第26話 #26


 「あ、こんばんは」

 「こんばんは。今日もお疲れ様です」


仕事を終え、通うことが習慣になりつつあるニケさんと優子さんの店へ足を運ぶと、優子さんが私をあの黒いソファの席へ案内してくれた。そこには2ヶ月以上会ってなかった佐藤さんが座っていた。彼と目が合った瞬間、心臓が大きく動いたけれど彼に気づかれないように平然を装った。優子さんは「いつでも呼んでね」と私に小さな声で言うと、急用があるのかすぐにキッチンの方へ戻っていった。私は再び彼の方へ視線を戻した。


 「ちょっと、お久しぶりですね」

 「確かに。最近は僕もここに来れてなかったので」

 「ひょっとして今もお仕事中ですか?」

 「はい。あ、でももうすぐ終わります」

 「じゃあ終わるまで静かにしてますね」

 「別にいいですよ。じっと見つめられてる方が調子狂いそうなので」

 「あはは。じゃあメニュー見てます」

 「ここの店はどの料理も美味しいですからね」

 「はい。もう仕事頑張ったからお腹がもうペコペコペコで」

 「……ビーフシチュー。僕もここで一番好きです」

 「ふふ。やっぱり佐藤さんも知ってるんですね」

 「はい。それを食べるために今日来たのが大半の理由です」


私と目を合わせて軽く頭を下げてからは、再び目の前にあるパソコンと睨めっこするようにそこを見つめて佐藤さんは口を動かす。それを眺めている彼の横顔は、毎日のようにテレビに映るボーイズグループのタレントや、世界で活躍するスポーツ選手よりもかっこよく見えた。私はメニューを見るフリをしながら時々彼の整った横顔を盗み見るように視界に入れていく。


 「ふう。終わった」


仕事が終わった合図のように彼がひとつ大きく息を吐き、パソコンをトートバッグにしまうと手元にあったコーヒーカップにゆっくりと口をつけた。それを味わうように口を動かす佐藤さんの表情はいつもと同じで全く変わらない。私はそんな彼の顔を改めて見つめながら軽く頭を下げた。


 「お疲れ様です」

 「お疲れ様です。パソコンと向き合う時間が最近特に多くなってきたから、視力が少し悪くなった気がします」


両方の目頭を指で押さえている彼からは、疲労感がオーラのように体から滲み出ているように見えた。


 「長時間、画面を見つめていると少しずつ目が疲れますからね。前みたいにボールの劣化している箇所とか見つけられますか?」

 「どうだろう。自信はないけどある程度はいけるんじゃないかな」

 「ふふ。佐藤さんは意外と負けず嫌い」

 「そんなことないですよ。事実しか言うことが出来ない、融通の効かない頭をしています」

 「いやいやいや。それこそ、そんなことないですよ」

 「あ、それはそうと。メニュー、注文しなくて大丈夫ですか?」

 「そうだそうだ。優子さんに言わないと」


私は手が空いているタイミングの優子さんを見計らって秘密の暗号を言った(ビーフシチューを頼む時に言うアレ)。優子さんは優しく笑い、かしこまりましたと言ってキッチンの方へ戻っていった。


 「桜井さん、何か変わりました?」

 「へ?」


佐藤さんは彼の目線の先にあるメニューのフレンチトーストを眺めながら私を呼んだ。不意に呼ばれた私は、自分でも思うほど抜けた声で返事をした。


 「何か前よりも落ち着いたというか。冷静になったというか。雰囲気変わったなってさっきから思ってます」


彼は私の抜けた声について何も反応せずにそのまま目線は、野球のボールがそのまま乗ったようなアイスクリームが上にあるフレンチトーストの写真の方を向いている。それを食べたいのだろうか。じっとその写真の一点を見つめている。確かに写真の下の説明欄に書いてある『温かくて冷たくて香ばしくて甘い魔法のスイーツ』という文章がどうにも食欲を刺激してくる。それより彼が私の変化に気がついてくれたことが内心、とても嬉しかった。


 「あ、ほんとですか。実は私、最近ちょっとした意識改革を自分の中でしているんです」

 「ほうほう。意識改革ですか」


実際の世界にほうほうと相槌を打つ人を初めて見た。それが何だか可笑しくなって思わず頬が緩んだ。


 「ほうほうって科学者か小説家みたいです」

 「あぁ、晴樹からは、じいさんくさい相槌だなってよく言われます」

 「ふふ、そんなことないですよ。いい味出てます」

 「それ、褒め言葉ですか?」

 「もちろんです。あ、そうそう。それでね、これまでの自分は普段から体に妙に力が入っていたと思うんです。明るく振る舞ったりハキハキとした姿を見せないとって思ったり。正直無理をしていたところが多くて。それをやめてみたんです。良い意味で力を抜いて、ちょうどいい具合に頭を柔らかくして生活しようみたいな感じで過ごすようにしてます、最近」

 「確かに。伝わってきます。それ。空気の入りすぎている風船は、いつでも割れてしまう危険がありますから。ある程度空気を抜いた方が柔軟な受け止め方が出来て割れる危険が低くなります。いい意味で妥協する生活、僕も好きです」


