第36話 #36
✳︎
「こんばんは。達月くん」
「あぁ、日菜さん。こんばんは。今日も仕事終わりから大変だね」
「うん。引き継ぎ事項をバイト先で後輩の子に教えてるんだけど、人に教えるって大変だね。相手の目線に立って説明出来ないと本当に難しい。優子さんはいつもすごいと思う」
店にやってきた達月くんといつものように何気ない会話をしていても、心の中がどこか落ち着かない。まぁその理由が今日は分かる。いよいよスポーツショップを辞める日が1週間後に迫っている私は、佐久間くん以外のスタッフにも満遍なく引き継ぎ事項を教えている。自分の要領の悪さもあるかもしれないけれど、この時期まで業務が長引くとは思っていなかった。正直、それを教える時間が、今の私の過ごす時間の中で一番疲れる時間だ。けれど、3週間ぶりくらいに達月くんの顔を見れたから、その疲れが飛んでいきそうなほど心の方が舞い上がっている。
「まぁ人には得意なこともあれば苦手なこともあるだろうからね」
「そうだよね。もっと容量よくしないとなぁ」
私の心の中とは180度違う落ち着きを見せる達月くんに悟られないように、私も平然を装う。普段から口数が少ない達月くんだけれど、今日は一段と少ないように思えた。
「……」
「あ、ごめん。今、仕事中だった?」
「んー、大丈夫」
「落ち着いたら喋ろうよ。それまで隣の席で勉強してるね」
「んー、うん。ありがとう」
それから1時間半ぐらいは無言の時間が続いた。優子さんは自分の部屋にいるけれど、取引先とのリモート通話をそこでしているようでしばらく出てくる様子はない。ニケさんは佳苗と一緒にアップルパイを作ったきり、また旅に出てそれっきりだ。達月くんのキーボードを叩く無機質な音だけが、この空間に響く。私も自分の書いたノートと向き合っていたけれど、達月くんの様子が気になって勉強どころではなかった。
「……はぁ、終わったぁ」
「今日もお疲れ様でした」
久々に口を開いた達月くんに嬉しく思い、私はあえて敬語で話しかけた。
「ありがとうございます」
彼も敬語で返してきて笑えた。達月くんの敬語、久々に聞いたな。
「久々に敬語、使った気がするよ。何か懐かしい」
「確かにね」
「そういえば達月くん、お腹空いてない? 私の実践がてら、何か優子さんと一緒に作ろうか?」
「日菜さん。突然だけど聞きたいことがあるんだけどいい?」
私の質問を無視して私を見つめる達月くんの目は、何かとんでもないことを言いそうな神妙な面持ちだった。相変わらず、星屑が目の中に入っているのかと思うほど神秘的な瞳を私に向けているけれど、今は少し怖さを感じる。
「え、う、うん。いいよ」
体全体に力が入っているのを感じながら、私は覚悟を決めて彼に答えた。すると、彼は大きく深呼吸をしてから口を開いた。
「日菜さんの思う好きなことって何だと思う?」
「私の思う好きなこと?」
好きなこと? 思っていた質問とは違いながらも、少し漠然とした質問を問いかけられた私は頭を回転させた。
「うん。仮に、今の日菜さんは料理とか美味しいコーヒーを作るとか色々あるかもしれない。けど、それってさ、どんなことよりも優先してやりたいって思うこと?」
そういうジャンルの話か。確かに今は優子さんやニケさんみたいに、美味しい料理やコーヒーが自分でできるようにしたいと思っている。
「そう……だね。今は美味しい料理を自分が作れるにはどうすればいいんだろうとか、優子さんやニケさんみたいに美味しいコーヒーを淹れるにはどうすればいいんだろうとか。朝から晩までそういうこと考えてるよ。何ならバイト先のスポーツショップにいる時も料理のこと、考えてる。好きなことっていう定義は分からないけど、楽しい時間だよ」
自分の頭の中を整理しながら言葉を選んで彼に届けると、納得したように彼は首を縦に振って少しだけ右側の口角が上がった。
「うん。日菜さんらしい答えだね」
私らしい……。自分でも自分らしいかは分からなかったけれど、達月くんがそう言ってくれるのは素直に嬉しかった。
「私、らしいかな……?」
