第34話 夏 ⑦
都庁入り口のすぐそばに用意された仮設宿舎の中で、突入部隊に配られたコンタクトレンズを装着しながら、夏は隣の出穂に話しかけた。
「コンタクトってさあ、眼球の裏側に入ることがあるんだって」
「ちょっと! 今そういうこと言わないでくださいよ!」
ヒステリックに叫んだあと、上を向いてレンズを右目にはめようとしている出穂の手は薬物中毒者並に震えていた。息づかいも荒い。
「はぁぁぁ、はぁぁぁぁっ……」
「わかるわー。初コンタクトって怖いよなー。目薬でも怖いもんなー」
「はぁぁぁぁぁぁ、はぁぁぁぁぁぁぁっ……」
「これこのコンタクトに限らずよく考えるんだけどさ、コンタクトをつけてるときに目をどっかにぶつけたらどうなるんだろう。やっぱりまぶたの中で粉々になって」
「うわああああああ! 黙って! 五秒黙ってください!」
「わかったよ……ごー、よん、あ、カウントは喋ってるのに含まれる?」
「黙れってばあああああ!!」
これ以上おちょくると本気で殴りかかって来そうだったので、夏はしぶしぶ口を閉じた。
訓練期間に受けた説明によれば、このコンタクトは装着者がモンスターにであったとき、両者のレベル差などから判断したモンスターへの対応方針を色で示してくれる、らしい。
緑色は問題なし。単独で片づけろ。
黄色は要警戒。できるだけ複数で当たれ。
赤色は危険。逃げろ。
「でもビルの中で逃げろって言われたってねぇ」
切り札である夏には、赤色に出くわした場合は迷わず近くの隊員に押しつけろ、と指示が下っているが、果たしてそれでどうにかなるものなのか。
「……うう、涙が出る」
やっとレンズをはめ終えた出穂がまぶたをしばたたかせながらボソボソと呟いた。かなり前から情緒が不安定になっていたが、作戦当日の今日はもうネガティブ度がマックスだ。靴下に穴が開いていたのを作戦失敗の予兆だと解釈して一人で泣きわめいていた。
緊張と恐怖でやられている。このままでは良いパフォーマンスなど発揮できそうにない。モンスターに会った途端に叫びながら漏らして死ぬのがオチだ。
しょうがない、と、夏は先輩らしく緊張をほぐしてやろうとした。ただあまりそういう引き出しがなかったので出穂に聞いてみることにした。
「なー」
「……なんですか」
「こういうときに緊張をほぐす方法知ってるか」
出穂はちらりとこちらを見た。
「知りませんけど」
「そっか」
あたしも知らない。
黙っていたら出穂がぽかんとした顔で夏を見ていた。
「……え?」
「え?」
「今の先輩が教えてくれる流れだったでしょ?」
「……?」
「いや、? じゃなくて、なんなんですか!? マジでこのタイミングでなんなの!?」
「なにって……見るからに緊張してるからほぐそうと思って……」
「……思って?」
「思った」
「……だけ!?」
「まあ結果的にはそうだけども。努力を評価してほしい」
遊子は最後まで聞かずに足音荒く部屋を出て行ってしまった。
「大丈夫かなあいつ」
とても心配なのだった。
大剣の入ったアタッシュケースを持って宿舎を出ると、もう他の隊員たちは集合していた。
遊子を中心にして、南の展望台フロアを攻略する六名。そして夏を中心にして北の展望台フロアを攻略する三十五名。総勢四十一名の選抜隊だ。
北側の指揮官である真田ユーリが、副官に差し出されていたタブレットから視線を上げて夏を見つけた。
「及川さん、集合時間ギリギリですよ」
「さーせん。緊張しておトイレにいってたらあたしの不浄さまが不動さまになられて」
「はい。済んだなら並んでくださいね」
笑顔で流されながら辺りを確認すると、夏は自分が浮いていることを実感した。ほとんどの隊員たちは遊子のように神経質な顔つきで、遅れてやってきた夏を内心罵っているようだった。夏抜きでは作戦を達成できないという事情がなければ思いを口に出していただろう。
