第39話 井浦 ②

 選抜隊による都庁突入とほとんど同時刻に、官舎で待機する井浦誠上長教導官のもとへ、正体不明の侵入者が首都周辺の監視網を突破したという連絡が届いた。それから約三十分後、自身の私室を訪れた人物を目にして、井浦はゆっくりと息を吐いた。


「……やはりお前か」

「隠れて来たつもりでしたが、気づかれていましたか。優秀な目がいるようで」


 剣之宮けんのみやしんは自身と同じ紫の髪色をした赤子を抱きかかえながら、ぬけぬけとそう言った。




 五十年前、突如として北極に出現し、建国を宣言した新興国家ルペス・ニグラ。ルペス・ニグラがなんらかの方法で北極海上に浮かべた陸地は、建国には心もとない、精々が四万七千平方メートル程度の小島だったものの、そこには史上類を見ない大型のダンジョンへの入り口があった。そしてルペス・ニグラは陸地のみならず、そのダンジョンも国家の三要素のうちの領土だと主張し、同時に、ダンジョンを居住地として利用した場合の複数年にわたる実証データを、自国の建国を認めた国家に提供すると外交筋でほのめかした。

 この方式は、当時世界規模で解決が急がれていた人口過密問題とごみ処理問題を一挙に解決する優れたモデルケースとして受け入れられ、北極の利権とかかわりが薄い中小国家はこぞってルペス・ニグラの建国を支持した。


 北極海沿岸国家を含めたいくつかの国家は難色を示したものの、領海内での多国籍船舶の航行について通行税を徴収しないなど、弱腰ともとられかねないほどにルペス・ニグラ側が大きく譲歩する姿勢だったこと、国家間での紛争に人手をとられることはダンジョン開発の遅れによる国力の衰退を招くという認識がすでに世界レベルで広まっていたことで、声明文や会見で積極的に承認することは避けつつも、対話での平和的解決を望む、という態度を表向きにとりつつ、実質的には容認した。


 日本は周辺アジア国家に追従する形で四十年ほど前にルペス・ニグラと国交を結び、以降大きな問題もなく友好的な関係を保っていた。それを崩したのが、わずか半年前に発生した、世界ランカー剣之宮真の亡命だった。


 ダンジョン出現以降、国力というものはその国家がどれだけのダンジョンを開発しているかに大きく左右されるようになった。そしてそれは、ダンジョン内での使用が難しい大型兵器や、将来にわたって恒久的に入手できる物的資源などよりも、ダンジョンを攻略し、その成果物を加工する人間に対して国家の比重が置かれる事態を招いた。

 すでに日本との縁が切れ、国外での活動を主にしていた飯島さやかが国籍を放棄していなかったこともここに原因がある。政府や企業と不和が生じたランカーが国籍を移すことを望んだとしても、移動先の国家は他国から非難されることを恐れてそれを受け入れない。国家間での人材の移動を厳しく制限することはどの国においても当然の、暗黙の了解なのだ。


 ルペス・ニグラはそれを破った。事前の内談が行われていたことは疑いようのないスピーディーさで種々の懸案を処理し、真が亡命を表明してから一両日中にその身柄を受け入れた。


 自国最強のランカーを奪われた日本は混乱を恐れてその事実を公にはしなかったものの、ルペス・ニグラとの無期限の断交を決定し、それにかかわる動きをとろうとしたところで、都庁にダンジョンが出現した。そのため貿易制裁などの措置はいまだとられていないものの、各国に一時移民受け入れを打診する際もその対象から除外するほどに、首脳部はルペス・ニグラに悪感情を抱いている。


 それを理解してるからこそ、真は旧家に裏口から忍び入るような真似をしたのだろう。

 侵入者を検知していようとも突破されているのであれば優秀な監視員だとは言えない。そんなレベルの人員しか、もうこの土地には残っていないのだ。

 

 執務机に座ったまま事態の終焉を予感しつつ、井浦は投げやりな視線をよこした。


「なんの用だ。なぜ戻ってきた」

「国丸さんを誘いに来ました。断られましたが」

 

