第19話 #19
「今日はお仕事帰りですか?」
「は、はい……! ちょうどさっき終わってその足でここに来ました」
優しい手つきで丁寧に私の前にお手拭きと水を添えてくれた優子さんから、今日は一際存在感を示すようにコーヒーの香りが私の鼻に届いた。私は平常心を保ちながら背筋を伸ばして彼女の方を見た。
「ふふ。そんなに体に力を入れなくても。今日もお疲れ様でした。ゆっくりしていってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「あ、そうそう。今日はこの店にもう1人従業員がいるんです」
「へ?」
優子さんは、天使が微笑んでいるのかと思うほど魅力的な笑顔を私に向けて足早にキッチンの方へ戻っていった。そして、すぐに私の方へ戻ってきた彼女の後ろには1人の男の人がいた。優子さんより頭ふたつ分くらい大きい身長の男の人は、垂れ目な瞼をさらにとろんと緩ませながら恥ずかしそうに頭を掻きながら私の元へ来た。私の方を見ると「はじめまして」と照れくさそうに笑った。その優しい声を聞くと、慌てていた私の心が嘘のように落ち着いた。
「はじめまして。この店の店長で優子の夫のニケといいます」
「は、はじめまして。桜井日菜といいます。いつも美味しいコーヒーをいただいています」
優子さんの夫。言われなくてもすぐに納得しそうなほどお似合いな2人が目の前に立っている。くせっ毛を生かしたゆるいパーマがかかっているようなマッシュヘアと、少し茶色がかった瞳がとても魅力的だ。笑っていなくてもとろんと垂れている目が彼の優しさをさらに際立たせているようだ。
「桜井さん。こちら、夫のニケさんです。見ての通り、優しさの塊みたいな人です」
「それは絶対言い過ぎだよ、優子」
「あと、遠慮の塊です」
あまりにも平和そうな2人の笑い声につられて、私もぷっと噴き出してしまった。
「ニケさん。こちら、桜井日菜さん。達月くんのお友達? です」
優子さんに友達? と聞かれた気がしたけれど、気づいていないフリをしてニケさんに頭を下げた。ニケさんの2回目の「はじめまして」を聞いてから私はゆっくりと顔を上げた。
「あ、達月の友達なんだね。僕も彼のこと、よく知ってるんだ」
「は、はい。前にここで聞いたことがあります……!」
「僕の話出てたんでしょ。優子が言ってたりして」
「そ、そうです……!」
「その時に優子が何て言ってたのかある程度分かりそうだけどね」
「うん。多分、ニケさんが想像してる感じの話をしてたよ」
「まぁ何にせよ楽しんでくれているならいいけど」
この人が話す声を聞いていると、何だろう、全身を柔らかく包み込んでくれるような温もりを感じる。心の中が暖かくなるという表現を本なんかでよく目にするけれど、まさにその気持ちだ。大袈裟だけれど世界が平和になったように思えてくる。ニケさんに関しては初対面だけれど、夫婦ともに素敵すぎる2人だ。
「桜井さん、ここのコーヒー、美味しいでしょ」
「は、はい……! 仕事なんかで疲れている時は、ここへ来て真っ先にコーヒーをいただきに来てます! 本当に美味しいです」
「はは。嬉しいこと言ってくれるね。僕と優子の長年の研究の結晶なんだ。あと、常連さんにしか言わない秘密のメニューがあるんだけど興味ある?」
「え、はい! すごく気になります!」
お餅みたいに顔の筋肉をとろけさせながら笑顔を見せるニケさん。この笑顔を見るだけで店に来る客が増えそうな気がする。
「注文する時にね、お腹がペコペコペコなんです。って言ってごらん。そうするとね、10分くらいでとっても美味しいビーフシチューが運ばれてくるから。あ、ポイントはね、ペコを3回言うこと。ここが大切。秘密のメニューを頼むときの合言葉ね」
「な、なるほど……! 確かにそれは知っていないとなかなか言わないと思います……! ビーフシチュー、私、すっごく好きなんですよね」
「ほんと? それなら絶対、注文するべきだ。僕も優子もその秘密のメニューを作ることが出来るからさ。そういえば、今日はお腹空いてないの?」
ニケさんはニヤニヤしながら私にその言葉を言わせるように、そしてその言葉を待っているように私をあざとい表情で見つめている。あまりにもあからさまに言うものだからやっぱり少し笑えた。
「実は今、お腹がペコペコペコなんです……! 何か食べたいなぁ……」
「フフ、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
「ほんっとに美味しいから期待しててくださいね」
「わ、分かりました!」
「では後ほど。ごゆっくりどうぞ」
そう言って私に背を向けると、ニケさんと優子さんはゆっくりとキッチンの方へ戻っていった。2人の後ろ姿だけ見ていても本当にお似合いだ。この後ろ姿を写真に撮ってSNSに投稿すれば、すごくバズる気がする。まぁさすがに盗撮は良くない。私は自分の目だけでその光景を見納めてからバッグから日記を開いた。
『喫茶店の店主、ニケさんに初めて会った。彼が優子さんと2人で並んでいると、この世界に住んでいるどの恋人、どの夫婦よりもお似合いだと思える。こんな私にも、とても優しくしてくれるお2人のことがもっともっと知りたいと思うようになった。この空間に佐藤さんがいれば良かったのに。そんなことを思いながら秘密のメニューを待っている。ビーフシチュー、楽しみ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます