第44話 #44
佳苗と晴樹さんが帰った後、病室は私と達月くんだけになり、再び静寂が訪れた。私は今でもまださっきのプロポーズの余韻に浸っている。いつも愛想のない表情が多かったあの佳苗が、あんなに嬉し涙を流しているところを思い出すだけで私も泣いてしまいそうになる。
「日菜さん」
「ん? どうしたの?」
ニヤニヤしながら達月くんが私を見つめていた。そのへらへらとした笑顔は、どこかニケさんの笑顔に似ていた。
「今、泣きそうになってたでしょ。さっきの2人のやりとり思い出してた?」
「いや、なってないし。今日も楽しかったなって思ってただけだよ」
「ふーん? それなら僕の勘違いか」
そして達月くんにはしっかりバレていた。私ってそんなに分かりやすい表情する人間だったかな。そう考えながら達月くんが体を冷やさないように温くて手触りのいい柔らかい茶色のブランケットを彼の肩にかけた。
「ありがとう」
「うん。気温、低くなってきて部屋も寒くなってきたね」
「日菜さんも温かくしないと」
「ありがとう。私はこの服の下に結構着てるから防寒出来てるんだ。気にかけてくれてありがとう」
「そっか。厚着してるの、全く気づかなかった」
「ふふ、元々細身だからね、私は」
胸を張ってドヤ顔を彼に向けると、彼はそれを受け流すように視線を逸らして手元にある夕食に手を伸ばした。やっぱり今日は食欲があるのか、普段よりも早い時間に食べている。
「いただきます」
「はーい、どうぞ」
病院から出される食事は決して美味しそうとは言い難い。けれど、彼が食べるべきものを、必要な量で病院側が考えて提供してくれている。これも立派な治療の一環だ。達月くんの手は止まることなく1皿目のサラダを食べ終えた。
「食欲あるね、今日」
「ううん。そうじゃないんだよね」
「え?」
「今日の晴樹を見て思ったことがあってさ」
「晴樹さん?」
かりかりと胡瓜を音を立てて齧りながら達月くんは穏やかな顔を私に見せてくれる。確か、達月くんは胡瓜は苦手だったはずだ。
「うん。今日のあいつに勇気をもらった。人生が終わりかけた怪我を乗り越えてあいつは夢を叶えた。側にいる人をあんなに幸せそうな顔にすることが出来てた。そんなあいつを見てたらさ、僕も絶対、この病気を治そうって思えたんだよね。だからこの食事も治療のうち。って思ってね。美味しいとは言えないけど。胡瓜嫌いだし」
へへと笑いながらサラダを食べ終えた彼は、手元の魚の塩焼きを丁寧に皮を破いて骨を避けて食べていく。
晴樹さんと佳苗が今日ここに来てくれたのは、私も予想外だった。けれど、2人が来てくれて本当に良かったと思う。それに、私たちの前でプロポーズをするところは晴樹さんらしかった。佳苗も本当に幸せそうな顔で笑っていた。それを見ていた達月くんも目頭を押さえていたのは多分、気のせいではないだろう。
「達月くん」
「うん?」
「達月くんなら絶対、病気を治せると思う。ううん、治せる! そのために明日からも頑張っていこうよ」
「う、うん。何なら今も頑張って食べてんだけどね」
「あはは。そうだよね。じゃあさ、完治したら一番最初に何食べたい?」
「あ、それは僕、もう決めてあるんだ」
今度は彼がドヤ顔をして私の顔を見つめる。彼が何を言うか私も分かった。
「待って。私、分かったかも」
「お、さすが。じゃあ言ってみて?」
「……ビーフシチュー?」
少しの沈黙の後、彼は私をじっと見つめてからへらっと笑った。
「……正解。言うなら、あの店の秘密のビーフシチューだな」
「やっぱり。キミならそう言うと思った」
「あ、ちょっと付け足してもいい?」
「え? うん、いいけど」
「日菜さんの作った、あの店の秘密のビーフシチューがいいな」
まるで病気が治ったかのように明るく笑う達月くんの笑顔を見ると、すぐに泣いてしまいそうになってしまったので、彼に気づかれないように深呼吸をして落ち着いた。
「私のでいいの? まだまだ修行中だよ? 絶対、ニケさんや優子さんの作るビーフシチューの方が美味しいよ?」
「日菜さんが作ったのを食べたいんだ。それに、日菜さんはもう自分でもあの味を作ることが出来ると思う。毎日とても頑張って料理したり勉強したり優子さんたちの教えを聞いていたし」
「そ、そう言ってもらえるのはすごく嬉しいけど、私……」
「それが食べられるように僕も明日からも頑張るからさ。それを食べられるって思うと、病気も治る気がしてるんだよね。だからさ、お願い」
我慢していた涙があまりにも自然に私の頬を伝った。今日は泣いてばかりの日だ。けれど、今日流した涙は悲しい涙じゃない。全部大切な涙だ。こうなったら完治した達月くんを嬉し涙で泣かせてやる。絶対に。そう決めて私も達月くんみたいにニカッと笑顔を彼に見せた。
「しょうがない! キミがそこまで言うなら私も頑張っちゃうよ」
「ありがとう。絶対作ってもらうから絶対治すね」
「当たり前じゃん。達月くんなら絶対に治るよ」
「日菜さん」
「ん?」
夜になり、辺りが暗くなっても変わらずに綺麗な目をする彼の目が私をじっと見つめる。彼がゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう」
「うん? いえいえ。味のハードルは少し下げといてね」
「いや、そうじゃくて」
「え?」
「ありがとう。いつも僕の側にいてくれて。今日、晴樹たちを見ていたら僕も日菜さんに伝えたいことがあるんだけど、この体じゃまだ伝えるには早いと思ってさ。もし病気が治ったら、改めて感謝の気持ちを伝えるね」
ゆっくりと顔を上げて再びとても素敵な笑顔を私に向ける達月くん。世界中の誰よりも素敵な顔で、世界で一番素敵な言葉を私は受け取った気持ちになった。私もそれに応えるように、目の前にいる彼に目一杯の笑顔を向けた。そして、ゆっくりと彼の体を抱きしめた。彼の体がいつもよりも温かかった。この世界には私たち2人しかいないのかと錯覚しそうになるほど静かな空間で、私たちは一緒に同じ時間を過ごした。
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