秘密のビーフシチュー

やまとゆう

第1話 プロローグ #1


 『人の心の中には、誰もが月と太陽が住んでいる』


この言葉を目にするのは何回目になっただろう。自慢するつもりはないけれど、おそらく四桁は確実に超えている。私の好きな小説家である、早乙女達月(さおとめたつき)が書いた物語で出てくる私の好きな言葉のひとつだ。誰にも言ったことはないけれど、私は寝る前に開く物語の世界が好きだ。もしも願い事がひとつだけ叶うのなら、現実世界から飛び出してすぐにでもそこへ行きたいと強く願う。こんなに生きづらい世界にいるのだから尚更だ。私は明日も、顔と心に自分でも引くほどの明るさを放つ太陽を引っ提げて生きていかなくてはいけない絶望感を抱えながら目を閉じた。


 「明日が来なかったらいいのになぁ」


            ✳︎


 ピピピ。ピピピ。ピピピピピ。ため息を漏らしながらスマホから流れてくるアラームを止めた。私の願いが、いとも簡単に払いのけられるように朝が来た。無駄にリズムを刻んでくる不快で聞き慣れたアラームの音が、この世界から聞こえるどんな音よりも嫌いだ。

 朝からじゃれあったりしているのか、鳥の鳴き声がそんな寝起きの悪い私を煽るように部屋の外から聞こえてくる。私は耳に入る全ての音に嫌悪感を抱いて目を覚ます。大体の日は体中にダンベルを巻きつけられているのかと思うほど体は重いし、喉と肌は砂漠地帯のように乾ききっているし、頭は万力で締めつけられているようにキリキリと痛む。今日もそんな三拍子が揃っている最悪の朝だった。

 芋虫のように体をもぞもぞと動かし、毛布を体に巻きつけたままベッドを出てその状態で洗面所に立った。化粧をしている時の自分の顔も死ぬほど嫌いだけれど、朝起きて一番最初に見る私の顔はそれより何倍も嫌いだ。そんな自分の顔と目を合わせないように目を瞑りながらボサボサになっている髪の毛をドライヤーで整えていく。誰とも関わりたくなくて始めた一人暮らしも2年が過ぎて、朝のルーティンは大体決まってきた。私は世界で一番それをしたくない顔で毎日こなしている。そんなネガティブな私とは朝食を食べ終えた時点で別れを告げる。


 「さ、今日も頑張ってもらいますよ。太陽さん」


独り言を言う回数も年が経つごとに増えていく。あと10年もしたら私は1人で会話が成立するかもしれないと本気で思っている。そんな自分の中の太陽さんが活動し始めた頃、スマホからピロンと空気の読めない電子音が鳴り、1件の通知が届いた。そこを見ると、バイト先の先輩で店長である北山さんからのメッセージだった。


 『おはよう。朝早くにごめんな! 今日さ、15時からバイトに来る予定だった橋本くんが急に体調を崩したらしくてさ。今日、桜井さんはバイト15時までだったよね? もしいけそうならでいいんだけど20時までいけたりしないかな(´∀`;)?』


そんな文章の最後にいる、メッセージを送っている本人は悪びれた様子もないであろう表情で汗をかきながら笑う顔文字がさらに私の感情を煽っているように見えてイライラした。心を鎮めるように意識しながら私は文章を作った。


 『おはようございます^^ 大丈夫ですよ! むしろ今日はやること無かったので! 10時から20時まで! お願いします!』


ボディビルダーのように腕を曲げ筋肉を見せつける、やる気の意気込みを表現するポーズをする猫のスタンプをつけてメッセージを送ると、『マジ助かる! さすが桜井さんだよ! ありがとう!!』というメッセージが10秒以内で返ってきた。その返信の早さに恐怖感を抱きながら私も返信をして、さらに重くなったように感じるずっしりとした腰を上げた。


 「あー、早く12時間後になんないかな……」


準備を終えて扉を開けると、私の体に追い打ちをかけるような煌びやかに光る太陽の光が私の視界を覆った。私は自分の体に鞭を打つように足を動かし始めた。駅まで続く道を歩いていくと、部活の朝練なのか大きなエナメルバッグを荷台に置いて自転車を走らせていくジャージ姿の学生たちが、毎日大体同じくらいの時間帯で私を追い越していく。彼らを見ていると、私も歳を取ったなぁとしみじみと実感する。まぁ学生時代に戻りたいとは微塵も思わないけれど。


 「あ、日菜ちゃん! おはよう! 今日も早いね」

 「おはようございます! はい、今日から5日間早番なんです」


駅まで続く道をこの時間歩いていると、必ず遭遇する40代くらいの気さくな女の人。全身赤色のツナギの作業着を着て自転車を漕ぐこの人は私とは反対側の方へ向かっている。察しの通り、私は長い時間会話をすることが苦手だ。3分も話していると私の頭の中はいつ話を終えるかだけを考えてしまう。この人はそんなことなど考えているはずもないくらい素敵な笑顔を私に向ける。


 「そっかぁ! 大変だろうけど無理はしちゃいけないよ!」

 「ありがとうございます! けど、それはお互い様ですよ!」

 「あはは! ありがとうね! 日菜ちゃんの笑顔を見れたら今日も1日頑張れそうだよ」

 「そんなこと言ってくれてありがとうございます! 私も嬉しいです」

 「ふふ。あ! 引き止めちゃったね! 電車の時間、大丈夫?」

 「はい、大丈夫です。時間に余裕を持って動いてるので」

 「さすがだね! 私の方が職場に着くの遅刻しちゃうかもだからそろそろ行くわね! じゃあお互い、今日もがんばろーう!」

 「はーい! 行ってらっしゃいー!」


私に背を向けたまま右手を上げて姿が見えなくなるまでその手を振り続けるあの人を見送って私も再び足を動かし始めた。そういえば、あの人の名前を覚えてないけれど、私の名前をあの人が知っているのは何でだっけ。私は自分の名前を知らない人には教えるつもりはないポリシーがある。不思議な気持ちに駆られながらも私はそのまま足を動かして駅に着いた。スマホの画面を開いて時間を確認すると、普段よりも駅に着く時間が5分ほど遅れていた。

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