第9話 仇5

 栄吉がぎっくり腰になって厠に行くのも一苦労だということで、凍夜が水汲みや洗濯、掃除などをすると言い出した。それだけならまだしも悠の家や三郎太の家の分も水汲みは凍夜がやるという。しまいにはお恵の家の分もやらせてくれと言い出し、お恵は事情を知っているだけに笑って「お願いね」なんて言っている。

 それどころか、三郎太が長屋のどぶさらいをするのを一緒に手伝ってからは、気づいた時に一人で溝浚いまでするようになった。

 この変化に栄吉と悠と三郎太は驚いたが、精力的に活動を始めてからは彼の口数も増えてきた。特にお恵に読み書きや算術を教えて貰っているというのを聞いて、三郎太たちはようやく落ち着くことができた。

 思いがけない効果はそれだけではなかった。凍夜が実は凝り性だということが判明したのである。

 読み書きを教えて貰えるとわかれば、朝から晩までお恵の時間の許す限りつきっきりで教わっている。お恵がいないときは自発的に力仕事をしているし、仕事もない時は一人で黙々とお恵から教わったことをおさらいしている。今では枝鳴長屋の敷地の地面は、凍夜が枝切れで書いた文字でびっしり埋まっている。最近では漢字もだいぶ覚えたらしく、自分の名前はもちろんのこと、「三郎太」や「お恵」などという文字もあちこちに目立つ。

 お恵の方も頼りにされるのが嬉しいのか、はたまた別の理由か、凍夜と一緒に勉強するのが楽しいようだ。たまに朝から晩まで二人で頭を突き合わせて「ああでもない」「こうでもない」とやっている。別れ際に寂しそうな顔をするのは決まってお恵の方なので、長屋の三人組はそれをニヤニヤしながら眺めるのが日課になっている。

 暫くそんな日が続き、凍夜の勉強熱心なことに感心した三郎太は栄吉と悠と相談して、凍夜に硯と筆を買うことにした。悠が子供の頃にお世話になった人が悠の絵の才能を見抜き、身寄りがなくなったとき拾ってくれた人が硯と筆を買ってくれたのが嬉しかったそうだ。その時の硯箱の蒔絵が悠の好きな柄だったことから、凍夜の硯箱は無地のものを選び、悠が自ら絵付けをした。そこに筆を入れて手渡すと、普段あまり感情を表に表さない凍夜もさすがに飛び上がって喜んだ。この時ばかりは普段漬け物石みたいな顔をしている栄吉さえも頬を緩めた。

 なんのかんの言ってもやはり凍夜は子供だ。嬉しい時には全身で喜びを表現するくらいの感情はまだ残っている。家族を失った心の傷がこのまま少しずつ癒えていくことに三人は期待した。

 さて、お恵である。凍夜が硯と筆を買って貰ったことを聞いて黙っているわけがない。紙が無ければ硯も筆も宝の持ち腐れである。早速両親に頼み込み、紙をたくさん貰ってきて凍夜に渡した。

 喜んだ凍夜は最初にお恵への手紙を書いた。読み書きや算術を教えてくれたこと、こうして紙を貰って来てくれたこと、毎日何かしらの世話を焼いてくれること、いつも気にかけてくれること、書きたいことはたくさんあったが、やっと文字が書けるようになったばかりの凍夜には「おけい いつも ありがとう」と書くのが精一杯だった。三郎太から墨のすり方から教えて貰い、たったこれだけを書くのに何度も何度も失敗した。ようやく書き上がった手紙をお恵に渡すと、彼女は半べそをかきながら「宝物にする」と言ってくれた。その言葉は凍夜にとって宝物だった。

 律儀な凍夜は紙をくれたお恵の両親にも手紙をしたためた。こちらも一言だけだったが、それがどれだけ苦労をして書かれたものが、寺子屋の師匠であるお恵の両親がわからないはずもなかった。

 そして栄吉、悠、三郎太の三人にも、凍夜は筆と硯の礼を書いた。栄吉は黙って頷き、悠は「義理堅い子だねぇ」と一言、三郎太は感激しておいおいと泣いた。

 あとで聞いた話によると、お恵の両親は凍夜をとても気に入り、お恵との縁談まで考えたらしい。冗談のように話してはいたが、半ば本気なのは誰が見ても明らかだった。

 その話を聞いて真っ赤になったところを見ると、お恵もまんざらではないようだ。働き者で勉強熱心な凍夜はみんなに可愛がられた。

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