第49話 #49


 真っ暗な世界。前を向いていても、横を向いても後ろを振り返っても何も見えない。そんな空間で、不意に聞き慣れた声が私を呼んだ気がして私は後ろを振り返った。それが夢だと気づくのに3分ぐらいかかった。開きづらい瞼を少しずつ開いていくと、窓の外から光の柱のように陽の光が差し込んでいたのが見えた。いつ眠ったのか分らないまま敷き布団から体をゆっくりと起こした。隣には優子さんと佳苗が抱きしめ合うように体を密着させて気持ちよさそうに眠っている。


 「あまりにも気持ち良さそうだし激レアな光景だからこれは撮るべきだな」


シャッター音のしないカメラアプリを使って静かに写真を撮ってから、2人を起こさないように私はシーツから立ち上がり洗面所へ向かった。自分の体にスイッチを入れるように顔を洗い、歯を磨いていると突然玄関の鍵が外から開けられた。あまりに突然の出来事に驚きながらも強盗かと思い私は近くにあった大きめの傘を右手に取った。私はまだ夢の中にいるのだろうか。物音をさせないようなゆっくりと静かに開けられたドアノブを持っている人と目が合った。目が合った瞬間、彼は頬を赤らめ照れくさそうにへらっと笑った。


 「日菜さん、ただいま。驚かせたくて誰にも言わずに帰って来ちゃった。歯磨き中、ごめんね」


彼を見つめたままの私の体は魔法がかかったように動かなくなっていた。私の心の中はまるで洗濯機の中みたいに様々な感情や言葉がかき混ぜられている。それでも、彼に声を届けたくて歯磨き粉のついた口をゆっくりと開けた。


 「お、おかえり……なさい」


声の出し方すら忘れかけた私は、自分でも驚くぐらい掠れた声が出た。魔法が解けた私の体を動かすと、彼の胸を目がけ3メートル以上ありそうな距離を飛びつくように勢いよく駆け出し抱きついた。


 「おかえりなさい! 達月くん……!」

 「ただいま、日菜さん」


耳元で聞こえたその声は、私の体と心を一瞬で熱くさせた。分厚く張られていた氷の塊が一瞬で溶けたような、私の止まっていた時間が再び動き出したようなそんな感覚になった。口の周りを歯磨き粉をつけ、目と鼻からは大量の水を流す。顔中ぐしゃぐしゃになって私は泣いた。子どものように泣いた。むしろ、子どもよりも泣いた。


 「どうしたの!? 日菜ちゃん!?」

 「日菜!?」


慌ただしい足音が2人分近づいてきて、リビングのドアを叩き壊しそうなほどの勢いで優子さんと佳苗が玄関に来た。その勢いに驚いた達月くんの体がビクッと動き、それにつられて私の体もビクッと動いた。


 「た、達月くん!?」

 「優子さん、ただいま。ごめん、こんな朝早くに」

 「お、おはよう、達月くん」

 「佳苗さん、おはよう。久しぶりだね」


私を落ち着かせてくれているのか、彼の優しい手が私の背中をゆっくり、優しく撫でてくれている。ひんやりと手のひらが冷たく感じるところが彼らしくてまた涙が流れ出る。彼の胸元から顔を見ると、それに気づく彼が優しく笑って今度は頭を撫でてくれる。私だけが号泣しているこの空間に、今度は何だか笑えてきた。涙を流しながら笑う体験。うん、間違いなく人生で初めてだ。そんなことを心の中で思っていると、再び玄関のドアが開いた。


 「ただいま。みんな。達月くんの予想的中。日菜ちゃんだけ号泣」


へらっと笑うニケさんは、全身グレーのスーツに身を通し、手には青い薔薇を一輪持っていた。普段もスーツ姿でいることが多いニケさんだけれど、今日のニケさんは一段とかっこよく見えた。髪の毛が伸びていて、後ろをゴムで結んでいた。少しずつ冷静になってきたのか、達月くんもスーツでいることに違和感を感じた。それと同時に胸元につけた歯磨き粉やら涙やら鼻水やらを見ると、今すぐにでもそれを全て拭き取ってクリーニングに出したくなった。達月くんも髪、伸びたな。初めて会った時の達月くんぐらい前髪が長い。


 「ニケさん、おかえりなさい」

 「うん。優子、ただいま。佳苗ちゃんだね、久しぶり」

 「お久しぶりです。ニケさん。サプライズすぎますよ」

 「ごめんごめん。達月と計画しててさ、思いっきり感動させてやることしようよって言ってたんだ。そしたら達月がさ、この時間に来るのがいいんじゃないかなって言っててね」

 「理想は日菜さんと優子さんが寝てる間に家に入って、起きた時にビックリさせてやりたかったけどね。まぁもし起きてたら日菜さんは絶対、思いっきり泣くと思うって言ってた。佳苗さんがいるのは予想外だったけどね」

 「ごめんね。お邪魔してます。女子会やってたんだ、昨日の夜」

 「2人とも、本当にお疲れ様でした……」


そう言った優子さんの声が震えていた。彼女の方を見ると、両手で顔を覆い私と同じように涙を流していた。そんな優子さんを優しく包み込むようにニケさんが抱き締めている。それを見て、私の視界も再びじわっと滲んだ。


