第32話 #32


 病院に搬送された晴樹さんについていき、彼が入院するにあたっての手続きなどを済ませ、個室の病室を用意された晴樹さんが落ち着くまで私と佳苗、達月くんは見守ってから病室を出た。待合室で座っている佳苗と達月くんに自動販売機で買ってきたお茶を渡した。佳苗は昔から烏龍茶が大好きだ。達月くんの方は分からなかったので、とりあえず同じ烏龍茶を3本買った。


 「ありがとう。日菜」

 「日菜さん、ありがとう」

 「ううん。今日は色々大変な1日だったね」


3人で一緒に疲れた心身を労うようにペットボトルをぶつけ合った。ぼぼんと面白い音が廊下に響いたけれど、2人とも反応することはなかったので私も気づいていないふりをした。


 「うん。今日は感情が色々動いたよ。こんな日、なかなかないと思う」

 「そうだね。喜怒哀楽全部出たんじゃない?」

 「怒は出てないと思うけどな」

 「あ、そっか。でも、あんなに泣いてる佳苗、久々に見たよ」

 「そうだね。私も久しぶりに泣いたなぁ」


うんうんと腕を組んで首を縦に振る佳苗。無理もない。本当に色んな衝撃があった1日だ。私でさえ色んな光景を見たんだ。普段は動かない佳苗の感情があんなに動くのも大いに納得する。


 「まさか選手生命が絶たれちゃったなんてね。未だに受け入れられないよ。つい数時間前にあんなにカッコいいプレーしてた人がだよ。ダメだ。思い出すとまた泣けてくる」

 「大丈夫だよ。ずっと横にいるから。泣きたい時は泣けばいいんだ」

 「だって、私より辛い人が涙ひとつ見せずに受け入れていたんだよ? ホントは晴樹さんが一番辛いはずなのに」


佳苗は両腕で顔を隠しながら体全体を丸めた。佳苗の背中や髪の毛をゆっくりと撫でて佳苗の華奢な体を抱きしめる。 


 「自分じゃない人のために泣ける人は本当に優しい人だよ」


すると、徐に達規くんの声が聞こえてきた。彼はそう言ってじっと佳苗の方を見つめている。


 「達月くん……」

 「……もし私が晴樹さんの立場だったらしばらく立ち直れないかも」


物音ひとつ立たない静かな廊下に、私の呟いた声が溶けていった。


 「……あいつさ、小学生の頃から誰よりも身長大きくて。小2の頃にたまたま少年バレーボールチームの監督が晴樹を見つけてスカウトしたんだ。運動神経も良かった晴樹はすぐに上達していった。先にバレーボールをしていた僕なんかよりぐんぐん上達していった。なかなかいないと思うんだよね、小、中、高で全国大会ベスト4に入って優秀選手に選ばれた子って」


過去を振り返るように達月くんの声も溶けていく。そんな彼の声に私はじっと耳を傾ける。


 「やっぱり昔からすごい人だったんだ、晴樹さん」

 「小学生の頃から言ってたからね。将来はプロのバレーボール選手になるんだって。本当に叶えちゃうんだからすごいよね、しかも日本代表にまで選ばれたのに……。なのに、こんなことになっちゃってさ」

 「た、達月くん……」

 「あれ……。僕、人生で初めて泣いたかも。こんな感じなんだ、泣く時って」


目元を押さえる彼の声が震えていた。普段は感情の動きにくい2人の感情が動いている。特に達月くんの泣いている姿を見るのは本当に貴重なのかもしれない。


 「人生で初めて……」

 「今言うことじゃないと思うけど、僕にも人生の底の時期があったんだ。それこそ小2の頃。両親が2人ともいなくなった。消えるようにいなくなったんだ。後から知ったよ。僕の家には借金があった。それも冗談とは思えない金額。それから逃げるように両親がいなくなって、その矛先が僕に向いた。もちろん子どもだった僕にはそのお金が払えるはずもなかった。そこで助けてくれたのが、ニケさんと優子さん。あの2人が当時の僕を拾ってくれたおかげで僕は今もこうして生きることが出来ている。その頃、本当の家族のようにニケさんと優子さん、そして晴樹が僕のことを大切にしてくれた。その頃でさえ涙は出なかったのにさ」


