第27話 #27
「ちょっといいですか?」
「あん? 何だよてめぇ!」
優子さんの前に庇うように立っている佐藤さんは、興奮している目の前にいる男の人に臆する様子もなくその人の顔をじっと見つめている。身長の高い佐藤さんが男の人を見下ろしている分、彼に余裕があるようにも見える。
「僕は趣味で色んなカフェや喫茶店に行くことがあります。もちろん、ここの店にもよく足を運んでいますが値段が高いと思ったことはありません」
「それはてめえの感想だろうが!」
「そうですよ。あなたの言う通り僕の感想です。なら、僕の感想で言いますが、他の喫茶店にはコーヒー1杯でもこちらの店より値段が高い所も多くありました。ここの店が本当に気に入らないからこの店から離れた方がいいのでは?」
こんなに物怖じせずに人の目を見て話す佐藤さんを初めて見た。一瞬、別人かと見間違えるほど凛々しい様子で男をじっと見つめている。それを見兼ねたのか、男の人は佐藤さんに背を向けて店のドアの方へ歩き出した。
「この店は俺みたいな人間には優しくしてくれねえんだな! 分かったよ。それなら俺も然るべき対応させてもらうからな!」
男の人が言葉を吐き捨てるように言ってからドアノブに手を伸ばすと、その人がドアを開けるより先にそのドアがゆっくりと開いた。そこにはニケさんがいた。ニケさんは目の前にいるその客を見ると、ゆっくりと頭を下げて口角を上げて微笑んだ。
「何だ? お前は」
「この店の店長です。先程、お客様とこちらのスタッフが何やら口論になっていたところだと解釈しましたが、違いますか?」
「そうだよ! あと誰だか知らねえが俺の存在を気に食わねえ客にもいちゃもんをつけられたところだよ。ここで起こったことは一部始終、SNSに記載させてもらうからな」
「それはウチのスタッフが失礼いたしました。ですが、どうでしょう。お客様はまだ、この店の魅力をまだ十分に知ることができていないのでは思いました。お客様さえよろしければ、とっておきの一品をお作りしますがお食べになられますか?」
私の頭の中にはあの一品が頭に浮かんだ。うん、絶対あれだろうな。ニケさんがこの人にそれを作るのだと思うと、とても抵抗がある。あんなに優子さんに対して暴言を吐いていたのに。あんなに罵っていたのに。そんな人にあの素敵なビーフシチューを。男の人は何も言わずに首をゆっくりと縦に振った。
「しょうがねえから食ってやる。だが、ろくでもないものを食わしたりしたら、本当に承知しねえからな!」
「分かりました。では、こちらの席で少々お待ちください」
ニケさんに案内されたその部屋は、誰にも邪魔されることのない畳の部屋だった。ニケさんはその部屋の襖をゆっくりと閉めて、ニケさんの方を向いてへらっと笑った。
「達月。久しぶりだね。何年ぶり?」
「久しぶり。どうだろう、2年ぶりぐらい?」
「いっぱい話したいことがあるから、この一件が落ち着いたら喋ろう」
「あぁ、もちろん。ニケさん無理しないで」
「達月もだろ。さっきは優子を助けてくれてありがとう」
「いや、さっきのあの人に言いたいこと言っただけだよ」
「達月くん、ありがとうね」
「じゃあ僕らは秘密の料理を作ってくるね」
ニケさんは小さな声で佐藤さんと話してから優子さんの背中をさすりながらキッチンの方へと消えていった。優子さんの体が震えているように見えたのは多分気のせいではない。
男の人が獣みたいな大声を上げた異様な空気の店内は、続々と客が席を立っていき、15分もすると店内にいる客は私と佐藤さん、それと畳の部屋にいるであろう荒ぶっていた男の人がいるだけになった。襖が閉じられていることもあり、中にいるその人の状況は全く分からないけれど、部屋の中に男の人がいなくなったのではないかと思えるほど静かになっていた。すると、キッチンからニケさんが例のビーフシチューをゆっくりと両手に持って歩いてきた。私と佐藤さんの方を一瞬見たニケさんは、ふふっと軽く笑顔を見せてウインクをしてから落ち着いた声で、
「失礼します」
と一言だけ言って部屋の襖を開けた。
「遅えよ! どれだけ待たせんだ! って……おぉ!?」
「申し訳ありません。一番美味しい状態でお客様に味わっていただきたいという思いを持って作りましたので」
男の人は手元に置かれたそれを見た瞬間、顔が一瞬でビーフシチューに持ってかれたのが分かった。声も明らかに上擦った。やっぱりこのビーフシチューは見た目もさながら、においと音も最高に美味しそうだ。それだけで私のお腹も鳴ってしまいそうになる。
「お待たせいたしました。当店の隠しメニューでありますビーフシチューでございます。何を使っているかはお答えしかねますが、僕たちが厳選した自信のある食材と、研究に研究を重ねた特製ルーが重要です。本当に美味しいので是非味わっていただきたいと思います」
口を開けたまま男の人は我に返って手元にあるスプーンを手に取った。その驚いた様子でルーを掬い上げると、男の人の目はさらに目が大きくなった。ゆっくりとそれを口の中に入れると、その人は何も言わずに口を勢いよく動かし、口元を左手で隠すようにしてニケさんの方を見つめた。
「お、おい。これはいくらなんだ?」
「こちらは代金がありません。いつもご来店していただいているお客様に感謝の気持ちを込めて僕と妻がお作りいたしております」
