は表情がころころと変わって、見ていて楽しい。


「じゃあ、ラケット取ってくるから悪いけどちょっと待ってくれるか」

「うん、ありがとう!」


 葵の笑顔に送り出された慎也はテニス部の部室へと足を運ぶ。が、その中にラケットは見当たらなかった。

 確かここにあったはずだよな、と記憶を遡っていると、ふと、部室の裏手側の様々な部が物置として使っているスペースにある可能性に思い当たる。邪魔だから、と誰かが片付けたのかもれしれない。

 慎也が部室棟の裏に回ろうとフェンスと壁に挟まれた細い通路を進んでいると、どうも先客がいたらしく、声が聞こえきた。


「……ちょっと、こんなところでダメだって……え? だって恥ずかしいし……」


 女性が誰かと話しているようだ。

 慎也はそこはかとない怪しげな匂いを感じ取る。こんなところでいちゃついているけしからん奴らはいったい誰だ、と憤りが一割、好奇心が九割くらいの心持ちで壁際に立ち、声のする方をこっそり覗き込む。

 すると、二人の少女の姿が見えた。片方は制服、もう片方は蛍光オレンジのTシャツを身に纏っている。


 カップルではなかったか、と慎也が少しがっかりしていると、次の瞬間、思わず目を疑う光景が飛び込んできた。

 二人の少女の距離が段々近づいたかと思えば、なんと、そのまま口づけを交わしたのである。

 あまりの衝撃に思考が停止した。そのせいで、慎也は壁に当てていた手を滑らせ、バランスを崩した挙句、間抜けにも壁から飛び出してしまう。

 シューズを滑らす音を聞いた二人の少女が慎也の方へと振り向き、ばっちりと目が合った。


 気まずい瞬間。

 そのうちの一人、制服姿の少女はすぐに踵を返して逃げ出していった。だが、残るもう一人との間に何ともいえない無言の時間が流れる。


「す、すみません! 覗くつもりはなかったんですけど……」


 慎也は慌てて頭を下げる。


「あははー、こっちこそ変なところ見せちゃってごめんねー。君、確か男テニの子だよね?」


 返事をするために顔を上げると、慎也は目の前の蛍光オレンジTシャツの少女に見覚えがあることに気づく。


 確か……。


 女子テニス部の部長の吉浦里沙子よしうらりさこ

 慎也は大会のドロー表で見た彼女の名前を記憶から手繰り寄せる。


 慎也がすぐに思い出せないのも無理はなかった。普段、コートの面数の問題で女子テニス部とは練習時間がずれており、ほとんど交流がないため、同学年ならまだしも先輩や後輩の名前など知る由もない。


 だが、吉浦里沙子だけは別だった。

 彼女は部長であることに加えて去年、県ベスト16の成績を残しており、弱小校としては異例の快挙を成し遂げている。故に、男女問わずテニス部員であれば、彼女のことを知らない者はいないと言っても過言ではなかった。


 慎也は二年の高坂です、と手短に挨拶しつつ、内心ではそんな人物が部室棟裏でキスしていたという事実を呑み込めないでいた。

 さらに具体的にいえば、「女子同士で」という部分が喉に引っかかっていたのだ。


「そっかそっか。ところで、ときに後輩くんよ。今見たことは内緒にしといてもらえるかな? ほら、あの子恥ずかしがり屋だからさ」


 慎也の名を聞いてなお、名を呼ばない。覚える気はないのだろう。そんな適当さが彼女からは窺えた。


「はい」


 大人しく返事をする慎也を見て、里沙子は満足したようにうんうんと頷く。だが、慎也は心に浮かんだ疑問が拭いきれず、むしろどんどん大きくなっていくのを感じた。ついに我慢できなくなって彼女に尋ねる。


