第50話 #50


 「日菜さん」

 「はい」


彼の目を見つめていると、右目には暖かい日差しを向けるような太陽がそこにあるように見えて、左目には優しい光を照らしてくれる月があるように見えた。以前と変わらない達月くんもそこにいると思うけれど、私の知らない少し大人になった達月くんもそこにいるようにも思えた。私は背筋を必要以上に伸ばして彼の目を見つめ返す。達月くんの胸元は、ちゃんと人の温度がそこにあってとても温かい。


 「日菜さんと出会ってこれからも一緒に生きていきたいと思ったから、僕は病気に勝つことができた。本当にありがとう」

 「……ううん、私は達月くんの無事をここから祈ってただけ。本当に頑張ったのは達月くん自身だよ」


どくん。どくん。こうして彼と向かい合って話していると、たちまち心臓が大きな音を立てて脈を打つ。ひょっとしたら、彼にもこの音が聞かれているのではないだろうか。そう思うと私の心臓は、ますます大きな音を立てて動いているようだった。


 「まだまだ短い人生だけどさ、これまでにも僕なりに色んな困難があったんだ。自分自身に嫌気がさし、それが限界を迎えた時。ずっと続けてきた小説家を本気で辞めたいと思った時。難病に立ち向かう気持ちが折れてしまいそうになった時。自分の中では本当にしんどい時が何回かあった。ニケさんや優子さんにもたまに助けてもらいながらも、1人でいることが多かった僕は誰にもさらけ出せずに我慢し続けた」

 「……うん。達月くんはよく我慢をするもんね」

 「そんな僕を救ってくれたのが日菜さんだった。日菜さんの笑う顔を見たり、僕に届けてくれる言葉を聞くだけで生きようと思えるようになった。そしてもっと、この人と一緒に色んな時間を過ごしたいと思うようになってた。気がつくと、日菜さんが僕の心の支えになってた。イギリスで病気と闘っていた時も、なかなか寝られない日も頭の中に日菜さんを思い浮かべた。するとね、ビックリするぐらい心と体が軽くなったんだ」

 「……うん」

 「だから今日はね、心を込めて感謝を伝える。日菜さん、今まで本当にありがとう。僕が病気に勝つことが出来たのは間違いなく日菜さんのおかげだよ」

 「……ありがとう」


胸の中にある達月くんに伝えたい言葉がぎっしりと詰まっていて、どれから渡せばいいか分からなくなり、私の頭と心がパンクしてしまいそうになって上手く言葉を伝えることが出来ない。達月くんがこんなに気持ちを込めて私に言葉を伝えてくれているのに。そう思うと、私の頭の中はもっとぐちゃぐちゃになってしまう。


 「日菜っ」

 「は、はい!」


隣にいる佳苗が勢いよく私の名前を呼んだ。佳苗の方を見ると、彼女は「深呼吸」と言って私の右肩をぽんと優しく一回叩いた。それが私の背中を押してくれたのか、私の心の中が少しずつ整えられていく。私は一度、深く息を吸って、それと同じくらい大きく息を吐いた。私は半分くらい開き直って達月くんに胸の中にある伝えたいことを言おうと決めた。


 「私だってね、今こうして達月くんの目の前に立っていられるのは達月くんのおかげなんだよ。昔の私は、もっとひねくれている性格をしていたし、もっと他人に壁を作ってた。無理して愛想の良い人間を演じたりしていて誰にでも好かれようとしてた。佳苗だけはその私のこと、全部知ってるんだけどね」

 「あの頃の日菜はねぇ、そりゃあもうアレだよ。絵に描いたような営業スマイルを向けてきてね、社会人1日目です! みたいな声で接客してくるんだ。私には出来ないな、あれは」


うんうん、と言いながら腕を組んで苦笑いを浮かべる佳苗を見ている達月くんは、その一言一句を逃すまいとしているようにじっと佳苗の目を見つめている。ただ、それでいて、とても穏やかな顔で佳苗を見ている。彼の笑顔に見惚れていて口が止まってしまっていた。私は話が途切れないように「それでね」と私が続けると、達月くんはその穏やかな笑顔を私に向けた。私はそれだけで顔と体が熱を帯びるように熱くなる。彼にバレないように呼吸を整えて、私も彼の目を見つめ返した。


