第11話 #11


 「ごめんなさい。急用が出来ちゃいました」

 「忙しいんですね。お休みの日なのに」  

 「ほんとです。正直、休みの日はゆっくりしたいです」


そう言ってため息を吐く彼の表情は相変わらず何も変わらない。ゴソゴソと何かを探るように黒いバッグの中を確認していると、彼はそれを持ち上げソファから立ち上がってゆっくりと大きな体を動かし始めた。


 「では急ですが、お先に失礼します」

 「はい! 頑張ってください! なのかな? 無理はなさらず!」

 「はは。ありがとうございます。ほどほどに行きますね」


私は今、幻を見たのだろうか。彼は立ち去る瞬間、少年のような爽やかで純粋な笑顔を私に向けていた。さっきまで表情なんて何もないロボットみたいな人が嘘みたいに綺麗な笑顔を見せたものだから、私の心の中が軽いパニックになっている。私は何かとてつもないものを見た気になった。そんな気持ちのまま、私は気がつくと「あの!」と大きな声を出して彼を呼び止めていた。前髪の間から覗く彼の目が丸くなって私の目を見つめていた。そして彼の顔からは笑顔がなくなっていた。速くなる鼓動を落ち着かせながら今度は私が彼に笑顔を向けた。


 「またここに来ますか?」


思い切って聞いてみると、彼はゆっくりと首を縦に振った。


 「はい。ここ、僕の憩い場なので。そのうちまた現れると思います」


彼の声を聞いた私の心臓は、舞い上がって踊っているように鼓動が速くなった。私は表情にそれが出ないように必死に自分を落ち着かせて口を開いた。


 「わ、私もよくここに来るので、またよかったら話しませんか?」

 「もちろん。じゃあ今度はソファに座ってください」

 「は、はい……!」

 「僕もあなたと色々話してみたくなりましたので。それじゃあ、また」

 「あ、は、はい! また!」


彼は足音を立てることなくレジの方へ向かい、店員の女の人と少しだけ会話を交わしてから店を出て行った。彼を見送る店員の顔は見えなかったけれど、今は見えなくてよかった気がした。彼が去った後も、私の席の近くには彼が身に纏っているラベンダーのような上品でいい匂いが残っていた。


            ✳︎


 『佳苗。今日、仕事終わり時間ある? あったらいつもの喫茶店に来てくれない? けっこう、すごい話あるかも』


私は佳苗にメッセージを無心で送っていた。送っていた後に気づいた、この図々しい文章に反省しながら私は再び小説を開いた。けれど、いくら文字を読んでいても、さっきの出来事があってから頭の中はそのことしか思い浮かばない。私は鞄の中から日記を取り出した。


 「うん。今はこっちだな」


普段よりも体温が高くなっているのは温かいコーヒーを飲んでいるだけではない。でも、私にこんな感情があるのだろうか。自分に疑問を抱いたまま、今の心の中を曝け出すようにペンを走らせた。


 『さっきの笑顔は、限られた人しか見ることのできないものに見えて嬉しくなった自分がいる。それにしても素敵な笑顔だった。人間って、あんなに綺麗な笑顔が出来るんだと彼に教えてもらった気がした』


日記の内容は、ほぼ彼のことばっかりだった。そんなことに笑えていると、不意にスマホの通知が鳴った。佳苗から『すぐ行く!』という文章と一緒に猫が全力で走っているスタンプが送られてきた。今日の私は笑いのツボが浅いようだ。私は口角を上げながらスタンプを佳苗に返した。


            ✳︎


 『仲間外れにされたからカッとなって背中から刺した』

 『思っていた反応と違ったからムカついた』

 『口論になって気がついたら殺していた』


テレビをつけると朝からうんざりするようなテロップを無機質な声でアナウンサーがニュースを読み上げる。チャンネルを変えると180度違うテンションでお笑い芸人たちが食レポをしている。一通り見終わってからため息をついてテレビを消した。低血圧も相まって今日の目覚めはかなり悪い。気分を少しでも上げるためにイントロから激しいロックバンドの曲を流して無理やり頭を起こした。


 「何で腰痛いんだろ? 寝相悪かったかな」


謎の腰の痛みと口を開けて寝ていたのか、喉の奥の方の違和感を抱えたまま朝食を食べ終え、仕事のスイッチを入れるようにいつものようにメイクをし、服を着替えて家を出た。今日は普段よりも5分早く出られた。そんな私を心の中で少しだけ褒めた。


 土曜日は基本的に忙しく、学校が休みの小学生や部活後の学生たち、家族で来店する客が平日よりも圧倒的に多くて店の中が人でごった返している。北山さんが作ったセールのチラシの影響もあるのか、次々とレジに客がやってくる。柔らかい表情と明るくハキハキとした声を持続している私は徐々に疲れてきているのが自分でも分かった。危ない危ない。さっき接客した客にイライラして顔に出るところだった。私は深呼吸して心の中を落ち着かせた。


 「こんにちは。お久しぶりです」


背後から野太い男の人の声が聞こえ、振り返った先にはあの人と一緒にいた全てが大きい人(私が勝手に名付けた)が太い腕をゆっくりと横に振りながら私の方を見ていた。


 「いらっしゃいませ! あ、お久しぶりです」

 「ポール、学校に届きました。ありがとうございます」

 「それは良かったです! こちらこそ前回はありがとうございました」


完全に接客用の笑顔をその人に向けると、その人も真っ白の歯を私に見せつけるように笑顔を向けた。歯が白すぎて逆に不自然に見えたけれど、視線を変えて気を紛らわせた。


 「子どもたちも一層、バレーボールを楽しんでくれています。また今度、色々注文させていただいてもいいですか?」

 「もちろんです! 私たちに出来ることでしたら何でも仰って下さい!」


研修のオリエンテーションで習った、絵に描いたようなお辞儀をしてから顔を上げると、その人は何かを含んだような顔で私を見ていた。そして、真剣な表情に変わった。この人がバレーボールをしている時は、多分こういう顔をしているんだろうなと思いながら私はその人の言葉を待った。


 「……じゃあ個人的な注文でもいいですか?」

 「は、はい……! 私たちに出来ることでしたら……」

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