6
「銀子ちゃん、」
私を宥めるような、遠い記憶の中の母みたいな口調で、サチさんが私を呼んだ。
遠い記憶の中の母。
昔、まだ私と紅子が幼ないただの姉妹だったとき、確かに母は、当たり前に優しかったのだ。
「マリは、ちょっと言い方がきついかもしれない……。」
でもね、と、サチさんは目を伏せた。風呂場の真っ白い電灯が、彼女の頬に灰色の睫毛の影を落とした。
「でもね、マリの言うこと、間違ってないと思うわ。……一人と一人よ、あなたと紅子ちゃんは。」
一人と一人。私は口の中でその言葉を繰り返した。これ以上ない真実だという気もしたし、これ以上の嘘もないという気もした。
一人と一人。
そんなのは当たり前だ。私達は、それぞれ一つずつの心と身体を持ち合わせている。
いや、そんなことはない。私達はこれまで心も身体も一つに癒着してきたのだ。今更一人と一人に別れられるはずがない。
その両方の考えが、頭の中をぐるぐるとめぐり、私はすっかり混乱していた。
サチさんは、そんな私のことをじっと見つめていた。それは、身体のどこかが痛みでもするみたいな目をして。
そして、風呂から女郎たちの姿が消えた後、サチさんはそっと私の手を取った。私が暴れだすことすら想定に入れているのだろう、慎重な動作だった。
「銀子ちゃん。お化粧して、そろそろ仕事よ。」
はい、と答えたつもりだったのに、声が出なかった。だから私は、ただサチさんの手に従って立ち上がり、風呂を出た。
サチさんは、脱衣場で立ち尽くすことしかできない私の身体を手拭いで包むように静かに拭いてくれ、着物を着せかけ、帯も結んでくれた。私は、でくのぼうみたいにただ突っ立っていた。もう、指一本動かせそうになかった。
「さあ、お化粧しましょう。」
サチさんは私の部屋まで手を引いていってくれたけれど、そこに私の化粧道具はなかった。鏡台は空っぽだった。
「……あっちなんです。」
恥を忍んで、私は紅子の部屋につながる壁を指さした。
するとサチさんは、悲しそうに首を振った。
「だめよ、銀子ちゃん。本当に、もうだめだわ。」
分かっている。化粧をする時間さえ、私は紅子を一人にしておけない。それは、怯えるように。
だめだ。本当に、もうだめだ。
私は唇を噛み、サチさんの手にすがって、少しだけ泣いた。
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