それでも夫婦になってくれますか

1 序

 その丸い石は、はるか昔よりその地にあった。


 小さな川にかかる小さな橋のたもとの、小さな柳の木の根本に、その石はぽんと置いてあった。自然に出来たのが疑わしいほど、角の取れたまんまるい石だった。


 周辺に住まう住民の誰もが、その丸い石のいわれを知らなかった。だが自然にできたとは思えないほど丸いそれは、住民たちにはとても神秘的に見えたようだ。いつの頃からか、その丸い石の周囲には花と供物がお供えされ、赤い風車が飾られて、お地蔵様のように大切にされるようになった。雨除けの小さな社が建てられ、前を通る際には頭を下げ、手を合わせてお参りをし、『お石さま』と名付け大切に扱うようになった。


 そうして人の気持ちに触れながら長い年月を経たからだろうか。石に心が芽生えた。


 心が芽生えた石は、はじめ、自分に手を合わせる人々に疑問を持った。石には意識がない頃の記憶もある。しかし、自分が人間に対して何かをしてやった記憶はない。自分はただそこにいるだけだったはず。それなのに、なぜ人々は自分に手を合わせて『ありがたや~』とつぶやくのだろう。


 自分に手を合わせる人間の中には、たまに願掛けをしていく者もいた。『おさおと夫婦になれますように』『金持ちになれますように』『あの人が戦から無事に戻って来られますように』『今年も豊作でありますように』彼らのそんなお願い事を、石は黙って聞いていた。


 願掛けをしてきた者の中には、その後のことをキチンと教えてくれる者もいた。中には残念な結果に終わってしまった者もいたようだが、中には『おさおと夫婦になれました』『お陰様で今年も豊作じゃ』とうれしい結果を教えてくれる者もいた。


 彼らは、最後に決まってこう付け加えた。


『これもお石さまのおかげじゃ。ありがとうごぜぇます』


 石は次第に自分に手を合わせてくれる人間たちのことが好きになっていった。困った時に自分を頼りにしてくれ、そして笑顔で嬉しそうにお礼を言ってくれる人間たちに、好意を持つようになっていったのである。自分に親しみを持ってくれる者に好意を抱くことは、石も例外ではなかったようだ。


 特に、今自分に手を合わせてくれている青年のことを、石はとても好きになっていた。


「お石さま! もうすぐ幸子と結婚するんだ! 神社で結婚式やったあと、帰りにここを通るんだよ!」


 そう言いながら、青年は無邪気な笑みを浮かべる。さしてよい身なりをしているわけではないこの青年、将来を誓い合った女性がおり、事あるごとに石に進展を報告をしてくれていた。中には思わず苦笑いを浮かべてしまうような失敗談もあったが、石は、そんな青年の話を聞くのが日々の楽しみになっていた。


 青年の話によると、来月には恋人である幸子と結婚するらしい。神社で結婚式をあげた後、石が鎮座する柳の木の前を通って、青年の住まいへと帰るそうだ。


「幸子、めっちゃ別嬪だからさ! お石さまも幸子を見たらあまりに綺麗すぎてびっくりするぞ! だから楽しみにしててくれな!!」


 さっきまで手を合わせていた青年はそういい、立ち上がって去っていった。その後姿は心なしか弾んで見える。幸せの瞬間まで残り一ヶ月。ゆえに青年も浮かれているのだろう。石は青年のそんな後ろ姿を、ぽかぽかと温かい心持ちで見送っていた。




 そうして三ヶ月ほど経過した、ある酷い雨の日のことである。


 結婚の報告をしてきて以来、久しく顔を出してなかった青年が、ずぶ濡れで石の元にやってきた。


「お石さま……」


 そう言って石を見下ろす青年はガックリとうなだれ、顔つきにも顔色にも生気がない。口がないはずの石が、思わず『どうかしたのか』『大丈夫か』と声をかけたくなるほど憔悴している。


「わりぃお石さま……幸子の花嫁姿、見せらんなくなっちまった……」


 自身の服が汚れるのも構わず、青年は濡れた地面に力なく座り込む。雨は一層強く降り、憔悴しきった青年の身体を容赦なく冷やしていった。


 青年の話によると、恋人の幸子が、ある日突然姿を消したそうだ。


 すでに結婚式の準備が整った青年と幸子の家は大混乱に陥った。青年の父は『新しい男でも作って逃げたのだろう』と酷い事を言って青年の心を掻きむしったりもしたのだが、それでも青年は愛する幸子を信じ、そして待ち続けた。


