第14話 #14
今日の佐藤さんの声には以前よりも力が入っているような気がした。ただの気のせいかもしれないけれど。
「あ、ありがとうございます……。あの人には申し訳ないですけど……」
「いいんですよ。無理して人と合わせて行動する方がしんどいと思いますし。あいつ、良くも悪くも人の言葉を真っ直ぐ受け止めるから。その分、また打ち込むものに没頭すると思います。まぁ本人じゃない僕が言うのも少しズレてるのかもしれませんが」
「い、いえ……。そんな」
小さく息を吐いてから紺色の手帳を開いてスケジュールを見ている彼の仕草ひとつが、まるで芸術点を争う競技のように美しいものに見えて少し見惚れてしまった。珍しく彼と目が合っていて私はあからさまに慌てた。
「あ、あれ? お仕事の方は?」
「あぁ。今、ちょうど終わったところです」
「なるほど……。おつかれさまでした……。なのかな?」
「ありがとうございます」
力みもなくトーンの変わらない、以前の彼の声色に戻った気がした。やっぱりさっきの彼の声はどこか力んでいたように思えた。それが気になったのは事実だけれど、それを聞こうという勇気が私にはない。メニューを眺める佐藤さんを見つめる私たちの間には沈黙が訪れた。急に静かになったものだから私の体にも不自然に力が入っている。そして力の抜き方が分からない。
「好きな色は何色ですか?」
「え?」
突然の問いかけに私の抜けた声が彼に聞かれた。それを誤魔化すように私は少し大きな声を出してでうーんと腕を組んで考えた。
「黒色、ですかね?」
「え」
今度は彼の「え」が不自然に大きくなって私の耳に届いた。
「何でですか?」
「え?」
「何で黒色が好きなんですか?」
「何でだろう。その色を見つけると心が落ち着くというか。変ですよね、普通はそういうの、緑色とかだと思うのに。まぁ、あんまり上手くは言えないけど明るい色が苦手なのかもしれないです。名前はだいぶ明るいのに」
自虐を混ぜて笑ってみせると、その様子を目を丸くした佐藤さんがじっと私の目を見つめていて、私は慌てて目線を少し下に逸らした。
「黄色とかピンク色とか言うかと思いました」
「ピンクは絶対、名字から連想しましたよね」
「はい。しました」
あまりにも潔い返事をした彼を見て私は噴き出してしまった。
「あはは! 素直ですね」
「僕も好きな色は黒色なんです」
「あ、佐藤さんは何となく分かります。雰囲気も落ち着いているし、服装も初めて会った時も今日も黒色を基調としたコーディネートをされている気がしたので」
「服は基本、黒色しか持ってないので」
「でも似合ってるからいいじゃないですか」
「似合ってるとか初めて言われました」
「本当ですか? 言われ慣れてそうなのに」
「まさか。褒められることなんてないので新鮮です」
「へぇー。意外でしたね」
「お互い、意外なところが分かりましたね」
「本当ですね」
たまたまなのか、私たちが会話を終えたそのタイミングで店員さんが私たちの注文した飲み物を持ってきた。
「ウインナーコーヒーのお客様」
「あ、私です」
「お熱いのでお気をつけてお持ちください」
「ありがとうございます」
「ジンジャーエールのお客様」
「はい。僕です」
「ありがとうございます」
まるで子どもを見守る幼稚園の先生のような、とても優しい笑顔を私たちに向け、物音ひとつ立たさずに飲み物を置いた店員さんの髪の毛から微かに百合の花のような綺麗な匂いが私の鼻に届いた。妬むつもりは無いけれど、店員さんの虜になってしまいそうなほどいい匂いだ。見れば見るほど、近づけば近づくほどこの人の魅力的なところが見つかる。
「あ、優子さん。紹介します。こちら、桜井日菜さん。スポーツショップの店員さんです」
不意に彼に手を向けられた私は、焦った顔を見られないように慌てて店員さんに頭を下げた。店員さんがふふふと優しく笑っている声が聞こえてきた。
「お顔を上げてください。桜井さん、初めましてではないですよね。よくここに足を運んでくださっているのを知ってますよ。昨日もいらしてましたよね。ありがとうございます。優子といいます。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……! 森下町のスポーツショップで働いています、桜井日菜といいます……。て、店員さんに覚えていただいていて光栄です」
「桜井さん、紹介します。こちら、店長代理の優子さん。僕の第二の母親みたいな人です」
「だ、第二の母親……」