彼の「好き」という言葉が妙に響き、私の心臓の音が少し速くなった。落ち着かせるように私は彼に気づかれないように深呼吸をして手元の水を一杯飲んだ。


 「やっぱり無理のしすぎは体に毒ですよね。ここ最近、ちょっと疲れたことがあったからそういう意識改革が出来てほんとに良かったです」

 「……人生って何が正解かは分からないけど、いや違う。分からないからこそ、日々の発見が大切だと思ってます」

 「日々の発見……」


彼は手元にあるコーヒーカップを愛でるように細い指で撫でながら、落ち着いた声を私に届けてくれて、それと同時に私の心も落ち着かせてくれる。


 「朝のコーヒー。それを飲み終えて家を出た瞬間。僕を包み込む心地良い穏やかな風。仕事を終えた後の一杯。からの美味しい夕食。ベッドに潜り込んだ瞬間の毛布の柔らかい感触。日常、当たり前のように過ごしていて見落としがちになる、僕が好きな一瞬一瞬です」


彼の声から聞こえた景色やにおい、味。そのどれもがとても心地よくて想像しただけで心が穏やかになりそうになる。やっぱり私は佐藤さんと話していると心が落ち着くんだ。改めて私は確信した。


 「うん……。いいですね、今言ったどれも」

 「本当に思ってますか?」


彼の目線が急に私に向いて少し驚きながらも、私はリラックスした状態で彼に笑顔を向けた。顔の筋肉もいい感じに緩んでいる。


 「あはは。思ってますって。何なら付け足しますよ。秋の訪れを感じる金木犀のにおい」

 「あぁ、いいですね。僕も好きです。金木犀」

 「いいですよね。店で売ってるそのにおいのするハンドクリームとかルームミストとかもあるけど、やっぱり天然の金木犀には敵いませんよ」

 「分かります。あと、そういう店は色んなにおいが混ざるから苦手です」

 「確かに。人がつけている香水のにおいとかもしますしね」


そうそう。ゆっくりと首を動かして相槌を打つ彼の目線の先は、デザートメニューの中で一際目立つアップルパイの写真になっていた。


『りんごをほんのりと炙ってわざと苦味を演出しました。ご一緒にお渡しするはちみつと一緒にお口へどうぞ。忘れられない味がそこにあります』


優子さんの字だろうか。可愛い丸文字の説明文を読んでいると、どれも食べたくなってしまう。


 「食べたいんですか?」

 「秋が好きなんですか?」


私たちの声が重なった。 


 「え?」


また声が重なった。一緒に「え?」が出た。そして今日2回目の彼と目が合った。彼の丸くなっている目がさっきより大きく見えた。


 「あ、桜井さん。どうぞ」

 「いや、佐藤さんこそ」

 「そこはレディファーストです」

 「紳士ですね」

 「ニケさんから教わりました」

 「あ。さすがです。じゃあ私から。私が言いたかったのは食べたいんですか? ってことでした」

 「あ、このアップルパイをですか?」

 「はい」

 「いや、僕はさっきベーグルを食べたので。ここのメニュー、見ているだけで楽しくなるので眺めるのが好きなんですよね」

 「確かに。写真もすごく美味しそうだし、その下に書いてある説明文を見ていると全部食べたくなります」

 「全部? 桜井さんは意外と僕より食べる人ですか?」

 「いやいや。小食ですって。それぐらい全部魅力的ってことを言いたかったんですって」

 「分かってますって。なんか、今の桜井さんならノッてくれる気がして」


今日の佐藤さんは普段よりも機嫌が良いのか饒舌だし、私との会話を楽しんでいる気がする。目線はそんなに合わないしテンションも上がったりはしていないけれど、こうして喋っているとこれまでの彼とは違う気がしてならない。

 どこか不思議な彼を見つめていると、店内で爆発が起きたのかと思うほどの男の人の叫び声が突然響き渡った。咄嗟に耳に手を当てて声のした方を振り返ると、そこには獣のような奇声を上げ続けてテーブルに突っ伏している1人の男の人がいた。慌てた様子で優子さんがその人の元へ駆けつけた。店内はどよめきに包まれながら全員の視線がそこへ向く。佐藤さんも目を大きく見開きながら、何も言わずにじっとその方向を見つめている。


 「どうしてここの店はこんなに値段が高ぇんだよ! コーヒーなら300円が妥当だろうが! 何でこんなに高ぇんだ! ぼったくってんじゃねえぞ! コラ!」

 「申し訳ございません。当店の品は全てこだわりの素材を使用してお客様へ提供しております。お客様の仰る通り、他店に比べますと少々値段が気になるところもあるかと思いますが、何卒ご理解いただけますようお願いいたします」


男は顔を上げると、冷静に説明する優子さんに襲いかかるのではないかと思うほど鋭い目で彼女を睨みつけている。優子さんはそれにも動じず普段通り背筋を伸ばして綺麗な姿勢を保っている。この張り詰めた空気に恐怖を感じた私の背中には嫌な汗が滲んだ。


 「ふざけんなよ! せっかくここでコーヒーとホットドッグを買って食うつもりだったのに買えねんだよ! どうしてくれんだ! コーヒー高すぎるしよ! ホットドッグだってこの値段はおかしいだろうが!」

 「申し訳ございません。こちらも先ほど説明しました理由と同じで、こだわった食材でご準備させていただいております」

 「だから! それだと俺みたいに食いたくても食えねえ客が来ちまうだろ! そういうやつが来たらどうすんだよ!」


お前が他の店に行け。そして二度とこの店に来るな。店内にいる誰もがそう思っていそうなことが頭の中に浮かんだ。優子さんを助けたい気持ちはあるけれど、あのサイコパスみたいな男の近くに行くのは流石に足がすくむ。


 「お前、店長か?」

 「いえ、副店長です。店長は今、出張で店内にはおりません。ここへ来るのもいつかは定かではありません」

 「は? 管理どうなってんだよ! 話にならねえな! もういい! 本当に美味いのか知りたかっただけなのによ! ありえねえだろ! 責任者がいねえのは!」

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