「ここへ来て一週間だけど、もう慣れた?」

 手ぬぐいで白い顔の縁をなぞりながら、サチさんが私の顔を覗き込んだ。

 私は言葉に困り、曖昧に笑う。

 この世のなににももう慣れたりできないような気はしていた。紅子と踏み越えてきた禁忌が大きすぎて。

 黙ったままの私を見て、サチさんはにこりと微笑んでくれた。それは、とても優しい表情で、私に故郷の母を思い出させた。

 あんなことになるまでは、母は優しかった。ごく、当たり前に。

 「こんなところに慣れたかって、訊くほうがおかしいわね。」

 そんなことない、と私は首を振った。

 サチさんが、遣手に言われたから仕方なく私の面倒を見てくれているのではなくて、本気で私がここに馴染めるように配慮をしてくれているのは、分かっていた。

 もっと器用に言葉を紡げればいいのに、と、私は自分で自分がもどかしくなる。

 「蝉が言ってたわ。銀子は慣れればいい女郎になるって。稼ぎ頭になるんじゃないかって。」

 蝉、というのは昆虫のあの蝉ではなく、遣手の男の名だ。観音通りの女郎屋の遣手は、女郎を上がった後なのだろう、ある程度年のいった女がやっているものらしいのだが、この売春宿だけは、なぜだか男がその役を務めている。年齢はよくわからないけれど、ちんどん屋みたいに派手な格好をした、さばけた口調で喋る男だ。

 「……そうなれれば、いいですけど。」

 と、私は曖昧に言葉を返す。まだ、一週間。数えられるくらいの男しか取っていない身だ。自分がこの稼業に向いているのかどうかさえわからない。ただ、ここを出ては紅子を食わせてやれないから。がむしゃらに男に媚びを売るしかないだけだ。

 「蝉さんは、いいひと、ですね。紅子にも部屋をくれて。」

 観音通りの売春宿では、女たちは自分が売らしている部屋で客を取る。一部屋いくらで金が入るのだ。それなのに蝉は、客を取らない紅子にも気前よく一部屋を与えてくれた。金にならない部屋を作っておくのは損にしかならないのに。

 「蝉が、いい人?」 

 サチさんが驚いたように幾分声を高くし、周りで銘々身体を伸ばしていた女郎たちも、そよそよと風になびく笹の葉みたいに笑った。

 「はじめは、そう見えるのよね。」

 女郎たちの中のひとり、名前はわからないけれど、ひどく白い肌が印象的な女郎が半分笑った唇で言った。

 「慣れたら、あんなに冷たい男もいないけどね。」

 今度は、短い髪に削げたような頬が印象的な女郎が言う。

 「冷たい?」

 私が首を傾げると、広い風呂に入った女たちが、一斉に頷いた。

 「冷たいっていうか、どうでもいいのね、私たちのことは。」

 サチさんも軽く笑いながら言うので、私は納得できないままに、とりあえず頷いた。 

 あの人は、笑顔で私の身体を検分し、ここに部屋を与えてくれたあの人は、到底冷たくは見えなかったのだけど、と内心首をひねりながら。

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