 悪びれもせず抜かすと、真はぐずりだした赤ん坊をゆすってあやした。

 

「ごめんねー、ちいちゃん。もうちょっとまってくだちゃいねー」

「……」

「それと、先生にもお別れを。長い間お世話になりましたから」

「世話になった、か……」


 皮肉であろうと、そうでなかろうと、その言葉は井浦の胸に刺さった。

 いつにも増して静まり返った井浦を、真は横目で見た。


「やはり、後悔するものですか。その年になると」


 井浦は答えず、黙って自身の手を見つめる。

 多くの子供を戦場へ送った手だ。武器を握らせ、命を断たせ、嫌がる背中を押した手だ。

 それが正しいと信じて疑わず、戦う才のある子供たちを鍛え続けた。自身の業に気が付いたときには、汚れ切っていた手だ。

 年下の死に顔ばかり見てきた男は、生徒たちのことをもう一度振り返った。全員の顔を覚えてすらいない。人殺しを命じられた顔。感情を爆発させて飛び出していった顔。心を閉ざし切った顔。そういった印象に残るものでもなければ、覚えてすらいないのだ。


 飯島さやか。真田ユーリ。司馬ターボ。伊津寛八。


 そして、剣之宮真。


 剣之宮は井浦の最高傑作だ、と、何度評されたかわからない。しかし井浦は、芸術家がその作品を知るほどに、剣之宮のことを理解していただろうか。


「先生は正しいことをしていたと僕は思っています。嫌味のつもりはありません」


 赤ん坊の背中をたたいてやりながら、真は低い声音で続ける。


「先生の手で人生を潰された子供の数は、先生のおかげで救われた全国の子供の数に比べれば問題にもなりません。僕は功利主義者ではありませんが、正しいというのはそういうことでしょう。少なくとも、知っていて何もしなかった連中に、先生を批判する資格はありませんよ」


 繰り言を繰り返す老人へのなぐさめを終えた真に、井浦はそっと尋ねた。


「国を出て行ったのは、その子供のためか」


 震える声で重ねる。


「それとも……」


 途切れた声が漂う空間で、井浦はわずかに間を置いて、


「この国にいれば、僕がやったような仕事をこの子にも強制することになる。それについてはもちろん考えました。でも、僕が決断したのは後ろ向きな理由ではありません。この子のために、より可能性のある未来を選びました」


 そう言い切ると、赤ん坊を抱いたまま、井浦に背を向けた。


「僕はこの国を守るつもりはありません」


 十二歳から職務に従事し、五十六のダンジョンを攻略して、国宝の六割を占める物品を収集した。EU動乱ではイギリスに派遣され、秘密裏に背任官僚を始末した。

 輝かしい経歴も、後ろ暗い背景も併せ持つ男の、右目には鈍い光が宿っていた。山一つを締め付ける大蛇を殺したときから呪われた、罪の刻まれた右目が、井浦を収めていた、


「さようなら、先生」


 みっともなく地に頭をこすりつけてでも、あの子たちに加勢をしてやってくれと、そう頼むつもりだった。

 井浦の尻は椅子から離れず、頭はただうなだれていた。


 どれくらい時間が経ったのか、その感覚がなくなった頃に、井浦の部屋の電話が鳴った。のろのろと動き、受話器を取る。


「どうした」

「はい、先ほどの侵入者の件ですが」


 部下の声はひどく緊張していた。


「剣之宮なら帰ったぞ」

「……? はあ……」

「そのことではないのか?」

「はい。実は、監視網を破った侵入者に」


 ごくりと唾をのむ音が聞こえる。


「都庁内部へと突入されました」

「……なんだと?」

「複数名ではなく一人です。また、照会も済んでおりません。名の知れた人物ではないようで……」


 受話器を置き、井浦は窓に視線を移した。その先には魔境と化した都庁がある。首都への侵入の時点で単独だったというのなら、他国の工作員だとも思えない。そもそも終わりが見えているこの段階であの場所に踏み込むことに、なんのメリットがあるというのか。


「……誰だ? 何が起きている……?」

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