彼の涙は徐々に流れる量が増えていく。鼻水を啜る音が、達月くんの呼吸している音みたいに聞こえた。


 「達月くんも、本当に優しい人なんだよ」


佳苗の優しい声が耳に届き、私も体の内側が熱くなった。それが着火剤になったのか、私も心の中の言葉を彼に言葉を届けたくなった。


 「そうそう。しんどい時は我慢しなくていいんだよ。まぁ、私にそれを教えてくれたのは達月くんだけどね。佳苗だって私だって普段は人前でまず涙は流さない。けど、私も最近、色んな人と心の中を隠さずに接することで色んな感情を気兼ねなく表に出すことが出来てると思う。そうやって相手に伝えることもね。うん。勇気がいるかもしれないけど大切なことなんだって思った。私を変えてくれた人たちの中にもちろん、達月くんも含まれてるしね」

 「自分を変える……か」

 「ねぇ、2人とも」

 「なに? 佳苗」

 「晴樹さんの病室行かない? この林檎を切って差し入れにして」


 時刻は20時を過ぎた頃。まだ面会の時間はある。私たちは再びここに訪れた。そう、今さっき3人で話し合って佳苗が決めたことを晴樹さんに伝えるために。その佳苗がドアをこんこんと軽く叩いて鳴らした。


 「はーい。どうぞー」


落ち着いた様子の晴樹さんの声が部屋から返ってきた。


 「お邪魔します」

 「おー、3人とも。まだいてくれたんだ。今日は本当にありがとう。1日中、迷惑かけっぱなしだったよな。さっきも言ったけど今日はカッコ悪いところ見せちゃってごめんな。さっきな、病院の先生に選手としてはもう続けられないと思うって言われた。まさか、こんな事態になるなんて思っても見なかったよ。逆にすごいと思ってる」


無理して笑っているのが手に取るように分かる晴樹さんの笑顔を見ると、胸が苦しくなる。けれど、まだ諦めるには早い。早すぎる。もう一度、晴樹さんと佳苗の心からの笑顔が見たい。


 「……晴樹さん、これ。林檎切ったから食べて」

 「おー、ありがとうな。あ、これ蜂蜜つけてくれたの佳苗だろ」

 「う、うん。よく分かったじゃん」

 「当たり前だろ。いつもこうやって林檎切ってくれるからな」


晴樹さんは笑顔で林檎を口に運ぶと、その味に驚いたのか目を大きくしてからもうひとつその大きな口に入れて味わっている。


 「晴樹」

 「うん? 何だ? 達月」

 「未練はないの? 今日突然、あんなことを言われて」


林檎を味わっているように動いていた晴樹さんの口が止まった。それと同時に笑顔も無くなった。


 「……あるに決まってんだろ」

 「そうだろうね」

 「だからな。俺、さっき1人になって考えてたんだ」


再び笑顔になった晴樹さんの声が大きくなったし明るくなった。まるで夜明けが来たみたいに。暗かった夜が明け、新しい朝が来たみたいに見えた。


 「え? 何を?」

 「自分の限界は自分で決める」

 「……えっと、つまり?」

 「リハビリ。やれるところまでやってみる。完治する可能性がかなり低いのだって知ってるし、これ以上悪化したら今後歩けなくなるかもしれないってのも聞いた。それでも俺はこの足で、この体でもう一度、代表に選ばれたい。それで、佳苗に今日みたいに試合を見に来てもらいたい」


