第31話 柏原の異変7

 翌朝、凍夜は前日の昼間にとってきた鎖分銅の練習を始めた。せっかくお頭が自分に期待をかけて準備してくれたのだ、期待に答えなくてはならない。

 だが、どうしても昨日の話が気になってしまって集中できない。いつもの凍夜なら一刻も練習すればそれなりに形になるのに、心ここに在らずなのが傍目にもわかる。しまいには佐平治に声をかけられてしまった。

「鬼火、全く集中してねえな。三郎太さんのことが気になるか?」

 凍夜は大きなため息とともに頷いた。

「そんな時はよ、練習しちゃいけねえんだ。ヘンな癖がついちまう」

「何したらいいかな」

「無心になってできることだな。一緒に草履でも編むか?」

 凍夜が頷くと、佐平治はしのぶの家の前に筵を敷く。ここは佐平治が何かを編むときの定位置だ。鶏小屋の近くでは鶏が絡んで来て仕事にならない、薪小屋の前だと薪割りの邪魔になるし、井戸の前だと水汲みの邪魔だ。ここなら何の邪魔にもならず、厠からは離れているから汚穢おわいの匂いもしない。

 佐平次が藁を一抱え持って来て筵に座ると、凍夜も隣に座った。

「鬼火の作る草履は、目がしっかりと詰まってて高く売れるんだ」

 佐平次が早速作り始めると、凍夜も藁に手を伸ばした。確かに三郎太のことを気にしながら鎖分銅を投げ続けるよりはずっと生産的だ。無心に編んでいればその間くらいは三郎太のことを忘れられる。

 だが、そうは問屋が卸さなかったようだ。無心になっているつもりでも、どうしても三郎太のことを考えてしまう。

 それに気づいたのか、佐平次が声をかけてきた。

「鬼火の郷はどこだ。漆谷か?」

「柏原」

「ああ、そうだよな。お前ほどの美形が漆谷くらいの小さい町にいたら、大騒ぎになってるはずだもんな。柏原ならそこそこ大きな町だしな」

 柏原から出たことのない凍夜には、今一つピンと来ない。

「漆谷って?」

「そうか、お前はこの辺の地理のこと、全く知らねえんだな」

 凍夜がすまなそうにすると、佐平次は「最初はみんな知らねえんだ、恐縮するこたぁねえよ」と笑った。

「簡単だ。柿ノ木川沿いに町は五つしかねえ。この五つの町から出ることはほとんどねえから安心しろ」

「うん」

 とは言ったものの少々心配ではある。

「まずお城がある街が二つ。海沿いの潮崎うしおざきと一番上流の木槿山むくげやまだ。この二つにはお殿様がいらして、潮崎が船戸様、木槿山が柳澤様だ」

 潮崎なら耳にしたことがある。おこうが奉公先に紹介すると言ったのが、確か潮崎のお殿様のところだったはずだ。

「潮崎と木槿山だな」

「そう。その真ん中あたりにあるのがお前の住んでいた柏原だ。この三つが比較的大きな町だ、柏原と木槿山はほぼ同じくらいの規模だと思えばいい。潮崎はもう少し大きいんだ」

 話しながらも佐平治は手を休めない。

「で、その三つの町の間に一つずつ小さな町がある。潮崎と柏原の間にあるのが楢岡ならおかだ」

 口入屋のある町だ。おこうはそこに居る。

「柏原と木槿山の間にあるのは漆谷うるしだにだ。柏原と漆谷は舟を使った水上輸送で往来があるから、漆谷に仕事がある時は舟を使うといい。舟は漆谷の大船屋さんが出している」

「木槿山は?」

「数年前に柳澤様の次男坊の勝孝様が、大船屋さんと話をつけて水上輸送を始めたばかりだ。まだちゃんと軌道に乗ってねえんじゃねえかな。まあ舟が使えなくても、子供の脚でも朝に漆谷を出りゃ昼には木槿山には着く。大したこたぁねえ。どうだ、わかったか?」

「ええと、柿の木川沿いの町は五つ。上流から木槿山、漆谷、柏原、楢岡、潮崎。端っこの木槿山と潮崎にはお城があって、柳澤様と船戸様がいる。一番でかい町は潮崎、中くらいが柏原と木槿山、小さいのが楢岡と漆谷」

 佐平次はニヤリと笑うと「上出来だ」と褒めた。

「お前は手先も器用ならおつむの出来も上等だ。いい殺し屋になれる」

「俺、早く一人前になりてぇんだ」

 凍夜の顔をじっと見つめていた佐平治は、ふと思い立ったように言った。

「じゃあさ、お前、今度おいらが松清堂の仕事をしに行くときついて来るか? 仕事はさせてやれねえが、見学だけならいいぜ」

「ほんとか!」

「ああ。こういうのは下調べが肝要でな、松清堂のことはあれからすぐに調べたんだ。旦那とお内儀、番頭、手代、丁稚、女中が四人、うち一人は住み込み、調剤師が四人、子供が二人だ。住み込みの女中以外はみんな通いで、あの家に住んでるのは旦那とお内儀、子供二人に女中一人だ。旦那とお内儀は殺す。女中と子供たちには手は出さねえ。ただし屋敷には火をつける。女中と子供たちが逃げ切れるかどうかは、本人たちの努力次第だ」

「そんな、努力でどうにかなるもんなのか?」

「そんなときのために運がある」

「運って……」

「運ってのは作るものなんだ」

 凍夜が首を傾げると、佐平次は凍夜の胸を人差し指で突いた。

「運のない子供たちの前に見知らぬ男の子が現れて、逃げ道に誘導してくれたりとかな」

「俺、それやっていいのか?」

 佐平次はニッと笑って見せた。

「それくらいしかやらせられねえが、これでも大盤振る舞いだ。その代わり現場では他人だ。こっちに話しかけたり合図を送ったりするんじゃねえぞ」

「うん。わかった」

 佐平次のお陰で、三郎太の心配が少し和らいだ。それは初仕事への緊張感が大きく働いた証でもあった。

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