「ちょっと、達月くん。そんな大それた言い方しなくていいですよ。私たちがしたくて達月くんをサポートしているんだから」
第二の母親。私たち。サポート。気になるワードが次々と出てくる会話に追いつくために私は、それらをひとつひとつ落ち着いて頭に入れていく。
「な、なるほど……」
「しばらくニケさんはここには帰って来ませんか?」
「そうだね。まだ音沙汰は無いから先の話になるかな」
優子さんが寂しそうな笑顔を佐藤さんに向けた。ニケさん。また私の知らない言葉が出てきた。人の名前のようだが、どうなのだろう。
「桜井さん、この店にはもう1人、店長がいるんです。それがニケさんという人で、ひとめ見た瞬間にいい人だと思うぐらい優しさが滲み出た男の人です。見たことはありますか?」
「い、いや、私はこちらの優子さんしか見たことないです」
「ニケさん、ここにいる時間短いからなぁ」
「すぐどこかへ旅に出てしまいますもんね」
「そうそう。どこへでも冒険に行くんだから。子どもでしょ」
あははと笑う、優子さんの顔をじっと見つめる佐藤さん。彼の顔もどことなく寂しさを持ち合わせているように見えてきた。他人に興味のなかった私が自分でも驚くぐらい耳を傾けている。
「そ、そのニケさんという人と優子さんはどのような関係なんですか?」
「夫婦ですよ」
何の迷いもなく私にそう言いきる優子さんの頬が赤くなっているのは多分私の気のせいではない。
「な、なるほど……!」
私は驚きを隠せないまま、優子さんの顔を見つめている。
「桜井さん、心の中で何を思っているか分かってしまう顔をしていますよ」
あまりにも上品に優子さんが笑うものだから、私の顔がみるみるうちに熱くなっていく。何も言うことが出来ずに私は、当たり障りのない笑顔を作った。
「実際、優子さんはとても若く見えるし、とっても綺麗だから僕よりも年下か同年代くらいに思いますよ」
「まぁ。いつから達月くんはそんなに褒めるのが上手い人になったのでしょうか」
えへへと笑う優子さんの顔は、本当に私よりも若い少女のような笑顔に見えた。女性に年齢を聞くのは絶対にしないけれど、この人の実年齢がとても気になるのは事実だ。
「僕はいつも本当のことしか言えないつまらない人間ですよ」
「ふふふ。そう思っていない人もいますよ。ね、桜井さん」
「あ、は、はい……!」
優子さんに言わされたように返事をした私の顔をじっと見る佐藤さんは、いつものように表情のないままジンジャーエールに手を伸ばした。ずずずとストローでそれを飲みきった音が彼の機嫌を損なった音に聞こえなくもなくて少し気まずく感じた。
「改めまして、桜井さん。これからもこの店をどうぞご利用ください。よろしくお願いします」
「は、はい……! こちらこそ、これからもよろしくお願いします!」
「達月くんもね。ニケさんに達月くんが会いたがってたって電話で言っておくね」
「よろしくお伝えください」
「分かりました。では、ごゆっくりどうぞ」
テレビに映るモデルの人たちよりも綺麗な姿勢に見える立ち姿のまま、足音を立てずに優子さんはキッチンの方へ歩いて行った。あの人は全てが上品だ。同じ人間には思えない何かがある気がしたと同時に、何かもう敵わないなという気持ちが心の中に生まれた。私が口を噤んでいると、佐藤さんが「あの」と私に声をかけた。
「コーヒー。冷めちゃいますよ」
「あ、本当だ! せっかく淹れてもらったのに!」
ギリギリほんのりと温かい状態を保っていたそのコーヒーを冷めた状態で飲むのは気が引けた私は、ひとくちでそれを飲み干した。それを見ていた佐藤さんからふっと鼻から空気が抜けたような音が聞こえてきた。
「佐藤さん、今、笑いました?」
「え? 笑ってないです。まぁ、面白いなとは思いましたけど」
「鼻で笑いましたよね?」
「笑ってないです。鼻から空気を抜いたんです。ふって」
「笑ってるじゃないですか!」
初めて佐藤さんが笑った(?)ところを見ることが出来た私は、謎の達成感を味わいながらその後も彼と会話に花を咲かせた。気がつくと、客は私たちだけになっていて閉店時間の20時まで滞在してしまっていた。そんな私と佐藤さんを温かい笑顔で優子さんが店を出てからも見送ってくれた。佐藤さんは私に何かを言おうとしていたけれど、すぐに背を向けて私とは違う方向へと歩いていった。彼の姿が見えなくなるまで、私はその背中をじっと眺めていた。
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