第9話 #9
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こんなにゆったり時間が流れるように感じるのはいつぶりだろうか。ちらっと腕時計を覗き込と、私の好きな時間である13時半を少し過ぎた頃だった。憩い場の喫茶店での私の特等席である窓際の1人用の席。柔らかい日差しが心地よく、お洒落な雑貨屋さんに売っていそうな扇風機の風がちょうどいいポジションで当たる。それと一緒に私の全身を包み込むように香ばしいコーヒーの香りが癒してくれる。私が思う最高で有意義な休日の過ごし方のひとつだ。水曜日の昼間ということもあり、客は私とカウンター席にいる、いつもグレーのベレー帽を被っているお洒落なおじいさんが1人だけという何ともゆったりとした店内で、人の目を気にすることもなく読書をすることが出来る。この贅沢すぎる時間をバイトが休みの私は思う存分満喫している。小説のなかの物語が一区切りついて休憩をしようと本を閉じた瞬間、それが合図だったかのように同時に店のドアが開いた。ドアから入ってきた人が視界に入った瞬間、私は体に電流が流れたのかと思うほどビビッと衝撃を受けた。左目が隠れているその人も、見えている右目が私を捉えて驚いているように見えなくもなかった。今日はこの前スポーツショップに一緒に来ていた、あの筋肉がムキムキで身長の大きい人とは一緒にはいなかった。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
「はい。おひとりさまです」
「ふふ。いつもご来店ありがとうございます。お好きな席にどうぞ。お水とメニューをお持ちします」
彼もこの店の常連客なのだろうか、綺麗な店員さんが顔見知りに見せるような朗らかな顔で笑いかけながらその人に頭を下げてキッチンの方へ向かった。彼は表情のないまま吸い寄せられるように私の隣にある2人がけの黒いソファの席の元へ来た。疲れているのか、彼は大きなため息と一緒に倒れるようにそこへ座り込み、ブグッとソファも鳴き声を鳴らすように彼の体重を吸収した。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
「ミックスジュースもらっていいですか? あとチビチキ」
「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」
終始笑顔の店員さんが席から離れると同時に彼は、羽織っていた紺色のコートのポケットから文庫本を取り出した。その本を見てみると、私の好きな小説家、早乙女達月さんのデビュー作だった。もちろん私もその小説を持っているし大好きだ。まさかこの人も私と一緒の作者が好きだとは。それが何故かとても嬉しく思えた。
「お姉さんも好きなんですか?」
「え?」
「早乙女達月。その小説、彼のだから」
かろうじて前髪の間から見えるその目はじっと私の手元にある文庫本を見つめている。不意に話しかけられたこともあり、私は自分で思うほど慌てた様子でその人に返事をした。
「あ、は、はい! この人のデビュー作からずっと追いかけてます!」
彼はさすがに私のことは覚えていないらしく、私を見ても話題に出ないことはつまりそういうことだろう。それにしても、この人が話しかけてくることは想像が出来なかった。それに動揺して、あからさまに言葉が詰まってしまったことを心の中で後悔した。
「僕も好きです。この小説家の本をあんまり手に取ってる人を見かけることがない気がするから、ちょっと仲間感覚で話しかけちゃって。急に ごめんなさい」
彼は抑揚と表情のない様子で私にそう伝えて頭を軽く下げた。その声は、まるでどこかに自分の魂を置いてきているのかと思うほど彼が遠くにいるように感じた。手を伸ばせば触れられそうな距離なのに。いや、触れたいとかはさすがに思わないけれど。何考えてんだ、私。
「い、いえいえ! 私もそもそも読書仲間が周りにあんまりいなくて好きな作家さんが一緒っていうだけで嬉しく思いましたよ!」
控えめな音量で流れる店内のおしゃれなBGMが、私の言葉を沈黙に変えないようにかかってくれている気がして勝手に心強く思えた。彼は下げていた頭をゆっくりと戻した。すると、彼は私の目を見ているようで見ていない、独特な視線で私の方を見つめている。
「お姉さん、スポーツショップにいた店員さんですよね?」
「あ、はい! そ、その節はありがとうございました!」
覚えられていた。まさかの展開だ。私の焦っている心の中は、凄まじいスピードで混乱していくのが自分でも分かる。相応しい返答なのか判断する余裕が今の私にあるわけがなかった。
「僕のこと、覚えてますか?」
「も、もちろん覚えてますよ! 大柄なお連れさまと来店されてバレーボールの商品を注文されていった方ですよね」
「……お姉さんも記憶力いいですね」
「え?」
「僕、記憶力だけは自信があって。一度会った人なら、ある程度思い出せるんです。でも、逆に僕には特徴がないから人から覚えられていることが少ないんです。だから、覚えられていて正直ビックリしてます」
ビックリしてます、と言いながら彼の表情はさっきから何ひとつ変わっているところが見当たらなかった。声のトーンも変わらず一定なものだから、私は笑いを噴き出してしまった。彼はそんな私の顔をやっぱり何の表情もないままじっと見つめている。
「あ、ごめんなさい。ビックリしてるの顔が、さっきと変わらなかったものだからちょっと面白くなっちゃって」
「こちらこそ、ごめんなさい。僕、見ての通り感情が表にほぼ出ない人間なんです。お姉さんみたいに表情豊かな人がすごいって思う人間です」
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