 「待って、私も泣けてきたんだけど」


そう言って目頭を押さえる佳苗。私の耳元で達月くんも鼻をすする音が聞こえた。


 「あはは、結局みんな、泣いてんじゃん」

 「僕の予想、結局外れちゃった」


ニケさんの笑う声につられて私たちは涙を流しながら幸せそうにみんなが笑う。私も笑う。心の底から笑っている。達月くんの腕の間から彼の顔をちらっと覗くと、彼も顔にいくつもの皺を刻んで笑っている。彼も私と同じで、心の底から本気で笑えているように見えた。すると、達月くんは私をゆっくりと体から離してみんなの視線を自分に集めるようにリビングの真ん中にある黒色のソファの横に立って全員を見渡した。


 「改めて皆さん、本当にありがとうございました。幼い頃から自分の人生に嫌気が差し、下を向いて生きていた僕と一緒の歩幅で歩いてくれたニケさんと優子さん。ひねくれていた僕の数少ない大切な友人になってくれた佳苗さん。この場にはいないけど、もちろん晴樹にも感謝してます。そして、こんな僕と一緒に生きていきたいと言ってくれた日菜さん。皆さんのおかげで僕は生きたいと思えた。自分の命を大切に思えた。1日でも早く病気を治してみんなに会いに行きたいと思えた。みんなが手を差し伸べてくれたおかげで、僕は病気を治すことができました。『家族』って何だろうと思っていた僕だったけれど、やっとそれが分かった気がしました」


へへへと笑いながら頭をゆっくり、そして深く下げる達月くんを見て私たちは彼を抱きしめるように彼の元へ集まった。


 「達月。僕たちは昔から達月のことを考えている。かけがえのない家族の一員だよ。血の繋がりなんて関係ない。ここは紛れもなく達月の家だ。もう辛いことは考えなくていい。自分の抱いてる気持ちに素直になればいいんだ」


ごしごし。音が聞こえてきそうなほど力強く右手を動かして目から溢れ出ている涙を拭う達月くん。ニケさんと見つめ合う2人を見ていると、やっぱり本当の兄弟のように見えるのは私だけではないはずだ。


 「ニケさんの言葉を聞くと重くなっていた心の中が嘘みたいに軽くなる。ニケさん、僕の病気のことを一番に考えてくれてありがとう。ニケさんがいなかったら間違いなく今の僕はここにいない。多分、この世界にもいないと思う。そんな僕を救ってくれたんだ。感謝をしてもしきれない」


拭っても拭っても流れ出る涙をそれでも拭う達月くんを、ニケさんはゆっくりと体全体で抱きしめて彼の体をその大きな体で包み込んだ。


 「達月。僕はこれからもキミがキミらしく生きていってくれたらそれが一番嬉しいよ。それに、一番頑張ったのは達月自身だ。僕はほんの少し背中を押しただけ。達月、むしろ僕の方こそありがとうだよ。僕たちと一緒にいてくれて。これからも一緒にいてね。遠くに行っちゃダメだよ」

 「……うん。もちろんだよ」


力強く抱きしめ合う2人を見ている優子さんも、2人の側に行ってゆっくりと体を添えるようにくっついた。


 「達月くん……。おかえり」

 「ただいま、優子さん。ごめんね、心配かけて」

 「あはは。本当だよ。でもね、私は確信してたよ。達月くんなら絶対大丈夫だって。絶対、私たちの元からいなくならないって」

 「優子さん……僕ね、夢の中でよく優子さんに励ましてもらってたんだ。大丈夫大丈夫、キミは生きられるって。いつもそうやって言って抱きしめてくれてた。夢から覚めて、冷たい病室のベッドの上にいるのに、心はいつも暖かかった。側にいてくれてるみたいだった」

 「当たり前じゃん。私は毎日、キミの側にいるって思ってたよ。もちろん、それは私だけじゃないけどね。達月くん、キミはやっぱりすごいね。うん、本当によく頑張った、うん。本当に」

 「ありがとう。優子さん。僕は母親の記憶はないけど、お母さんがいたらこんな感じに甘えたりしたいなって思ったし、今でも思ってる。これからもいっぱい甘えると思うけど、よろしくお願いします」


2人に寄り添う優子さんは首を縦に振って、両腕で達月くんとニケさん、両方の背中を撫でながら笑っている。


 「うん、喜んで。でも、私、お母さんよりお姉さんの方がちょっと嬉しいような気もするなぁ?」

 「優子はお母さん感あるよ。もちろん、良い意味でね? 包容力とかすごいし、とっても面倒見がいいと思うし」

 「ありがとう。良い意味でね?」


ぎゅーっとニケさんの背中をつまむ優子さん。ごめんごめんと言って猫みたいに飛び跳ねるニケさん。それを見て少年のような笑顔を見せる達月くん。うん、間違いなく家族の光景だ。でも確かに分かる。優子さんがお母さんに見える気持ち。うん、改めて思った。優子さんは偉大だ。

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