第37話 #37


 電車を2回ほど乗り換えて降りた駅。私しか降りなかったその駅には人が1人もいない。ホームにも車掌さんの姿はなく、駅から出てもシャッターが閉まっている商店街の店が立ち並び、そこは人の気配がまるでない。私たちが住んでいる世界とは違う異世界に来たような気持ちになり、少しずつ怖さが込み上げてきて私の足を少しずつ早くさせた。怖さを押し殺しなら地図アプリの画面に出ている目的地に沿って歩いていくと、駅から5分ほどでそこに着いた。私の目の前には赤色のレンガ造りの建物の半分以上が木の蔦に取り込まれている、まるで森の怪物がそこに住んでいるような建物がそびえ立ってる。スマホにある優子さんから教えてもらった位置情報を探って辿り着いたこの建物が達月くんのアトリエだ。取り付けられている窓からは光が灯っているように見えた私は、優子さんに言われた通り恐る恐るドアを2回コンコンと叩いた。建物の中で人が動いた音がしたけれど、ドアが開く気配は無かった。


 「た、達月くん? 私。ひ、日菜です」


控えめに出した私の声が聞こえたのか、部屋の明かりが消え窓の中が真っ暗になった。本当にこの建物の中に達月くんがいるのかは分からないけれど誰かがいることは確かだ。私はさっきよりも力強くドアを3回叩いた。


 「達月くん開けて。この街、怖いから開けて。お願い」


彼に聞こえるようにわざと大きな声でそう言うと、重たく見える黒々としているドアが鈍い音を立ててゆっくり開いた。そこにはいつも見ることのない、前髪をゴムでくくってちょんまげにしている達月くんがそこにいた。何だその可愛さしかない髪型は。というツッコミを心の中で決め、達月くんの顔を見た瞬間、さっきまで私を覆っていた恐怖心が勢いよくどこかへ飛んでいった。初めてちゃんと見る彼の顔と目が合うと、私はそれだけで心臓が速く動き始めた。あまりにも綺麗な顔立ちに目が離さないでいると、彼は困ったように眉をひそめた。


 「よく怖いのにここまで来たね。しかもこんな時間に」

 「だ、だって……! 達月くんが急に帰っちゃうから」

 「1人になりたいって言ったじゃん」

 「わ、私もその気持ちは分かるけど、やっぱり、何か、ほっとけなくて」


必死に心を落ち着かせながら彼に言葉を届けると、彼は何かを考えるように腕を組んで目線を少し上にした。そして何かを思いついたように口が開いた。


 「けど、わざわざありがとう。時間も遅いし危ないからここに入って」

 「あ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて。お邪魔します……」


そこに入ったその瞬間、彼からいつも香る石けんのようないい匂いの風が私を通り抜けていった。心臓の音が彼に聞かれてしまうのではないかと思うほど大きく聞こえてくる。彼はそんな私の状況など知っているはずのない、いつもと同じ表情のない顔で私の足元にベージュのスリッパを置いた。それは底が少し分厚い、あまり見ないつくりのスリッパだった。


 「これ、来客用。足元、たまに画鋲とか落ちてて危ないし床、埃っぽいから使って」

 「あ、ありがとう。なんか身長大きくなった気がする」

 「うん。厚底だから」

 「だ、だよね」


普段からゆっくり歩く彼の足が一層遅い気がしながら私は彼の後ろを歩いて行く。彼がドアを開けると、そこには画家の作業部屋かと思えるほどたくさんの美術作品のような絵が壁中に描かれていた。これを彼が描いているのなら、凄まじい才能だと断言できる。正直、小説を書くよりアートを描くべきだと思った。私はそれらの存在に、ただただ圧倒された。


 「た、達月くん、この絵たちは……?」

 「あぁ、僕の好きな絵師さんからもらった絵画だよ。この作品たちに少しずつ、僕の心は支えてもらってる。あ、僕は絵は死ぬほど下手だから間違っても僕が描いたものだと思わないでね」


そんなこと言いながら絶対私より絵を描くのは上手い気がする。というのも、私も自分で絶望するほど絵が下手だからだ。


 「な、なるほどね。すごい絵がいっぱいだなって思ったから」

 「うん。この絵師さんに本の表紙とか、いつか書いてもらいたいなって思っててね。それが目標って思っているのも仕事の何割かは担ってるよ」


達月くんの見つめる先にある絵は特に強烈だ。マグマのようにぐつぐつと煮えたぎっている、赤い水の入っている浴槽の中に浸かっているスーツを着た男の人や女の人が苦しそうな顔をしている。上手く表現は出来ないけれど、簡単に言うなら地獄のような光景だ。


 「この絵とかすごい。私は美術館とか行ったことないし、何も詳しくないけどこの絵は断トツですごいと思う。ごめん、語彙力なくて。何だろう、すごく死が近くにあるような気持ちになる」

