第20話 #20


 「お待たせしました」


優子さんが運んできてくれたビーフシチューを見た瞬間、それに呼応するように私のお腹が大きく鳴った。恥ずかしさのあまり顔が熱くなっていると、「お腹は正直ね」と言って、天使の笑顔(私が名付けた)を私に向けて彼女がテーブルの上に置いた。

 見た瞬間に分かる。絶対に美味しいやつだ。ぐつぐつと沸き立っているルウの中に姿を見せるゴロゴロとした四角くて大きな牛肉。その隣にはホロホロに溶けかけているとろけたじゃがいもと、鮮やかな色で存在感を放つ人参の甘い香りが食欲を刺激する。その横に浸かっているのはカボチャだろうか。三日月のような形になっているそれも、やけに存在感を放っている。隣に置かれているライ麦のパンを、そのルウにつけたらたまらなく美味しいだろうな。その想像をしただけで既に味がしそうだった。私は早くそれを口に運びたくて目の前にあるこの料理たちに釘付けになった。


 「桜井さん、ガン見しすぎだよ」


じっとそれを見つめていると、優子さんの背後から飲み物を持ってきてくれたニケさんにもぷっと笑われてしまう始末だ。


 「い、いや、ビーフシチューが本当に美味しそうだったので! もうなんか、香りだけで食欲が体の中から溢れ出るように思えて!」

 「ふふふ。気に入ってもらえて良かったです。ね、ニケさん」

 「うん。ぜひ堪能してほしいな」


ルウの中へスプーンを沈ませると、とろとろに蕩けたそれと一緒にじゃがいもがスプーンの上に乗った。スプーンが口に近づくにつれて、ルウの香りもどんどん近づいてくる。あまりにも良い香りのそれを思いきって口の中に入れた。


 「うわ……! 何これ! 美味しっ!」


圧倒的だった。それは今までに食べてきたどの料理よりも美味しいと思えた。口に入れた途端に広がる、ルウの風味とじゃがいもの優しい味が私の口角を自然に上げた。何だこのビーフシチューは。幸せを食べ物で具現化したみたいな味だ。本当に美味しい。涙が出そうになる。視界がじんと滲んだ。


 「さ、桜井さん! 大丈夫ですか?」


そんな私の目を見た優子さんが慌てて私の元へ駆け寄った。すると私は、自然と顔の力が抜け、えへへと優子さんの方を向いて笑った。


 「ごめんなさい。あまりにも美味しくて泣いちゃいそうでした」

 「そ、それは嬉しいです。涙ぐむ人は流石に初めてだよね」 

 「そうだね。それだけ美味しいって思えたなら素直にすっごい嬉しいけどね」


ニケさんの方を見ると、彼も照れくさそうに笑いながら茶色い髪の毛を掻いて私の顔を見た。


 「その牛肉。びっくりするぐらい美味しいから。騙されたと思って食べてみて」

 「は、はい。いただきます」


促されるままそれを口にすると、これまた私がこれまでに食べてきた食べ物の中で一番美味しかった。それはもうダントツでぶっちぎりで、言葉にするには難しいぐらい美味しかった。よく煮込まれているその牛肉は5秒くらいで口の中から消えていった。美味しさが5秒で終わってしまうもどかしさを感じながら私は再びルウの中から牛肉を探した。


 「あはは。すぐ無くなっちゃうでしょ。牛肉」

 「は、はい! 噛んでないのに無くなっちゃって! それでもビックリするぐらい美味しくて! 私、こんな美味しい料理食べたことないです!」

 「いやぁ、そんなこと言ってくれたらこのシチューも嬉しいだろうね。僕も優子もこのシチューは大好物なんだ」

 「本当に美味しいですよね。このシチュー。桜井さんにも気に入ってもらえてよかったです」

 「はい! 本当に気に入っちゃいました。これからここに来たら、絶対さっきの言葉いっちゃいますよ」

 「ふふ。是非仰ってください。他のじゃがいもも人参もルウも、全部美味しいですから全部堪能してくださいね。あと、そのカボチャも」

 「あ、ありがとうございます……! やっぱりカボチャだったんだ。じゃあ、お言葉に甘えて……」


それを全て食べ終えて窓から外の景色を眺める頃には、太陽はすっかり役目を終えて夜の街灯たちが踊っているように煌びやかな光がついたり消えたり色を変えたりしていた。他の席に座っている老夫婦やジャージ姿の男の子たち、楽しそうに笑い合っている男女たちの手元にはオムライスや鉄板に乗ったナポリタンなんかが置かれていたけれど、私が食べたあのビーフシチューは置かれていなかった。それを思い出していると、私はさっき食べたばかりなのにまたビーフシチューが食べたくなった。


 「ごちそうさまでした、本当に美味しかったです」

 「今日もありがとうございます。いつでもお待ちしてますね」

 「桜井さん、本日もありがとうございました。久々にビーフシチューを出して食べてもらったのが君でよかったよ。また食べに来てね」

 「は、はい! すぐにまた伺うと思います! あの、今度は佳苗っていう友達と一緒にビーフシチューを食べに来てもいいですか?」


私がそう言うと、優子さんとニケさんは全く同じタイミングで微笑んだ。そして全く同じタイミングでゆっくり首を縦に動かした。


 「もちろん。是非お越しください」

 「うん。今日より美味しいの作るね」

 「あ、ありがとうございます! 楽しみにしています!」


私は2人に深めのお辞儀をした。顔を上げて気づいたけれど、今日は私が最後の客だったらしい。結局、閉店時間まで居てしまった。早々と帰るつもりだったのに、気がつくとずっとここにいたいと思っている自分がいた。


 「じゃ、じゃあまた!」

 「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 「ありがとうね、桜井さん」


ニケさんがドアノブに手を伸ばし、徐々にドアが閉じられていく。2人の姿も少しずつ見えなくなっていった。その時だった。


 「あ、あの……!」


ドアが閉まる瞬間、気がつくと私は2人を呼び止めていた。すると、ドアがゆっくりと開いて再び2人が私の目の前に現れた。ニケさんは驚いているのか、さっきよりも目が大きくなっている。優子さんは落ち着いた様子で、じっと私を見つめている。

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