「うん。それがとっても羨ましい。急に悩みを吐いちゃうんだけど僕ね、ここ最近全くイメージが湧かないんだ。それに創作意欲も湧いてこない。物語の1行も書けないんだよね」
「…….小説の?」
そうそう。と言って彼は天井を見上げながら両手で顔を覆った。それがまるで、彼が自分の殻の中にこもるような仕草に見えた。
「うん、3年ぐらい前はね、毎日、僕の頭の中には物語があった。それを自分が経験していくように筆が進んでいった。日菜さんは僕の一番の作品、何かわかる?」
「うん。『泣きたい時に泣く自分』だよね。代表作だと思ってる」
「そうだね。それが一番自分にとって……」
達月くんは何かを言いかけて、そのまま電源が落ちたように口を開いたまま動かなくなった。
「ん?」
「ダメだな。過去の自分にすがってるようじゃ」
彼は完全に壁にぶち当たっている。私にもあったしんどい時期。それが彼に訪れている。少しでも力になれるならと、私は自分が思っていることを彼に伝えようと決めた。
「私はそうは思わないよ。今が辛かったら、一旦立ち止まってみる。それで振り返って何を落としたかを探してみる」
私の言葉を否定するように彼は勢いよく首を横に数回振った。さっきよりも彼の仕草が大きくなった。「違うんだ」と言った彼の声も、明らかにさっき大きくなった。
「それが出来ないんだよ。僕には。振り返ってみると、歩いてきた道を塞ぐように色んな声が聞こえて遮ってくる。『あの頃の作品みたいなやつを書いてよ』 結局、一発屋だったんじゃない? あぁ、あったね。そんな作品。何て作者だっけ? いつだって聞こえてくる声は僕を追い込んでくるような声なんだ」
ジャンルは違えど、私にも似たような経験がある。弾き語り動画をアップしたその映像に対するコメント。ただ暴言を吐きたいだけのコメント。私の容姿に対するコメント。私の好きな曲を歌わないで。理不尽な罵詈雑言が胸に突き刺さることも決して少なくはない。彼の痛みを実際に知ることは出来ないけれど、辛い思いを想像することはできる。私は彼の言葉を聞き逃さないように耳を集中させた。
「……」
「夜だって最近はろくに眠れない。眠るとその声が聞こえてくるんだ。瞼の裏には僕を軽蔑してるように見つめてくる編集者の顔が浮かぶ。朝、起きるのも怖いし、できるなら誰とも関わりたくないって日が少なくない。このまま僕がふらっといなくなっても悲しむ人はいるのかなって思ったりもする」
私の目からたまらず涙が溢れた。達月くんはそれに気づいているように目を大きくして私を見つめているけれど、何も言おうとはしない。私もどうして泣いているのかははっきりとは分からない。私が泣くのも絶対に違う。そう思っても私は、泣かずにはいられなかった。
「だからね……」
「……」
彼が再び大きく深呼吸をした。
「1人になってみようかなって考えてるんだ。誰にも会わず、部屋のなかで自分と向き合う。そうした時に、僕はどう行動するんだろうって最近よく考えたりする」
1人。孤独だ。今の彼の精神状態で1人になったら余計に思い詰めてしまうだろう。それは絶対にしてはいけないはずだ。へたをすれば命に関わるかもしれない。大袈裟ではなく本当に危険だと思う。それに、達月くんに会えなくなるのはそもそも嫌だ。
「私ね……」
「うん」
私も彼を真似て、大きく深呼吸をしてみた。少し冷静さを保ちながら離すことができそうだ。彼の綺麗すぎる瞳を見つめながら私は口を開いた。
「早乙女達月の言葉が好きなんだ。無駄に体全体に力が入っていて頑張りすぎている自分を癒してくれるような優しい言葉たちを見るとね、嘘みたいに体と心が軽くなるんだ。誰しも前向きに生きていける人なんていない。だから、頑張りすぎなくていいんだ。自分のペースで、自分が生きたいように生きればいい。2年前、キミ自身が書いていた言葉。覚えてる?」
「……うん」
それは私の好きな言葉のひとつだ。人生の底に沈んでいた私を救ってくれた早乙女達月の言葉。まさか本人に言う機会が訪れるとは夢にも思っていなかった。
