第23話 あかり

「二人が入れ替わっちゃったの──ぼくのせいなんだ」




 湖面を滑ってきた冷たい夜風が三人の間を通り過ぎていく。水面に落ちた星は揺れ、光の糸へと変化する。汀に寄せるさざ波がいやに大きく聞こえた。


「……え?」「……え?」


 永遠に続くかと思われた夏夜の静けさは、しばらく経ってようやく言葉の意味を理解した二人の声によって終わりを迎える。


「それはどういう……」


 あかりは未だ、その言葉の真意を図りかねていた。

 場を和ませようとした彼なりの気遣いによる冗談なのか。それとも、そもそも入れ替わりの話を信じておらず、ジョークだと思って悪ノリしてきたか。あるいは事実を知ったショックから、少々混乱しているのかもしれない。いずれにしてもあかりは当惑せざるを得なかった。

 だが、次に返ってきた彼からの返事はその予想の範疇にあらず、戸惑うどころか、もはや呆気に取られることしかできないものだった。


「そのままの意味だよ。ぼくが二人の身体を入れ替えたんだ。ぼくは妖精だからね。年に一回はイタズラしなくちゃならないんだ」


 相変わらずの優しい笑みで葵はそう口にした。あかりは感情が心から全て吹き飛んでしまったかのように立ち尽くす。


「……本当、なのか?」


 隣で同じように立ち尽くしていた慎也は、彼の言ったことが信じられないといった表情で尋ねる。その声色には僅かに疑いが混じっていた。

 すると、葵はおかしなことを訊くものだ、とばかりに口に手をやり、くすくすと笑う。


「本当だよ。現に今、二人は入れ替わっているじゃない」


 彼に言われて気がつく。

 確かに自分と慎也は入れ替わっていて、しかもその原因は未だに判然としない。あの放課後の教室でぶつかって、キスした拍子に身体が入れ替わってしまったことから、てっきりそれが原因だと思い込み、何度か同じ状況を繰り返してきた。

 だが、結局元には戻らなかったのだ。となれば、キスの他に別の要因があるに違いない。

 それがもし、それが自らを妖精と名乗る葵の仕業だとしたら──

 あかりはふと、彼が転校してきた日を思い出す。

 彼を目にした瞬間、その可憐な容姿に、まるで絵本から飛び出してきた妖精みたいだ、と感じた。そして、慎也と入れ替わったのもその日のうちの出来事だった。

 あかりの頭は未だに理解を拒む。だが、胸の内ではストンと何かが落ちるような妙な納得感があった。

 そもそも、本来誰かと身体が入れ替わってしまうなどという漫画みたいな出来事、あり得ない。あり得ないが、あり得てしまった。ならば、おとぎ話の中にしか存在しないと思っていた妖精も現実の世界に生きているのではないか。そして、その妖精が今、自分の目の前で笑っているとしても何ら不思議はないのではないか。

 静かな興奮と恐怖が波のように押し寄せてくる。


「ね。何か安岐くんが妖精だって証拠みたいなのってないの?」


 だが、疑っていないわけじゃない。あと一つ、あと一歩でいいから完全に信じるに足る理由が欲しかった。


「証拠? いいよ。あかりさん……じゃなかった慎也くんも信じていないみたいだしね」


 くすり、と微笑む葵の視線の先、あかりが横を見ると慎也はむむむ、と唸るのが聞こえそうなくらい、難しい顔をしていた。


「なんだよ。背中に羽でも生えてるって言うのか?」


 見せられるもんなら見せてみろ、と言わんばかりに顔を顰める。


「羽は無いけど、腰のところに羽の名残みたいな模様はあるよ。恥ずかしいから見せないけどね」


 不服そうな慎也に葵は「その代わり」と付け加える。


「もっとわかりやすい証拠を見せるよ。あんまり上手くないんだけどね」


 そう言うやいなや、葵は両手を顔の前で合わせ、それから大事なものでも抱えるかのようにゆっくりと下ろして、胸に当てた。

 何かのまじないか何かだろうか、とあかりがその様子を眺めていると、葵が「いくよ」と小さく呟き、おもむろに手を開いた。

 途端、彼の手の中から、無数の輝く光の粒が夜空へと向かってゆらゆらと飛び立つ。

 光は赤や青、黄や緑など、大小さまざまで、まるで手から滑り落ちた宝石のようにちらちらと瞬いていた。

 一瞬、蛍かとも思ったがそうではない。よく見ると実体がないのだ。夜空に生きた光そのものが浮いているかのように、儚げで柔らかく、それでいて自由に飛び回っている。


「──きれい」


 あかりは思わずそう口にしていた。


「そう言ってくれて嬉しい」


 彼の笑顔に背筋がゾクリと震える。彼は間違いなく、妖精だ。あかりはそう確信した。なぜなら、彼に向けられるほっとしたようなその笑顔に目が惹きつけられてやまないのだから。


