第3話 第1章 好きな色は黒 #3
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『あなたの歌声を聴いていると、活火山のように煮えたぎっていタ頭の中が、深々と緑の生い茂る夏の山に変わるように穏やかな気持ちになります』
風呂上がりに火照った体を冷やすため、下着姿でエアコンの風を直接浴びながら私はスマホを開いてSNSアプリを起動した。いつも独特なメッセージをくれるフォロワーのMooNさんが今日も相変わらずクセのある比喩表現を交えたコメントを私の動画投稿に添えてくれていた。動画の総閲覧数は580。前回より30回ほど増えただろうか。私の本業という名の趣味は、SNSにエレキギターやアコースティックギターで弾き語る動画をアップすることだ。登録者数は今年に入ってようやく500人に乗ったところで、5年ほど前から始めたと考えると呆れるほど流行っていないアカウントだ。
『そのカバー曲、本人の声より好きです』
『CD出してくれたら絶対買うのに』
『いつかライブをしてくれたら絶対見に行く!』
数少ない嬉しいコメントを見ると、浮き足立ってそのまま体がふわふわと浮いてしまうそうになる。大袈裟かもしれないけれど、その声たちがあるおかげで私は今日も生きていてよかったと思えている。私はその支えがあるおかげで今も活動を続けている。一人暮らしの狭い部屋には唯一こだわった防音性能の良い部屋を選び、なけなしの貯金を引っ張り出して決して高性能とはいえないけれどそれなりに機材も揃えた。エレキギターとアコースティックギターを1つずつ買ってその日の気分に合わせて曲を弾く。作業場となるスタジオのようになっているこの殺風景な部屋。それと、私の生活の大半を担うリビングでは、まるで生きているような猫のインテリアや肉球を模したクッションなんかで飾られていて、2人の人間が部屋を分割して暮らしているような空間になっている。
今日は最近SNSで話題になっているバンドのバラードをアコースティックギターで弾き語った。我ながらその優しい音色を聴くと、今日体の中に溜まりに溜まっていたイライラやストレスが蒸発して消えていくように癒される。自分にとっての精神安定剤ともいえる本業を私は週に4回ほどバイトを終えてからこなしている。昨日、佳苗に提案してもらった流行りの曲を弾くと世間の反応が良いかもという言葉を聞いていてよかった。普段よりも嬉しいコメントが多く届いていてフォロワーも6人も増えていた。時計を見るとすでに深夜の1時を超えていた。私はこんな時間に久々に感情が熱くなった。
「めっちゃ増えたな。やっぱりみんな、アコギの方が聴きやすいよなぁ。コメントしてくれた人ありがとう」
誰に聞かせるでもない独り言を呟きながらフォロワーの画面をスクロールしていく。私がこの活動を始めた頃からフォローしてくれている人、個人的に少しだけバズったと思う動画がきっかけでフォローしてくれた人、最近私を知ってくれた人、たった今私をフォローしてくれた人、面識がない人。フォロワーの中には色んな種類の人がいる。プライベートで使っているアカウントのフォロワーよりもとっくに多くなっているフォロワーの人たちを見ていると、私はこの世界に生きていてもいいんだと思わせてくれる。普段から何の活力もない私だけれど、この繋がりがあるおかげで昼間でも何とか人と会うことが出来る。フォロワーの一番上にはMooNさんのアカウントがある。プロフィール画像がそのまま、まん丸の満月になっているMooNさんはとても印象的だし、どこか私の守り神のように思っている。
気がつくとギターを弾いて1時間半ほどが経っていた。流石に指も痛くなってきてキリのいいところでビデオ録画のスイッチも切って機材を片付けた。達成感があるからかバイトが疲れたのか今日はどうしてもお風呂に入る気になれなくて、いつも寝る時に着ているスウェットに着替えてそのままベッドに飛び込むように寝そべった。気を抜くと5分で寝られそうなほどふわふわしていたけれど、日課である早乙女達月の小説の世界を味わったから寝ようと文庫本を開いた。
『がんばれって言わないで。あなたのがんばれは私のがんばれじゃないから。私のことは私しか分からない。あなたのこともあなたしか分からない。私たちは一緒にいても全てが一緒になることはない。それが普通だよ』
『何かを達成しないといけないことなんてない。生きているだけでいいんだ。毎日、生き抜くことが出来ている私はそれだけで素晴らしいんだ』
『人は助け合って生きていく生き物だけれど、それに依存しなくてもいい。自分のペースがあって、自分の住処があって、自分の時間がある。それは紛れもなくあなたのもの』