 「キミと出会うまでの私は、正直言ってこの世界を嫌ってた。同世代の人たちみたいに真面目に働くことの出来ない自分を嫌いになっていたし、そんな私を無理矢理にでも全うな職に就かせようとする親も嫌いだった。職場に来る客には毎日、心の中で暴言を吐いていた。こんな生活、いつまで続くんだろうって本気で思ってた。そんな私の前に現れたのが達月くんだった」


 あの頃の達月くんと比べても、今の達月くんの外見はそれほど変わらない。短くなっていた髪の毛も伸びたし、びっくりするぐらい細い手足だって今も細すぎるくらいだ。けれど、やっぱり違う。少年のように柔らかくて純粋無垢な表情や、彼の体全体を纏っているような穏やかな雰囲気。


 「この場所で会って、早乙女達月の話題になるなんて思ってもなかった。むしろ、話しかけてくるなんて思わなかったからすごくビックリした。共通の話題で盛り上がったのはあったけど、それよりも達月くんの笑顔が素敵すぎたのが一番印象に残ってる」

 「……僕、人前で笑顔になれなかったんだよね。まぁ笑顔だけじゃないけど。それでもあの時、日菜さんの前だけは自然と笑うことが出来たんだ。自分でも笑えたって驚いてた」

 「外見では全然驚いてるように見えなかったけどね」

 「その頃の僕は、それが平常だったんだ」

 「ふふ。うん、知ってるよ」


私の頭の中にある映像と、達月くんの頭の中にある映像が同じものであると私は確信できる。その頃の私は、今がこんな未来になっているなんて知る由もない。ただ、その頃も今も、目の前にいる彼が見せてくれる、この素敵な笑顔は何も変わっていない。私はその現実が、今この瞬間が一番嬉しい。


 「達月くん」

 「日菜さん」


同じタイミングでお互いの名前を呼び合い、お互いの目を見つめ合う。ビックリしているのか彼の目が大きく見開いている。多分、私の目も同じように大きくなっている。それを見ている3人が同じタイミングで笑い、それにつられるように私と達月くんも笑った。彼とは伝えたいことが同じだと思っている。


 「何? 達月くん」

 「こういう時はレディーファーストでって、ニケさんから教わったけど、今日は僕が先に言いたいこと言わせてもらおうかな」


彼が鼻の頭を触るときは恥じらいを隠している時。ニケさんが達月くんの背中を優しく撫でながら見守っている。ニケさんの隣にいる優子さんもその様子を優しい表情で見つめている。私も覚悟を決めるように大きく深呼吸をした。


 「うん、じゃあ達月くんから言って」

 「うん」


彼も私と同じように息を大きく吸ってゆっくりと吐いて呼吸を整えた。


 「日菜さん、僕、これからも小説家を続けるよ。ずっと。ずっと」

 「え? う、うん……。頑張って! もちろんずっと応援してる……!」


あまりにも見当が違った。彼が小説家を続けるのはもちろん嬉しいことだけれど、私のしていた予想とは違った分、自分でも思うくらい変な声が出てしまった。それを見た達月くんは口を大きく開けて笑った。爆笑という表現が相応しい、とても豪快な笑顔だった。


 「ごめんごめん。今日伝えたいことはそれじゃないよ。日菜さん、こうやってつまらないことをしてしまう僕だけど、これからも一生、僕の側にいてください。だから……、僕と……、うん……。結婚してくださいっ」


完全にやられた。彼の手元にある白い小さな箱が開けられ、その中にはこの世界にあるどんな宝石よりも綺麗な指輪があった。きらきらに光っているそれを角度を変えてみると、ピンク色に光って見えたり、黄色に光って見えたり、はたまた黄緑色に光って見える、とても不思議で幻想的で素敵な指輪だった。私はもうこの時点で涙を我慢することは出来なかった。いや、我慢しなくていいんだと思った。今日は泣いてばかりの1日だ。


 「達月くん……」

 「……はい」

 「私は、ずっと、達月くんと、一緒にいる……。私、の方こそ……、よろしくお願いします……!」


涙をこらえ、呼吸を整えながら彼に返事をすると、がばっという音が聞こえ、気がつくと目の前が真っ暗になり、それと同時に彼の体温と、優しい石けんのような匂いが私を包み込んだ。私と達月くんの後ろからは、鼻を啜りながら手を叩いて私たちの今を祝福してくれている音が聞こえていた。

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