スクランブル・マジックアワー

三ツ石

プロローグ

プロローグ

 薄明の頃合い、彼は慌てて中庭を駆けていく。

 すっかり暗くなった昇降口を入り、乱暴にスニーカーを脱いでリノリウムの床に上がると、靴下越しにひんやりとした無機質な質感が伝わってくる。一瞬、上履きに履き替えるか迷ったが、ちょっと教室に行ってすぐ戻ってくるだけだ。大した時間もかからない。彼は履く手間を惜しんで横着することにした。


 横着するならばとことんというわけで、スニーカーさえ脱ぎ捨てたままに、昇降口を入ってすぐの階段を駆け上がっていく。踊り場にはオレンジとパープルに染まる空が、美術館に飾られた西洋の風景画のように窓枠に嵌められていた。この世のものとは思えない奇妙な色合いは禍々しく、見る者に怪しさを感じさせる。まるで魔界に聳え立つ魔王城にでも迷い込んでしまったかと錯覚しそうになるが、よもやそんなことに気を取られている場合ではなかった。


 今、彼の頭の中を支配するのは専ら、古文の課題である。明日の古文の授業までに提出できなければ、それこそ魔王よりも魔王らしい先生の逆鱗に触れるのは間違いない。

 だが、今のところそうはならない予定だ。うっかりワークブックを置いたまま帰ってしまいそうになったところに、まさに天啓というべきか、何の脈絡もなく課題のことが頭に浮かんできたのだ。ツイている。彼は天に感謝しつつ、部活の仲間たちに先に行くよう告げて踵を返し、そして現在に至る。


 階段を昇りきり、廊下へと出る。ところどころついている蛍光灯の灯り以外は、沈んだ夕日の残光が窓から僅かに差し込んでいるのみで、薄暗かった。この時間まで校舎に残っている生徒は流石にいないらしく、通り過ぎる教室の電気は消えていた。


 彼は小走りで廊下を突き進み、目的の二年A組の教室の前まで来る。間髪入れずに教室に入ろうと前のめりになりつつ、その引き戸を開けるべく取っ手の窪みに手をかけたところで、ふと思い出す。


 ──そういやこの扉、立て付けが悪かったな。


 女子だと開けるのに少し手間取るくらいには滑りづらい。だが彼は、テニス部で鍛えられており、腕力には自信がある。

 なんてことはない。華麗に開け放とうと指先にぐっと力を入れた瞬間、思いもよらず扉が羽根のように軽くなった。彼がこめた力以上に引き戸が勢いよく滑っていく。

 当然、取っ手にかけていた右腕も扉に持っていかれ、前のめりになっていたことが災いし、派手にバランスを崩した。あわや教室内へ倒れ込もうかという刹那、眼前に扉に両手をかけたまま、驚きの表情を浮かべる少女の姿を認めた。


 ──このままだとぶつかるっ。


 どうにか回避しようと身体を捩り、足に力を入れて踏ん張る。だが、上履きを履いてこなかったのが仇となり、靴下を滑らせた彼が覆いかぶさるようにして二人とも教室に倒れ込んでしまった。

 持っていた荷物が床に散乱する音が室内に響き渡り、それから程なくして静けさが訪れる。

 だが、それも束の間、すぐに二人が呻き声を上げた。


「いってー、すまん、大丈夫か?」

「ううー、だいじょうぶですー」


 不思議な違和感を覚えた気がしたが、それよりもまず、相手の無事が確認できたことに一安心する。自分の方は唇の裏を切ったようで口の中に血の味が広がっていた。上体を起こして唇に手を当てる。痛い。


 ふと、隣に倒れ込んでいるらしい少女らしき姿が目に入る。だが、不思議なことに彼が少女だと思い込んでいた彼女は少女では無かった。

 なんと、学ランを着た男子生徒だったのだ。

 てっきり、女子とぶつかってしまったと勘違いして焦っていたが、そうでないと知り、胸を撫で下ろす。野郎ならば、ぶつかったとて罪悪感は感じない。そう、彼は紳士的な人間なのだ。


 だが、それはそれとして、ぶつかった男子生徒はどうも見覚えのある格好をしている気がした。向こうを向いているので顔は見えないが、背負っているテニスのラケットバッグが自分のものと全く一緒である。オレンジ色のラインが入ったウィルソンの黒。

 はて、テニス部に自分と同じラケットバッグを使っている奴なんていただろうか、と彼が思案していると、突然、何かにその頬をくすぐられる。


「うわあっ!」


 彼は驚いて声を上げた。そして、再びの違和感。今度はその正体に気づいた。


 ──なんか声が変だな。


 教室に響いた自分の声が妙に高かった。咳払いをしてみても治る気配がない。


 まさか病気──


 彼の頭に嫌な想像が膨らんでいく。

 だが、病気というよりはむしろ、異常な声変わりのようだった。声を発したのは間違いなく自分自身なのだが、その声が自分のものではないみたいな、そんな違和感。彼は混乱した。


 そして、遅れて自分の頬をくすぐったものの正体にも気づく。それは肩にかかるくらい長い自分の髪だった。しかし、それはあり得ない。短髪ではないにしろ、ここまで髪を伸ばしてなどいないのだから。ましてや長髪にしたことなど人生で一度もないのだ。

 彼はますます混乱する。自分の身にいったい何が起きているのか理解が及ばず、ゾッとするような恐怖を感じた。


「いたたた」


 そんな彼の動揺をよそに、間抜けに床に転がっていた男子生徒が唸りつつもようやく起き上がる。


 ちょうどよかった。彼に自分の姿がどんな状態になっているか尋ねよう。

 そう思って彼は口を開く。だが、その顔を見た瞬間、度肝を抜かれ、言葉を失う。開いた口は塞がらず、呼吸をすることも忘れるほどに。


 かきあげた黒髪にはっきりとした眉。ぱっちり二重から通った鼻筋。薄い唇。毎朝、洗面台の鏡に映る見慣れた顔立ちの青年。


 目に映る男子生徒はまるっきり自分と同じ顔をしていたのであった。

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