「私はキミの言葉に数えきれないくらい助けてもらった。死にたいって思った日だって1日や2日じゃない。私だって誰にも会わずにこのまま自分の部屋にいたいって思う日もある。実際、誰にも会わないまま休みの日が終わっていった日もある。そんな時にでもね、スマホを開くと早乙女達月の言葉を見ていた。結局ね、私たちは1人じゃ生きていけないの。絶対にどこかで誰かに助けてもらってるんだよ。それはきっと、達月くんだってそうだと思う」
彼の表情は変わらないけれど、私の拙い言葉を受け止めてくれている。自分の心の中を吐露することなんて絶対誰にもしないと思っていたのに。彼には私の全てを知ってほしくなる。それと同じくらい、彼のことを少しでも知りたくなる。少しでも彼の支えになれたらと思う自分がいる。
「……僕はしんどい時、いつもここに来てる」
室内にかかるエアコンの音よりも細い彼の声を掬い上げるように私は耳を傾けた。
「……うん」
「ここにニケさんはたまにしかいないけど、優子さんもいるし、日菜さんだってこうして笑って僕に話しかけてくれる」
「……うん」
「でもね、ダメなんだ。今の僕は。日菜さんが今みたいに優しくしてくれても素直にそれを受け入れられない。自分でも何故か分からない」
両手で頭を抱えて顔を隠している達月くんの声がさっきよりも震えている。このままだと彼は、自分を見失ってしまいそうになっている。そんな気がした。手を伸ばせば彼に触れられる距離まで少しずつ近づいた。
「……」
思い切って彼に触れようと、耳元に心臓がありそうなほど鼓動が大きく聞こえながら手を伸ばすと、彼の腰掛けていた椅子が雄叫びを上げたように勢いよく鳴り、彼が急にそこから立ち上がった。驚きながらも彼を見ると、魂が抜けたように床の方をじっと眺めている。
「嬉しいはずなのに、おかしいんだ。ごめん日菜さん。今一緒にいてもひどいことしか言えないだろうし、キミを傷つけてしまうことになると思うから僕、帰るね。優子さんにもよろしく」
私に背を向け、足早に出入り口のドアの方へと彼は向かっていった。今彼がここからいなくなると、まずい気がする。根拠は分からないけれど、絶対1人にしてはダメだと思った。
「あ、達月くん……! 待って!」
慌てて彼を追いかけると、彼はドアノブに手をかけたまま振り向いて私の顔をじっと眺めた。星屑が見える綺麗な瞳が涙で滲んでいたのか、さっきよりも光って見えた。そして、私の目を見つめたまま、彼は優しく笑った。その笑顔を見ると、私の心臓がまた大きく跳ねる。
「日菜さん。ありがとうね。こんな僕に優しくしてくれて。ちぇりーさんの次の配信、楽しみにしてるね」
「た、達月くんっ!」
私の張り上げた声が虚しく部屋に溶けていった。ドアを開けると、もう彼の姿は見えなくなっていた。右に見える大通りを見ても、左に見える道を見ても彼の姿はない。いくら探しても見つからず、私は全身から汗を吹き出したまま店に戻り、階段を登って優子さんの部屋へ急いだ。
「優子さん!」
「ど、どうしたの? 日菜ちゃん」
「達月くんが……!」
私が一部始終を話すと、優子さんは全てを悟ったように頷いた。まるで、彼の事情を知っているみたいだった。
「……そっか。その時期が来たか」
「その時期って?」
意味深な放つ優子さんの言葉に眉をひそめながら彼女に問いかけた。私の額からは気持ちの悪い汗がじんわりと滲み出てきた。優子さんはひとつも焦ることはなく私の方を見つめている。そして「実はね」と言って口を開けた。
「達月くんは、結構前からもうすぐ小説家を辞めるって言ってたの。彼、気持ちの浮き沈みが激しくてね、作品を出版する頻度が半年に1回の時もあれば、2年くらい空いたりしていた時期もあったりしてたんだよね」
「……そうなんだ」
私の知らない達月くんの姿がそこにある気がした。確かに早乙女達規月の小説は、新刊の小説を発売する時期はバラバラだった。当たり前だけれど、彼にも彼の悩みや葛藤があったのだ。
「まぁ気持ちが浮いてる時期も顔にはあんまり出ないから特別分かりにくいけどね。口数が多くなったり、声が少し高くなったりした時期があったりって感じで分かりづらいテンションの上げ方をしてたんだ。彼は」
「確かに口数が多い日もあった気がする……」
