第45話 最終章 隣にいる人 #45


            ✳︎


 「久しぶり。優子、日菜ちゃん」

 「ニケさん。久しぶり。何だろ、ニケさんの顔見ただけで涙出てきちゃった」


優子さんが涙を流す姿は、本当にそこに天使がいるかのように神々しくもあり、儚くもあり、愛情もあるように見えた。その優子さんを抱きしめて柔らかい手つきで頭を撫でるニケさん。ニケさんを見たのはかれこれ3年ぶりくらいになるだろうか。私も久しぶりすぎて少し緊張している。


 「ニ、ニケさん。久しぶり。何年か前からここでお世話になってます」

 「こちらこそ。優子がいつもお世話になりました。日菜ちゃん、随分と素敵な女性になったね。話してると僕も緊張するよ」


そう言いながらも、はははと軽やかに笑う緩さは、優子さんに似ているようだし達月くんにも似ていた。彼の優しい笑顔を見ていると、私の緊張していた心も少しずつ落ち着いてきた。


 「そ、そんなことないよ。私の方こそ優子さんにはお世話になりっぱなしで……!」

 「ふふ。そんなことないよ。すごく頼りになる妹みたいに思ってるから。私」


その天使にも見える笑顔は、落ち着いていた私の心を再び慌ただしくさせた。ここで暮らして、かれこれ5年以上が経っているのに優子さんやニケさんの笑顔を見るとやっぱり照れてしまうのか、心臓の動くスピードが速くなる。


 「あぁ、2人を見ていると本当に姉妹みたいに見えるよ。2人とも、今までここの店を守ってくれていてありがとう。やっと僕もここでずっといられるようになったから」

 「え? ニケさん。それはつまり?」

 「あぁ。2人とも、朗報だよ。これは本当に嬉しい朗報だ」


ニケさんは幸せを顔で表現したかのような満面の笑みを、私と優子さんに向けた。目元を見てみると、涙がゆっくりとこぼれ落ちていた。そしてニケさんはゆっくりと言葉を続けた。


 「達月の病気が治せる医者がイギリスで見つかった。それを明日、達月にも伝えに行く。完治する可能性、95パーセント」


その言葉を聞いた瞬間、私は夢でも見ているのかと思った。優子さんは泣き崩れて床に力が抜けたように座り込み、彼女を包み込むようにニケさんが優しく抱きしめた。私の両目からもダムが決壊したかのように大粒の涙が流れ出した。


 「ニケさん。それは本当の話だよね?」

 「もちろん。嘘でするわけないだろ。夢でもなくちゃんと現実の話だよ」


ニケさんは自分の頬を引っ張って私には笑ってみせた。あまりにも伸びた頬と彼の笑顔につられて私も涙を流しながら笑った。達月くんのこれまでの努力が報われる。彼がこれからも生きることが出来る。そう思うと、ますます涙が零れ落ちてきた。ニケさんはそんな私に優しくハンカチを渡してくれた。


 「日菜ちゃん、よかったね。達月、ずっと生きられるよ」

 「本当に……。本当によかったよおぉ」


私は優子さんに効果音が出そうになるくらいぎゅっと勢いよく抱きついた。それに覆い被さるようにニケさんの大きな体が私と優子さんを包み込んでくれた。ニケさんと優子さんの体温は、2人の優しさをそのまま感じるような温もりがあった。


 「うん。本当に良かった……。ニケさん、今まで色んな所に行ってくれてありがとう」

 「ううん。いいんだ。優子と日菜ちゃんも、この店をこれまで守ってくれていてありがとうね。2人のおかげでここ、今もあるんだからさ」

 「ニケさん、優子さん」

 「何? 日菜ちゃん」


ニケさんの優しい声は、やっぱりどこか達月くんに似ている。例え、血が繋がっていなくとも2人は家族なんだろうなと改めて実感した。その声に誘われるように私の涙は勢いを増した。


 「私、ここにいてよかった。ニケさんと優子さんと一緒にこの家に住ませてもらって本当によかったよ」


嗚咽が混じりながら涙を流していると、優子さんの優しい手が私の背中を撫でるようにゆっくりと摩ってくれた。


 「それを言うのは私たちの方だよ。日菜ちゃん、私たちと一緒にいてくれてありがとう。これからも私たちと一緒にいてね。あ、もちろん達月くんと一緒にね」

 「……うん。もちろんだよ」

 「よかった」


ふふふと天使のように微笑んで私の髪の毛を撫でてくれる優子さんと、温かい毛布のように温もりのある体温で私の体を包み込んでくれるニケさん。私たちは陽が落ちるまで抱きしめ合った。私たち3人は同じタイミングで顔を上げて目を合わせて、同じタイミングで笑い合った。