「マ、マジか……。金もかかんねえのか」
男の人は驚いた様子で手が止まっている。そして、スイッチが入ったように男の人がビーフシチューをテンポよく口に運んでいった。気がつくと男の人の目からは涙が溢れていた。
「おいおい……。こ、これ、美味すぎるだろ……。なんでこんなに美味いんだよ。俺、メシを食いながら泣くのなんて初めてだぞ……」
男の人は次々と手元のシチューを口に入れていく。何かに取り憑かれたように手を動かしては涙を流し、それを噛み締めるように味わっている。その人の鼻をすする音とスプーンが動く音だけが耳に届く。それは彼の落ち着いた心拍数のようにリズムよく私の耳に届く。そんな彼をニケさんが穏やかな表情で見つめ、その一歩くらい後ろに優子さんがいる。優子さんを守るようにニケさんの手が優子さんの手を握られているのが見えて、私も何だか泣きそうになってきた。私が泣くのは絶対おかしい。私は深く息を吸って自分を落ち着かせた。
「僕、少し人を見る目があるんです」
「人を見る目?」
男の人がスプーンを動かす手を止めてニケさんの方を見た。
「あなたはとても優しい人です」
「俺が? 俺はいつだってどこにいても煙たがられるんだぞ? 言葉なんて選ばずにこんな荒っぽい言い方をしてしまうし、さっきみたいに怒鳴り声も上げてしまうしな」
ちらっと優子さんの方を見て男の人は再びすぐに目を伏せた。
「このビーフシチューが目の前に来た時、子どものように目を光らせていました。それをひとくち食べた瞬間、あなたは驚きを隠せていませんでしたね。美味しいものを食べた時、それを素直に褒めて讃えてくれましたね。そして、感情のままに涙を流しましたね。こんな素直な反応をする人はなかなかいません。少なくとも、僕の知る限りは」
「……」
聞いていると眠ってしまいそうな優しい声で話すニケさんの方を男の人は黙って見つめている。
「あ、それと。怒鳴ったあと帰ろうとしていたあなたは、とても辛そうな表情をしていた。言い方は良くないかもしれませんが、まるで言いたいことが言えなかった子どもみたいな顔をしているように僕には見えました。そこに僕が目の前に立った。あんな大声を出してしまった手前、強く見せる以外には出来なくなってしまったあなたは、本来思っていないようなことを僕たちに言い放って後戻りが出来なくなった。それで強がりに強がりを重ねてしまった」
「……うるせぇよ。な、何言ってんだ、さっきから」
男の人は動揺しているのか声が震えている。震えながら涙を指で拭き取りながらニケさんの方をじっと見つめる。ただ、その目つきはさっきみたいに鋭い刃物のようではなくなっていた。
「僕も言葉を言ってから後悔するタイプです。何であの時、あんな言い方してしまったんだろうとか、あんなこと言わなきゃよかったとか。さっきのあなたの表情も、どこか後悔しながら優子を罵っているように見えました」
ニケさんは優子さんの背中をゆっくりと優しく撫でながら、優しい声色で男の人をあやすように話している。
「正直に言うと、あなたに大声を出された時、とても怖くて涙も少し出てしまいましたが、私もニケさんと同じ意見で、あなたが本当はとても優しい人なんだと思っています。それと同時にこの人には何か苦しんでいる理由があるなと思いました。それを少しでも軽く出来るならと、私とニケさんでこのビーフシチューを作ろうと決めたんです」
ニケさんの言葉を追いかけるように話し出した優子さんの声からも、この男の人を救おうとする気持ちみたいなものが伝わってくる気がした。さっき自分に罵声を浴びせてきた人に対して料理を作ったり優しさを見せようとするなんて私にはとても出来ないだろう。男の人は自分の非を認めたのか、ニケさんと優子さんに深く頭を下げた。
「さっきは本当にすまなかった。特にあんた。あんな近くで暴言を吐いて怖がらせてしまって。怒鳴ってしまったこと、確かに後悔してる」
「……顔を上げてください。今、こうして素直に謝ってくれるところがあなたの良いところなのかもしれません。私、そしてニケさんの思った通りの優しい人で良かったです」
少しずつ顔を上げた男の人の目からは大量の涙が流れている。そしてその人の全てを包み込むような穏やかな笑顔を優子さんはその人に見せた。こんな笑顔を見せられたらこの人、勘違いしてしまわないか? ニケさんは嫉妬してしまわないか? そんなことを思ってしまうほど素敵な表情だった。当のニケさんはその様子を、これまた穏やかな表情で見守っている。
「俺さ、20年続けてきた仕事をクビにさせられたんだ。何の告知もなく3日前にクビだと言われた。その日まで毎日真面目に働いてたんだぞ。サボりもしなかった。休みの日だって仕事に出てた。なのにだ、AIの導入と人件費の削減だってバカみてえな理由をつきつけてきてそれで終わりだった。俺がどれだけ抗議しても覆ることはなかった。心底呆れたよ。俺がしてきた20年は何だったんだと」
いつの間にか涙が止まり、呼吸も落ち着いているその人の声を私と佐藤さん、ニケさんと優子さんは一言も口を挟まずにこの人の声に耳を傾け続ける。この人の呼吸する音だけが聞こえてくる。すると男の人が再び開いた。
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