第35話 夏 ⑧
一人の脱落者もないまま、選抜隊は三十二階の大広間まで辿り着いた。ここから部隊はユーリが指揮する北班と遊子が指揮する南班に分かれ、それぞれが最上階を目指す。
「それでは染矢さん、南側を頼みます」
「はい」
頷いた遊子は、南展望台へと向かうルートを駆けて行った。
遊子の周囲を固める五人は補助目的のスキルや魔法を持つ隊員ばかりだ。近接戦を主体とする遊子にとって格下の人員による援護射撃はむしろ邪魔になる。その判断から決定されたメンバーだったが、彼らの背中を見送ったユーリの喉からは重たい不安が降りてくれなかった。
本当にこれでいいのか。
その迷いを背後の人々に見せるべきでないことを理解しているユーリは、
「ここからはこの三十五名で動きます。総員、役割の変更について最後の確認をしてください」
と、伝えた。
無言で移動する人の壁の中心で、ユーリは赤い髪の少女の隣へとそっと移動した。
「及川さん」
ちらりと目だけがユーリを見る。
「念を押しておきますが。事前に伝えていた通り、最上階まであなたの武器は温存してください。これは作戦の根幹です」
「やってますよ」
夏の隣で出穂が気まずそうに顔を逸らした。
夏の口の利き方は、学校での軍隊式のしごきの過程で兵士という形に性根を叩き直される麒麟児の中ではそれだけで異端だ。
上官として居丈高に命令することは、夏との間では無用な摩擦を起こす。この子どもは上下関係に慣れていないし、目上の者には畏怖よりも煩わしさを感じる型なのだから。
「そうね。でも」
ユーリはあえて口調を崩した。
事前に資料に目を通し、夏の性格を慎重に分析した結果の接し方。しかしながら、少し切り替えるのが遅かったかもしれない。
「染矢さんたちが離脱した今、私たちの戦力は大きく低下している。きっと、ここからはあなたの目の前で死人が出ます。それでもあなたは、その剣を抜くのを我慢できる?」
「別に、見殺しにしろって言うならしますよ。殺されてるのがあんたでもね」
ぴりと空気が揺れる感じがしたのは、聞き耳を立てていた周囲の隊員たちのせいだろうか。
「もちろんそのときはそうして。最優先はあなたが無傷で最終フロアにたどり着くことだから。ただ、あなたには覚悟を持ってほしい。目の前で殺されそうなのが沢村さんでも、構わず進む心構えを」
出穂の顔は青いを通り越して白くなった。今度の夏の目はじろりと音を立てそうだ。
「沢村さんも染矢さんも千木さんも、作戦に関わる全員が、あなたにすべてを託してここまで来たんだから。あなたが自分を抑えられなければ、それだけでなにもかもが無意味になる」
嫌われたな、と確信しつつ、ユーリは責任感で夏を縛った
親族と不仲で、親しい友人も少ない。夏は日本の存亡をかけた戦いの主力にするにはあまりに不安が大きい人材だ。だから、ただ一人交友関係の線が生きていた出穂、そして加えて遊子ともちの二人を関わらせることで、夏に戦う理由を与えた。
こういう作為に気づけば逃げ出す人物だと推測していたから、業務上必要以上の接触を行わせることはできず、もちとの間には大して関係はできなかったようだ。しかし、遊子はどうだろうか。ひょっとすればこれまで夏が出会った誰よりも長い時間を過ごした相手に、情は湧かないだろうか。
出席回数が極端に少なく知識量では大きく遅れているものの、座学では卓越した知的瞬発力や柔軟性がみられる。
指導教官にそう評されていた夏は、ユーリの意図を理解した短い沈黙のあと、
「りょーかい」
とだけ答えた。
うまくいったかどうか。わからないが、これ以上はただ夏の気分を損ねるだけだとユーリは判断した。
しばらく少数のモンスターの発見と排除だけが続き、部隊は四十階にたどり着いた。そこで、先頭の隊員から困惑の声があがった。
「これは……!? ず、図面と異なります!」
隊員の報告通り、最終フロアまでの階段が続いてるはずの空間は長大な通路に変化していた。
國丸たちの情報とは異なる現状だったが、ユーリはすぐさま指示を飛ばした。
「第五回の講習で説明した、ダンジョン内構造の変化です!」
居抜き型のダンジョンでは、発生から長い時間が経つと外見と内部の構造が一致しなくなる。建物の外見はそのままに、内部がより一般的なダンジョンに近い構造へと変化し始めるためだ。
そしてこの変化の発生は階層ごとに優先順位があることがこれまでのデータから判明している。より最終フロアに近い層ほど、人による建造物の形から離れていく。
つまり、
「もう階段は存在しません! あの奥の扉が最終フロア、そこまで及川隊員を護送するのが私たちの任務です!」
そう喋り終わる前に、床から天井から、化け物どもの姿が湧きだしてきた。
「戦闘開始!」
部隊は獣たちの群れの中に飛び込んだ。隊員たちは白毛の熊に組み付き、人面の猿に散弾を叩き込む。ユーリ自身、軍刀で敵を切り倒しながら、行く手へと走り続けた。
最終階層前のこの通路は、これまでの階層に比べて異質だった。モンスターの出現量は空間を埋め尽くすほどで、個体を視界に収めると、軒並み黄色の信号を返していた。最後の関門というわけだ。
それでも、鍛え上げた精鋭たちはなんとか数を減らすことなく踏みとどまっている。
このままあの扉を越える。そうユーリが胸中に叫んだとき、視界で赤色が明滅した。その正体は、隊員たちが反応できない速度で隊列に突っ込んできた豚鼻の青い鳥だった。ユーリが夏とその鳥の間に身を滑り込ませる前に、かぎ爪は人を鷲摑みにして飛び去った。
「うあぁっ!」
さらわれた出穂が伸ばす手を見ながら、ユーリは足を止めなかった。危険な敵が出穂に構っている間に本隊は進める。全員にその覚悟を求めていたのだ。
だから、赤い髪の持ち主が何のためらいも見せずに駆けだしたとき、ユーリは自分の準備不足を呪った。
「及川さん!」
声に振り向きもせず、夏は人の頭を飛び越え、跳躍した。
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