「どう? これでぼくが妖精だって信じてくれた?」


 葵が慎也の方を向いて彼に問いかける。慎也は目の前で起こった光景に圧倒されたようにただ黙って頷いた。その様子を見た葵は満足そうに笑みを深める。


「……一つ聞かせてくれ。……葵は妖精だとして、なら、どうして俺たちの身体を入れ替えたんだ?」


 慎也の疑問。それはあかりも気になっていたことだった。彼の問いに葵は「うーん」と少し考える素振りを見せてから、やがて口を開く。


「君たちが自分じゃない何かになりたがってたからかな」


 普段の彼からは想像もつかない、心の奥底を見透かすような視線にあかりはどきりとする。

 隣にいる慎也もどうやら同じらしく、息を呑む音が聞こえた。だが、すぐに表情を緩めて「それに」と付け加える。


「ぼくたち妖精は一年に一回、何かしらイタズラしないと存在が危ういからね」


 妖精には妖精なりの苦労があるのだろう。透き通るような笑顔に僅かな影が落ちるのをあかりは見逃さなかった。

 だが、追及したところで教えてはくれないような気がした。それよりも先ほどからずっと気になっていたことを訊いてみることにする。


「……私たちを元に戻せたりってするの?」


 慎也がバッと勢いよくこちらを見るのを感じた。それから慌てたように葵の方へと向き直る。


「そうだっ! 元通りにしてほしい! ……でも一年に一回ってことは来年の四月になる、のか……?」


 不安げな視線を送る二人に、葵は再びふわっと柔らかく笑って答える。


「妖精の掟は『最低』一年に一回であって、イタズラ自体は何回しても構わないことになっているよ」


 あかりと慎也は顔を見合わせる。


 ──元に戻れる!


 夢ではないだろうか。そもそも入れ替わっているこの状況が夢みたいなものであるから、例え全て夢だとしても構わない。夢にまで見た自分自身の身体がすぐそこまで迫っているのだ。


「──じゃあ」

「でも、待って」


 急く気持ちのままにあかりと慎也が戻してもらうようお願いしかけたところ、他でもない葵に遮られる。

 それとも何か別に条件でもあるのだろうか。二人は怪訝な表情を浮かべつつ、彼の言葉を待った。

 葵はまるで心を落ち着かせるかのように、目を瞑り大きく息を吸った。そして、きゅっと閉じた瞳をゆっくりと開けた。


「ぼくは慎也くんが好き」


 吸い込まれそうなほど深い瞳だった。不安と期待、それとほんの少しの諦めが入り混じって複雑な輝きを見せているヒトの目。そして、それは慎也の方に向けられていた。


「ど、どうして……?」


 戸惑う慎也が尋ねる。葵は真剣な眼差しのまま口を開く。


「どうしてって……どうしようもなく、好きになっちゃったから。──妖精だって人間に恋することもあるんだよ?」


 そう言うと、葵は少し悲しげに瞳を揺らして、慎也に微笑みかけた。


 どうして忘れていたのだろう。

 彼が妖精だと聞いた瞬間から、無意識のうちに彼のことを人ならざるものであると畏怖した。勝手に自分達とは違う生き物だと思い込み、線引きをしていた。

 だが、目の前の彼は紛れもなく、感情を持ったひとりの人間だった。


 今までもそうだ。黒板の前で緊張に声を上ずらせながら自己紹介していた時だって、更衣室で二人、恥じらいながら着替えていた時だって、テニスに打ち込んでいる真剣な様子の横顔だって、体育祭、応援団での慣れない大声を出して枯らしていた声だって、不意に見せる不安げな視線だって、慎也の冗談に笑った笑顔だって、その後に見せる熱っぽい眼差しだって──決して演技なんかじゃない。

 あれらは全部間違いなく葵の──葵自身が精一杯生きてきた証だった。


 危うくまた前までの自分に戻るところだった。人を勝手に自分のつくった枠組みに押し込んで、理解しようともせず、仕方のないことだ、と誰にするわけでもなく自分で自分に言い訳する。

 平穏にやり過ごして、大人のふりをして、諦めたように振る舞ってその実、心の中では何も納得していない。

 なんて最低最悪な性分なのだろう。改めてそう思う。

 けれど、慎也と入れ替わって、彼の強さに触れて、いろんな人を知って、新しいことに挑戦して、勇気を持って一歩踏み出して、全力でぶつかって、そしてそんな自分を変えたいと思った。変えられるかはわからないけれど、変えたいと願ったのだ。


 ──誰かになりたいんじゃない。私は私を変えたい。

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