            ✳︎


 「達月、忘れ物はない?」

 「うん。大丈夫だよ」

 「パスポートは持った?」

 「うん。バッチリ。もう入念すぎるくらい持ち物は確認したからさ」


飛行機が空に飛んでいく音、人の声、慌ただしい足音、スーツケースが転がるゴロゴロとした音。機械音声のような丁寧なアナウンスの声。様々な音が聞こえながら達月くんの優しい声を聞く。いつまで治療期間があるのか分からないれけど、しばらくこの声が私の近くでは聞こえない。そう思うと、最後の最後まで彼の声を頭の中に入れておきたくなって、いつまでも彼の声に耳をすましてしまう。


 「それならよかった。ニケさん、絶対2人で帰ってきてね」

 「あぁ。絶対帰ってくるよ。既にあの家に帰りたいけど、達月と一緒に帰ってくるね」

 「うん。絶対だよ。達月くんもね」

 「うん。ありがとう。確かに。既にあの家で帰ってフカフカの布団で寝たいよ」

 「あのさ、優子さん」

 「何? 達月くん」

 「僕が手術成功して病気が治ったらさ、ニケさんと優子さんと、あと日菜さんと一緒にあの家で暮らしていい?」

 「……当たり前じゃない。私たちはいつでもあなたと暮らす準備は出来ていたんだから。大歓迎よ。ニケさんもずっといてくれるだろうしね」

 「うん。もちろん。全部終わったら、みんなであそこで暮らそうな」

 「ありがとう。それを聞けたから、思いっきり治療に専念出来るよ」


私のあげた青色のニットキャップを深く被り、その下から覗く、星空のように綺麗な瞳がじっと私を見つめる。視線を逸らす彼はもういなくなり、これまでに何回も彼と目が合っていたけれど、私は視線を外したくなくてずっと彼の目を見つめ返す。視線が外れると、そのまま彼が旅立ってしまいそうだったから。


 「日菜さん、ガン見しすぎ。笑えてきちゃうよ」


あははと笑う彼の笑顔を目に焼き付ける。だって、もう5分もしたら彼は目の前からいなくなってしまうんだから。そう思うと私の両目が潤んだ。


 「だってさ……。もう達月くん、イギリスに行っちゃうから……」


話し出すとと同時に私の左目から涙が溢れた。それを見た達月くんは、子どもをあやすような優しい顔を私に向けた。すると、私の背中に優子さんの優しい手が添えられた。私を落ち着かせるように優しく撫でてくれたおかげで少し気分が落ち着いた。


 「日菜ちゃん。達月くんは絶対帰ってくる。私たちの家に。だから、その日まで涙はとっておこう。私たちも達月くんの背中を押してあげよう」

 「……うん。達月くん、絶対帰ってきてね……」

 「ありがとう。もちろん帰ってくるよ」

 「うん……。ビーフシチュー、すごく美味しいやつ作ってあげるから」


私が涙を引っ込めながらそう話すと、彼は本当に幸せそうな笑顔を私に向けてゆっくりと彼の体が私を包み込んだ。私の好きな彼のにおいがした。また泣きそうになったけれど、優子さんの言葉を思い出して私は思いっきり口角を上げた。


 「私の体、あったかいでしょ」

 「うん。本当に。すっごく温かい」

 「だって、名前、日菜だもん。太陽みたいにあったかいでしょ」

 「ふふ。そうだね。僕は日菜さんが自分よりも大切だ。だから、絶対に生きて帰る。病気を治して帰る。そうしたら、ご褒美にビーフシチュー食べさせてね」

 「うん……。約束する」


指切りげんまん。とは言わないけれど、お互い強めに体を抱きしめ合って何かを約束するようにしてから体を離した。照れくさそうに笑う彼の顔を目に焼き付けるように見つめ、私もそれに応えるように笑顔を彼に向けた。そして彼とニケさんはイギリスへと旅立っていった。達月くんの病気が治りますように。私は、彼らの乗った飛行機を優子さんと一緒に見つめながら神様に祈った。空は、その私の願い事を叶えてくれそうなほどに青くて、清々しいくらい眩しい太陽が私たちと彼らの乗った飛行機を見守ってくれているようだった。

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