「……その、先輩はあの人とはどういう関係なんですか?」


 里沙子が目を細める。真意を探るような視線に慎也は踏み込みすぎたかもしれないと肝を冷やす。だが、案外答えはすんなりと返ってきた。


「付き合ってるよ」

「……女子同士でってことですよね?」


 思わず訊き返してしまう。


「おかしい?」

「い、いや全然おかしくないです! ただ初めて見たのでびっくりしちゃって! すみません!」


 慎也は慌てて謝った。あまりに不躾な訊き方だったかもしれない。彼女は気を悪くしただろうか。慎也は里沙子の顔色を窺う。


「……ぷっ、あははっ」


 だが、予想とは裏腹に里沙子は抑えきれなくなったように噴き出し、涙を浮かべて笑った。

 その様子に慎也は困惑する。彼女はひとしきり声を上げて笑った後、「ごめんごめん」と謝りつつ、慎也に向き直る。


「キミ、嘘つけないタイプでしょ。いいね、気に入った」


 どうやら気に入られたらしい。慎也が礼を言うかどうか迷っていると、矢継ぎ早に言う。


「おっと、あたし、そろそろ行かなきゃだからまた今度ね」


 そう残した後、彼女は手をひらひら振って、キスをしていた少女と同じ方へと去っていってしまった。


 慎也は飄々とした彼女の言動にしばらく立ち尽くしていたが、やがてラケットを取りに来ていたことを思い出す。

 予想通り、部室裏にあったそれらは、じめっとした日陰にありながら、鮮やかな色彩を放っていた。




 時刻は十八時を回ろうかという夕暮れ時。

 すでに夕日は街並みに呑まれ、燃えるような赤が西の空に広がっている。

 そんな茜空の下、練習を終えた男子テニス部の連中は疲れた身体の赴くままにコートから校門までの道をだらだらと歩いていた。慎也もその乱雑な列に交じっている。だが、彼の視線は隣を並んで歩く葵へと向いていた。


「お疲れ。どうだったよ、今日」


 慎也が話を振ると、葵の表情がパッと華やいだ。


「楽しかったよ! でも、ちょっと疲れちゃったかも」


 軽やかにそう答える。


「そうか。ならよかったぜ。今日はゆっくり休むんだぞ」


 面には出さないが、慎也は彼が楽しんでくれたことに内心ほっとしていた。


 正直なところ、繊細そうな彼がテニス部に馴染めるのか心配に思っていた。部員は皆、良い奴だが、自分も含めて良くも悪くも男っぽいので、大雑把だったり、はっきりと物を言ったりする奴が多い。

 もちろん、葵のことは気にかけるつもりだが、彼自身が自分には合わないと感じてしまったら、自分にはどうすることもできない。思う存分テニスをしたくても、できない環境というのは辛いだろう。


 しかし、案外彼には根性があるように見えた。ボールを厳しめのコースに打たれても諦めず追っていたし、先輩たちにも積極的に挨拶にいっていた。むしろ、勝手に根性無しだと決めてかかっていた己を恥じるべきだろう。きっとすぐに部の皆とも仲良くなるはずだ。


 慎也は頭一つぶん低い位置で揺れる葵の横顔をちらっと盗み見る。

 真っ白な肌に長いまつ毛。夕焼けに照らされた頬が紅潮しているようにも見える。中性的で端整な顔立ちは彼を美少年にも美少女にも思わせた。


 つい、彼の大きな瞳に吸い込まれそうになっていると、ズボンのポケットに入った携帯電話のバイブレーションが鳴り、慎也は現実に引き戻される。携帯電話を取り出し、画面に指を滑らすと柚香からのメッセージだった。


『今日は慎也のことも考えないでわがまま言っちゃってごめんね! そろそろ部活終わった?? 夜電話しない??』


 ──今夜、電話か……。


 眉間に皺が寄る。

 正直に言えば、葵の件に加えて、このところハードな練習が続いているので勘弁願いたかった。かといって、疲れているからと断るとまた機嫌を損ねるかもしれない。


 思わずため息が漏れる。男女の関係は面倒臭い。

 慎也が茜空に目をやると、不意に部室棟裏での鮮烈な光景が蘇った。


 ──女子同士でのキス。


 もし、自分が女だったら、柚香のことを好きになっていただろうか。それとも、恋愛関係には発展せず、親友だったろうか。


 確か石田あかりだっけ、といつも柚香の隣にいる少女を思い浮かべたところで、現実逃避している自分に気づき、思考を今晩の電話へと戻す。

 課題を口実に断るのはどうだろうか。

 確か古文の課題の期限が明日までだったはずだ、と懸命に頭を捻っていると、ふと、古文のワークブックを教室に忘れたことを思い出す。

 取りに行くのは面倒だが、柚香の通話に何時間もとられる方が面倒だ。何より古文の高橋先生は鬼教師。課題を忘れたとあらば、怒りの鉄槌が下されるだろう。


 慎也は、葵とその他テニス部連中に先に行くよう告げて、来た道を急いで引き返すことにしたのだった。




 ***




 落陽に染められたオレンジの空は段々と藍に移り始めて、すでに辺りは薄暗くなっている。

 つい、夢中になって恵と話し込んでいたらこんな時間になってしまった。


 あかりは心地良い疲れに満足感を覚えながら、まったり校内を歩いていた。通り過ぎる教室には誰もおらず、がらんとした薄暗い廊下に彼女の鼻歌が響く。

 楽しい時間の余韻が残っているようで穏やかな気持ちになった。


 本当なら、恵と一緒に駅まで歩きたかったが、運悪く、というか自業自得だが、教室に古文のワークブックを置き忘れてしまったので取りに戻らなければならなかった。時々、こういううっかりをやらかす自分に嫌気が差す。

 一応、課題となっている範囲は終わらせているはずだが、万が一という場合もある。古文の先生は厳しいことで有名だし、もしも、範囲を勘違いしていて終わっていませんとなれば、目も当てられない。

 今し方、ドジを踏んだばかりなので確認するまではどうにも落ち着かなかった。心配性の自分からすれば、こういう時に明日の朝でいいや、と切り替えられる人を羨ましく思う。


 高坂慎也などはそのタイプだろう。顔が良く、スポーツ万能で頭だって悪くない。明るい性格で人望も厚い。生まれ持ったモノがまるで違う。きっと彼には心配事なんて何にもない。


 そういうところに森本くんは……。


 思考の沼に沈んでいきそうになったところで慌てて顔を上げる。

 他人を羨んだって、ないものねだりしたってどうにもならない。

 あかりは気を取り直して、ちょうど空いていた黒板側の扉から自分の教室へ入っていく。


 昼間の喧騒が嘘のように物静かだ。黒板に教卓、並んでいる机と椅子、後ろの壁に掲示された剥がれかけのプリントが、まるで何十年もそこに放置されているかのような、寂しい雰囲気を感じさせた。


 長くいるとうら寂しい空気にあてられて、自分まで切ない気持ちになりそうだったので、早々に退散することにした。

 真ん中の列の後ろから二番目にある自分の席へと向かい、机の中を漁る。目的のワークブックはすぐに見つかり、ページをパラパラとめくる。

 薄暗くて文字がよく見えない。わざわざそのために電気をつけるのも億劫だし、どうせ家に持ち帰るのだからとそのままリュックに仕舞い込んだ。


 用も済んだのでさっさと帰ろうとして引き戸を引くも立て付けが悪いのか、びくともしない。さっきは教室前方の開いている扉から入ったので気がつかなかった。

 あかりは内心悪態をつきつつ、引き戸の凹みに両手をかけて思いっきり力を込めた。


 扉は無事に滑り出し、教室の出入り口が開け放たれた。窓枠に嵌められた紫色の空が彼女を照らす。ことはなかった。


 突如、目の前に現れた人影。

 おそらく体格からして男性だと思われるが、薄暗いのに加えて逆光で顔はよくわからない。

 あかりは突然の出来事に声も出せず、驚きのあまり腰を抜かしそうなる。実際、数秒もあれば後ろ手をついてへたりこんでいただろう。

 しかし、そうなる前に、目の前の何者かが覆いかぶさるようにして倒れ込んできた。


 鈍い音とリュックが床つく大きな音、衣擦れの些細な音が響いて、やがて静まる。

 一瞬、意識が飛んだような気がした。

 だが、すぐに痛みによって現実に引き戻され、喉から呻き声が漏れる。口の中を切ったらしく血の味がした。


「うわあっ!」


 背の方から少女の短い叫び声が聞こえた。どうもぶつかってきたのは男子ではなく、女子だったらしい。

 あかりは呻きながら身体を起こした。

 文句の一つでも言ってやろうかと、ぶつかってきた相手の少女を睨みつける。が、その顔を見た瞬間、そんな考えはどこかに吹き飛んだ。


 教室の扉を開けた先、目の前に人がいたことなど比にならないくらいに度肝を抜かれた。呼吸も、心臓すらも止まりそうになる。


 肩にかかるくらいの長さの癖のある黒髪。黒目の小さい三白眼に低めの鼻。控えめな唇に乗せられた自然なカラーのリップ。それは毎朝、洗面台の鏡に映る慣れ親しんだ顔立ちである。


 そう、目の前にいたのは自分と全く同じ顔をした少女だったのだ。

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