銀子ちゃん、と、部屋の外から私を呼ぶ声がした。

 私はそっと立ち上がり、漫画本を右手にぶら下げたまま襖を半分開ける。

 そこには髪にパーマネントをあてた、一人の女郎が立っていた。もう若くはないけれど、自分の魅力をよく理解しているタイプの女の人だ。きっと、いくつになっても美人で通るんだろう。

 サチ、と呼ばれる彼女は、この売春宿で一番の古株なのだという。はじめてここに来た日、私の世話係として遣手に指名され、それから一週間、何くれとなく面倒を見てくれる。

 「銀子ちゃん、そろそろお風呂行きましょう。」

 はい、と私は素直に頷き、洗面器に入ったお風呂セットを取ってサチさんの後に続く。

 サチさんは、よく喋る。私の返事など期待していないのだろう、明るい声で、一人でどんどん喋る。それが私にはありがたかった。

 人に話せないことばかりしてきたからだろうか、喋るのは得意じゃない。人と何気ない会話を重ねるのが、私には難しい。

 「紅子ちゃんは、大丈夫なの?ずっと寝ているみたいだけど、具合が悪いんじゃなくて?」

 紅子、と、その単語は私の耳にはっきりと突き刺さった。いつだってそうだ。紅子に関する全ては、私の神経をはっきりと刺激する。だから私は、ぎこちなくなる口調で、それでもなんとか言葉を紡いだ。

 「大丈夫です。よく寝るんです、紅子は。」

 嘘だった。

 ここ一週間の紅子は、確かによく眠る。でもその前、村にいた頃の紅子は、あまり眠らかった。夜をおそれでもするように、彼女の眠りは浅く短かった。

 私の嘘は下手くそすぎて、サチさんにはとうぜんバレていただろう。それでもサチさんは、化粧っ気のない唇で微笑み、そう、とだけ言った。私はそのことに、心から安堵した。

 紅子のことは、あまり話したくない。

 正確には、紅子とのことは。

 からから、と軽い音を立てて、サチさんが風呂場のドアを開ける。広い脱衣室があって、私とサチさんは並んで服を脱ぎ、そのまま奥の風呂場に入る。風呂場もやはり広いのだけれど、10人以上の女たちが銘々身体を伸ばしているので、随分狭いようにも見える。

 「銀子ちゃん、こっち。」

 その女たちが発する一種の熱量に圧倒されて立ち尽くしてしまう私の手を引いて、サチさんは洗い場の椅子に私を座らせる。頭から水を被り、全身を石鹸の泡で洗い、広い湯船にサチさんと並んで入った。

 

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