佳苗を見る晴樹さんの目は、ニケさんが優子さんを見つめる目に似ている気がした。それを聞いた佳苗は、晴樹さんに応えるように見つめている。


 「さっき、私がそう言ったから?」

 「いや、それもあるけど、やっぱりここで終わってしまうのは嫌だって自分で思った。それに、俺はもう後悔することはしたくない。やれるだけのことはやりたい」

 「……」

 「佳苗さん。晴樹がこう言い出したらもう発言は取り消さないよ」

 「そうだよね。もう素直に応援するしかないか。晴樹さんの選手人生だしね。分かった。じゃあ晴樹さん、私に出来ることがあったら教えて」

 「ありがとう! じゃあ言わせてもらう。佳苗がいてくれることが俺の励みになるから、これからもずっと俺の側にいてほしい」


そう言い放った晴樹さんの声を聞いた私を含めた佳苗と達月くんは、同じように口を開けて沈黙している。あまりにもさらっと不意に出たその言葉と、その言葉の強さにインパクトがありすぎて全員が固まってしまった。


 「……晴樹さん、それってプロポーズ?」

 「あー、ちょっと違うかな。もっと、ちゃんとした場でそれは言いたい。だから、今のは何だろ。んー、選手宣誓みたいな感じで聞いててほしい!」


髪を掻く晴樹さんの顔が赤くなっている。ほぼプロポーズみたいなもんだろと言いたくなったけれど、それを言うのは野暮だというぐらいには私も冷静ではいられているようだ。晴樹さんの声を聞いた佳苗も、彼につられるようにへらっと笑った。


 「何それ。そういう不器用なところ、晴樹さんらしくていいよね」

 「佳苗がそう言ってくれるなら俺は不器用でよかったよ」

 「だから何それ」

 「日菜さん。2人がイチャイチャし出したから僕たちはそろそろ帰ろっか」

 「うん、そうだね。邪魔しちゃ悪いしね」

 「おいおい。2人ともまだいてくれよ。てか、2人とも何か前より距離感近づいた感じがするんだけど俺の気のせいか?」

 「うん。僕たち、今日から名前呼びでタメ語になったんだ。佳苗さんのおかげで」

 「そうそう。2人にあった壁、無くしちゃおうって思ってさ」


私たちを見てぽかんとしている晴樹さんは、独自の解釈で納得してくれたのか、再び笑顔になって私たちを見つめている。晴樹さんの笑顔を見ていると、何だか安心する。根拠は分からないけれど、ネガティブなことを考えていてもポジティブな気持ちに変えてくれる。そんな力があるような素敵な笑顔だと今日改めて思った。


 「何だそれ。まぁ仲良くするのはいいことだよな。ならその流れでさ、俺も敬語使わなくていいかな? 桜井さん」

 「うん。何なら2人からも名前で呼ばれてるから名前で呼んで。私も晴樹さんって呼ぶから」

 「ありがとう。分かった、そうするよ」

 「日菜が晴樹さんって呼ぶと、ちょっと体がむずってしちゃうのは何でだろ」

 「俺は佳苗のそういうところ、可愛くて好きだな」

 「そういうところってどういうとこ? あと、絶対可愛くない」

 「相変わらず素直じゃないね、佳苗は」

 「僕より素直じゃない気がする。今日1日一緒にいてそう思った」

 「うるさいなぁ、これが普段の私なんだよ」

 「いいじゃん。それが佳苗の魅力のひとつだよ」

 「まとめ方が雑なんだよ、晴樹さん」


夜だとも思えないし、今日重傷を負った人の病室だとは思えないぐらい私たちの笑い声は絶え間なく部屋に響き渡っていた。あまりにも盛り上がっていたものだから看護師の人に注意されて、みんなで頭を下げてから面会時間のギリギリまで晴樹さんの病室で過ごしてから私たちもそれぞれの家に帰った。窓の外を見ると、私たちを見守ってくれていたかのように、夜でも優しく光る満月が空を泳いでいたのが見えた。

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