優子さんから改めて彼の話を聞くと、表情こそ分からないけれど、彼なりに時間を楽しんでいた時間ももちろんあったはずだ。私はやっぱり、今の彼を1人にしたくない。その気持ちがどんどん強くなっていく。
「それでね、沈んでる日が次の時期に来たら1人になろうかって考えているって言ってたのは私も聞いてたんだよね」
「優子さんも知ってたの……」
「うん。ごめんね。けど、さほど心配はいらないよ。彼が小説家を辞めて1人になっても彼はやりたいことを見つめているはず。まぁそれが何かは彼の口から言ってもらおうかと思うし私からは言えないけどね」
「……」
優子さんの落ち着いた声を聞くと、呼吸はいくらかしやすくなったけれど、やっぱり私は彼のことが心配で今すぐにでも飛び出したくなる。というより、なっている状況だ。優子さんはそんな私を見て気づいたのか、ふふ、と笑ってスマホに手を伸ばした。
「日菜ちゃんが達月くんのことを心配でたまらなかったら、達月くんが憩いの場所として使ってるアトリエの場所を教えてあげる。彼が悩みごとをしているなら多分、そこにいるはずだから」
私はようやく踏ん切りがついた。こういう状況になったからかは分からないけれど、今すぐにでも彼に会って隣にいたい。何が出来るかは分からないけれど、私は彼の側にいたいと本気で思っている。
「……優子さん、私、達月くんが好きだ。だから、彼を助けたい。何が出来るかは分からないけど、彼の所に行きたい」
「……日菜ちゃん、今のキミなら大丈夫だよ」
「……え?」
優子さんが私を抱きしめてくれる時、私は一瞬で視界が滲む。彼女の優しさと温もりのある体温が私を包み込んでくれる。私の後頭部に添えられている右手は、どんなことでも出来そうな力をくれる気がする。
「そうやって自分の気持ちに気づいた日菜ちゃんなら、きっと達月くんを助けてあげられる。今、スマホに送った位置情報が彼のアトリエの場所ね。電車を使えば10分くらいでそこに着くはず。そこの建物に電気がついていれば2回ドアをノック、もし何も見えなかったらドアを3回ノックしたらいい。彼がそこにいれば、それで開けてくれる。きっと、そこにいるよ」
「……ありがとう。優子さん」
私に姉がいたらこんな感じなのだろうか。私にも支えてくれる人がいる。そう思えるだけで体の奥底から活力が湧き上がる。そして、湧き上がったそれを彼にも届けたくなった。
「あ、それと」
「え?」
「アレは持っていってあげてね」
「アレ?」
優子さんは「アレだよ」と笑いながら、ギターの弦を弾くように右手を捻った。
「ちぇりーちゃんの必需品。早乙女達月が好きな音だよ。それを聴いたら彼の気持ちもだいぶ落ち着くんじゃないかな。ちぇりーちゃん、最近は動画上がってないから、彼は一層聴きたいと思うよ」
なるほどと思いながらも、優子さんも私がSNSで活動しているのを知っていたのかと思うと、少し恥ずかしくなった。
「あ、あはは……。優子さんももしかして見てるの?」
「うん。もちろん。私もちぇりーちゃん、好きだよ。もちろん、リアルタイムで見た日菜ちゃんの方が圧倒的に可愛いけどね」
しししと笑うこの優子さんの笑顔は、何だかニケさんに似ていて自然と私も顔が緩んだ。
「ありがとう……。なんか優子さんに可愛いって言われたら何でも出来そうになる気がするよ」
「大袈裟だよ。キミは本当に素敵な人だよ。だから、そのありのままの日菜ちゃんで達月くんを包み込んであげて。優しくね」
「うん。分かった。じゃあ優子さん、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね」
私はお礼をするように優子さんの体を抱きしめ返して店を出た。ぱらぱらと雨が降っていて梅雨入りしたことを思い出した。雨のにおいのする大通りを駆け抜けていくと、季節が巡っていることを実感した。彼と知り合ってから様々な経験をした。表情の固い普段通りの彼も、たまに見せる少年のような笑顔の彼も、ついさっき見た深刻そうな彼も、どんな彼も抱きしめたくなって私の足は自分でも驚くほど早く動いた。
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