銀子ちゃん、お風呂行きましょう、と、サチさんから声をかけられるまで、私はじっと畳の上に座り込んでいた。ただ、眠る紅子を見つめて。

 本当は、紅子は眠ってなどいないのかもしれない。これは単なる狸寝入りで、私と蝉の会話だって、一言も漏らさずに聞いていたのかもしれない。

 そう思うと急に、恐怖が押し寄せてきた。

 紅子が、怖い。

 これまで私は、紅子について知らないことなんてないと思ってきた。同じ日に生まれ、同じ家で、同じように育ってきた。

 だから私は、紅子についてすべて知っている。なにもかも理解している。そう思ってきた。それは、自分のことを知り、理解しているのと同じように。

 けれど、この町に来て、紅子の考えはまるで分からなくなってしまった。それは、自分の考えもさっぱり分からなくなってしまったみたいに。

 もう私には、紅子のことも、私のことも、まるで分からない。

 そのことが、怖かった。未知のことは常に怖い。紅子のことも、私のことも。

 「銀子ちゃん? 寝てるの?」

 とんとん、と、サチさんが襖を軽く叩いた。

 私は慌てて風呂道具を抱え、襖を開けた。

 サチさんは、いつもと同じ、すっきりとした笑顔で廊下に立っていた。今朝、身請け話を断り、この町に残る覚悟を決めた人とは思えない、さらりとした表情で。

 謝りたくなった。

 ごめんなさい。私自身のことすら分からないような小娘が、あなたの人生を左右する事柄に関して、知ったような口を聞いて。

 けれど、私が口を開く前に、サチさんは人差し指をそっと私の唇に当て、小さく微笑んだ。それは、冷たくてしなやかな指だった。

 「蝉になにか言われたんでしょう? そんなの、全部的外れよ。気にすることないわ。」

 私が決めたことだもの、と、サチさんは笑みを深くした。

 「まだ、浩一を愛しているの。だから、決めたのよ。あなたも蝉も、関係のない話だわ。」

 私は、ここまでサチさんに愛されている浩一という人に、いっそ嫉妬すら覚えた。

 サチさんは、この町で身体を売り、借金を返し、そして浩一という人のところに行く。

 その結果がどうなるにしても、私にとってそれは羨ましいことだった。

 だって、私には、眠り続ける妹であり恋人でもあるところの女しかない。ここで身を売り、売って売って売りつくしても、行けるところなんて、ない。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る