友人が少ないのでアウェイな状況に慣れている夏は、
「おつかれさまでーす」
と言いながら、奥の方に染矢遊子を見つけた。歴戦の勇士である遊子ならもっと堂々としているのかと思ったが、落ち着きのなさは周りの学生たちと変わらなかった。
夏はそっと遊子の後ろに忍び寄り、ささやいた。
「緊張してる?」
「はい……」
「そっか、初めてだもんね。じゃあまず自己紹介をしようか」
「あっ、いや、は、初めてじゃ……」
遊子はそこで振り返り、夏に気づいた。
「お、及川さん。遅いからもう逃げちゃったのかと思ってたよ……」
「うーん。今の発言で気分を害したってことにしてそうしようかな」
「や、やめてね? 私の責任問題になるから」
この状況で気にするのがそこなら、見かけよりは落ち着いているのかもしれない。
「て、ていうかもう時刻合わせが始まるよ! ほら、準備して!」
「あい」
自身もあわててメガネをかけた遊子に促され、夏はアタッシュケースから大剣を取り出した。真紅のラインが入った刀身とそこに込められた熱量に、軽いざわめきが起きる。
いつの間にか出穂が夏の隣に立っていた。出穂は夏の直掩、護衛役なのだ
「機嫌なおった?」
「……それって、怒らせた人が言っちゃいけないことですからね」
「まだ怒ってんのかよー」
「はいっ、もう許しません!」
「勝つまでは?」
出穂の手が出そうになったところで、ユーリの号令が響いた。
「時刻合わせ、準備!」
全員がそれぞれの利き手の腕時計を確認し、
「作戦開始!」
タイマーをスタートした。
一階を制圧していた防衛隊員たちの視線を浴びながら、四十一名が都庁に突入する。頼むぞ、という声が一つ聞こえた。
「三十二階までは両班合同で進軍、三十二階到達後に、北班の指揮を真田が、南班の指揮を染矢がとる。各隊員は事前の説明通り、役割を全うせよ」
通常のダンジョンであれば、階層の主を倒さなければ次の階層には進めないが、この居抜き型と呼ばれるダンジョンでは別だ。最上階までの移動を妨げるのは各階に発生するモンスターたちのみで、構造的な障害は発生しない。
そのため、選抜隊が倒すのは進路上の敵のみだ。三角形の陣形で進みつつ、先頭および外側の隊員がモンスターに対処し、その間残った本体は進行を続ける。モンスターの処理を終えた隊員が陣形の最後尾につき、またモンスターが行く手を阻めば、そのときの先頭の隊員が相手をする。これを繰り返すことで、中核である遊子と夏の足を止めずに最上階まで運ぶことが、他の隊員たちの目的だ。
始まってみれば驚くほどにこのやり方はうまくいき、二十階まで夏はするすると移動することができた。階段を上りながら、舌を巻く思いで前を行くユーリの後ろ髪を見ていると、ビービーという警告音が鳴り響いた。
「レッドクラスだ!」
先頭の隊員が叫ぶと同時に立ち向かい、跳ね飛ばされる。
行く手を塞いでいたのは、牛ほどもあるネズミだった。出穂が短い悲鳴を上げる。
夏の視界にも赤い危険色が現れ、夏に逃亡を勧める。恐らく、ほとんどのメンバーにとって単独での戦闘は危険な難敵。
全員の意識がユーリに向いた。誰かを残して対応させるか。被害覚悟で無視して進むか。それとも、撤退するか。
指揮権の重みを感じさせる、数秒以下の時間。ユーリが口を開く前に、陣形から影が突出した。
影がネズミの横を閃光のように過ぎ去った次の瞬間には、胴体と泣き別れになったネズミの頭が転がった。
青みがかった大鎌を握り、天井にまで達するほど跳躍した遊子が、血の吹き出したネズミの体を見下ろしながら、インカムに声を吹き込んだ。
「討伐確認」
明確な指揮が全員の耳に届く前に、流石、というユーリの声が夏には聞こえた。
「作戦続行!」
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