 「日菜さん。的を得てるよ。この絵のタイトルはね、『この世の地獄とあの世の果て』。僕の体が動く原動力はいつだってネガティブなイメージだった。この世界にある絶望感を味わうほど頭が回転する。手が動く。物語が進んでいく。だったのに」

 「……のに?」


饒舌に動いていた彼の口が急に止まった。さっきより声も低くなった。


 「全く思い浮かばないんだ。心の中も季節が変わったみたいに寒くなくなった。春みたいに穏やかな気持ちが芽生えた。無数の桜の花びらが風に乗って僕の心境を祝福してくれているみたいに背中を押される」

 「……」

 「いつからか自分が知っている自分じゃなくなってきている気がすると思うと、僕は怖くなってそこから動けなくなってしまう。現に今、そうなっているのかもしれない」


俯いている達月くんを見ていると、私は無意識に自分の手を伸ばして彼の左手に触れていた。彼の左手は驚くほど冷たかった。生きている人間の体温ではないほど冷たい彼の手を握り、私は自分を落ち着かせながら彼の目を見た。彼も驚いた様子で私の目を見つめている。彼の茶色の瞳を見ていると、改めてその綺麗な瞳に見惚れてしまう。私は開き直るように自分の中にある言葉を彼に届けようと決めた。


 「達月くん」

 「ん? 何?」

 「私は達月くんの過去を全て知っているわけじゃない」

 「え?」


目を大きくする彼を見つめながら私は大きく息を吸ってゆっくり吐いた。何だか今なら彼に私の言葉が上手く伝えられる気がした。


 「私が知っている達月くんは、あなたのほんの一部なのかもしれない。それでも私はキミが好きなんだって気づいた。私も人のことをすぐ好きになる性格じゃないのは自分がよく知ってる。何なら私だって他人を好きになったことなんてほとんどなかった。ついこの間までほとんどの人に距離を取ってコミュニケーションを取ってた」

 「……」


達月くんは何も言わずに私を見つめる。けれど、その綺麗な目はしっかりと私の言葉を聞いてくれている。


 「だから、今自分の中にある気持ちが本当に達月くんのことを好きなんだっていうのが自信を持って言えるかは正直分からない。でも、離れたくないんだ。あなたを1人にしたくないの。私はあなたと一緒にいたい。それだけは間違いない。それだけは自信を持って言える」

 「……」


達月くんからは、変わらず声が何一つ聞こえずに私の目をじっと見つめている。あまりにも見つめてくるものだから、私はたまらず目線を逸らして握っている左手を見つめた。


 「あと達月くん、手冷たすぎ。今更だけどめっちゃ冷たい。冷凍庫に入ってる保冷剤を触ったみたいだから」

 「いやいや、ちゃんと手だから。いつも通りの体温だから。他の人より体温低いだけだから」

 「私、逆に人より手が温かいと思ってるんだよね」


私がおどけて笑うと、彼の冷たい手が私の手に触れた。やっぱりすごく冷たいし、予想外の行動にとてもびっくりしているけれど、その手を離してほしくないという気持ちが一番強かった。私の手にずっと触れてていてほしい。


 「うん、確かにめちゃくちゃ温かいね。冬場もこれくらい温かいの?」

 「うん。1年中、この温かさを提供出来ますよ」

 「冬場のそれはだいぶありがたい」

 「そうでしょ」


ふふっと笑った彼の手が少しずつ温かくなっている気がする。まるで彼の優しさや温もりが少しずつ私たちに慣れてきてくれているのかもしれない。そう思うと、私は舞い上がってしまいそうになるほど嬉しかった。


 「夏場のそれは避けたいけど」

 「しのごの言っちゃダメ」

 「ごめんなさい」

 「……あはは!」

 「え? 笑いは狙ってないよ?」

 「ううん。そうじゃないの。何かおもしろくて」


私が笑うと、つられるように彼も笑顔になった。その笑顔は本当に自然でリラックスしていて、彼をもっと笑わせたくなった。


 「……変な人」

 「私は変な人だよ。知らなかった?」

 「まさか。ずっと前から知ってたよ。まぁ大体、この場所に来ちゃってる時点で変な人だからね。普通の人はこんな場所に来ない。てか、来れない」

 「変な人を受け入れてくれてる人も私の目の前にいるけど」

 「もちろん僕も変な人だよ」

 「おぉ? 珍しく素直だね。達月くん」

 「感謝を伝えてるつもりなんだ」

 「感謝? それは伝わらないかも」


じんわりと温かくなった彼の手がゆっくりと離れて、彼は物音をひとつも立てずに椅子から立ち上がった。彼が動いた瞬間、私の鼻に再び彼の身に纏う、石けんのようなにおいが鼻に届いた。さっき彼と触れ合っていたことを改めて認識すると、遅れてくるように私の心臓の動きが少しずつ早くなった。

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