今日を終える私を労ってくれているように早乙女達月の言葉が私を優しく包む。自立することを目指して1人で暮らしている私だけれど、この小説があるおかげで私のこの生活も肯定してくれているように思える。大袈裟かもしれないけれど、私はこの人の言葉に陶酔しているのだ。おかげで今は恋人を作るつもりもなければ、生活を変えるつもりもない。親友の佳苗だっているし、お金は少しずつではあるけれど貯まってもきている。満足のいく暮らしが出来ているとは思っている。ただ、心の中には何か引っかかって取れない棘のようなものがあるのも私は知っている。それで気づいていないふりをしている。それを気にしたくなくて私は今日も目をゆっくりと閉じた。
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朝起きると、私は大体絶望的に体調が悪い。加湿器を使ってどれだけ部屋の湿度を上げても起きた時の喉はいつも痛いし、寝る前にどれだけストレッチをして寝ても大体腰か肩の辺りが痛い。いくつもの錘が体に巻きつけれられているかのように感じるずっしりと重い体。血圧が低い私は、1日が始まるスイッチを押すのがとても遅い。だから朝は活動を始める1時間半くらい前にアラームをセットしている。今日は6回目のアラームが部屋中に鳴り響いて体を起こした。いつもよりは少しだけ早い方だ。体を引きずるようにベッドから降り、流れ作業で朝の準備を済ませて今日も駅へ足を動かした。
平日の昼間とあってか、客の数は極端に少ないし店内にかかっている暖房が絶妙に温かくて私は睡魔に襲われている。今日は佳苗とは被っていなくて、話し相手もいないとてつもなく暇な日、暇な時間帯になっている。隣のレジを担当している後輩の佐久間くんとは会話をしないことはないけれど、これといって話す話題もないので時間が過ぎていくことだけを願っている。
「今日は特に客数少ないなぁ」
事務所から出てきてレジの様子を見に来たのがこの店の店長である北山さんで、彼はへらへらと笑いながら店内に設置されている防犯カメラのモニターをじっと覗き込んでいる。年齢は5歳年上の若い店長だけれど、私よりも20個くらいは上なんじゃないかと思ってしまうほど落ち着いているし、顔は老け顔だ。
「本当ですよ。私、真面目に今日はまだ8人ぐらいしか接客してないんですけど」
「はは。8人だったら今日はもう閉店しちゃう方が良い判断かもしれないね。人件費と電気代と光熱費とって考えるとね」
「ホントっすよ。ガチで臨時休業しません?」
佐久間くんが気怠そうに息を吐きながら北山さんを見つめている。彼は本当に帰りたそうな顔をしている。彼は本音を包み隠さずに私たちに言うものだからそれを良くないと思っている人はいる(佳苗とか)。けれど、私みたいに本音を隠したりしない彼を私は逆に潔くて良いなと思うし羨ましく思えたりもする。
「アリだなぁ。俺も妻とデートしに行きたいよ。この時間から閉店したら水族館にも動物園にも行けちゃうから悩ましいなぁ」
「オレも行きたい所あるんすよね」
「うん。めっちゃ気持ち分かる。でもね、俺の勘だとあと30分もしたらテスト期間で早く学校から帰ってくる生徒たちが来る気がするんだ。テニスラケットとかの部活道具のメンテナンスが入ったりするかもしれないからしばらく様子を見よう」
「もし来なかったらホントに閉店するんすか?」
「閉店しよっか」
へっへっへと独特な笑い方をする北山さんを、絶対っすよと本気のようなトーンで言って、目からビームが出そうなほど佐久間くんが見つめている。北山さんはそんなことを言っているけれど、実際に店を途中で閉めることをしたことは無いはずだ。少なくとも私がここで働き始めてから今に至るまでの間には。それともうひとつ確かなことがある。北山さんの勘は異様に当たる。まるで、未来がみえているように当たってしまう。ほら。そう思っていると制服姿の男子生徒が4人組で店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
「……しゃいませー」
私と佐久間くんの正反対な客を迎える声が店内に響き、私は再び自分の中の仕事スイッチを入れた。ちらっと視界に映っている北山さんの方を見ると、私の視線に気づいたのか、私の方を見ると右側の口角だけ上げて笑顔を向けると再び事務所へ戻っていった。それから3時間、北山さんの言った通り学生たちが店内に押しかけて余計なことを考える時間もないほど忙しくなった。体中にのしかかる今日の疲れと達成感を背負いながら店を出ると、喉が枯れていることに気づいた。気にし出すと悪化しそうだと思った私は、駅ではちみつ味ののど飴を買い、今日頑張った自分を労うようにそれを舐めながら家へ帰った。
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