 そして結婚式当日の日。青年の家に、一通の封書が届いた。送り主は幸子だった。


「親父の言う通りだった……いやそれよりひでぇよ……。なぁお石さま。その手紙になんて書いてあったと思う? 『私は本当に愛した人と一緒になりました。だから私のことは忘れて下さい』ってさ。本当に愛した人ってなんだよ……俺のこと、本当は愛してなかったのかよ……」


 青年はそう言って、両目を手で覆うように隠し、くっくと喉を鳴らして悲しく笑う。小さくか細い笑い声は、次第にうめくような泣き声へと変化していった。


「うえぇえぇぇえぇ……」


 雨が一層強くなった。激しい雨音は青年の泣き声をかき消し、顔を濡らして流れる涙を激しく隠している。


 眼の前にいる打ちひしがれた青年を見ながら、石は強く思った。


 なぜ自分は石なのだろう。


 もし自分に人の手があれば、その手で彼の涙を拭うことが出来るのに。


 もし自分に人の口があれば、彼を励ますことが出来るのに。


 もし自分に人の腕があれば、彼を抱きしめることが出来るのに。


 もし自分に人の足があれば、彼とともに道を歩んでいく事ができるのに。


 もし、自分に人のぬくもりがあれば、冷え切った彼の身体を温めてあげることが出来るのに。


 なぜ、自分は石なのだろう。


 自分も、人の体が欲しい。




 うつむいて泣き崩れていた青年が顔を上げたとき、石は無くなっていた。


「……へ? あれ?」


 不審に思った青年は、顔をゴシゴシと袖て吹いて周囲を見回す。今日は雨がひどく、しかも薄暗い。しかし周囲の様子はまだ確認できる。


 しかし周囲をどれだけ探っても、あの丸い石は見当たらない。さっきまで目の前にあったはずの石がすっかりなくなってしまっている。


 青年は立ち上がり、再び周囲を見回した。今度は注意深く、そして真剣に凝視する。しかしあの石は無い。音も無く突然無くなったとは考えにくい。普通に考えればその辺に転がっているはずなのだが、まったく見当たらない。


「どうしよう……お石さまが無くなっちまった……」


 次第に青年の心に焦りが生まれ始めてきた、その時だ。


「もし?」


 誰かが背後から青年に声をかけた。青年が振り向くと、そこに女性が一人立っている。少し細い眼差しにきめ細かく白い肌。とても美しい顔つきだが、低い鼻が素朴な印象を与える不思議な女性だ。


 そんな女性が、傘を差して立っていた。けして華美ではないが上等なしつらえの服を着たその女性は、心配そうに青年を見ていた。


「ずぶ濡れではないですか」

「いや、えっと……お石さまが無いんだよ」

「? お石さま?」

「ここにあったんだ。きれいなまん丸の石がさ。……なんだ? お石さま、知らないの?」

「……そんなことより、このままではあなたが風邪を引いてしまいます。もう家にお戻りになってはどうですか?」

「んなこと言ったってお石さまが……」

「自分を探してあなたが風邪を引くことのほうが、そのお石さまも悲しむと思います。私も付き添いますから。ほら、傘の中に入ってくださいな」


 女性はそういい、青年の腕を取ってぐいと傘の下へと引き入れた。


「あんたが濡れちまう」

「いいんです。あなたが濡れなければ」


 青年は自分の濡れた身体で女性を濡らすまいと抵抗をしたが、この女性は少々強情なところがあるようだ。やがて青年は折れ、女性に腕を組まれたまま雨の中を歩いて行く。


「ところで、あんた」

「はい?」

「見ない顔だけど、名前は?」


 その道すがら、青年は女性に名前を聞いた。不思議と雨は次第に弱くなり、今では二人の会話を邪魔しないほどに雨音は小さくなっている。


「名前……ですか?」

「うん」

「えっとー……」


 不思議と女性はしばらく考えた素振りを見せた後……


「……ハナです。私はハナといいます。光一さん」


 そういって、組んでいた光一の手を自身の手でそっと包み込んだ。


「へ? なんで俺の名前知ってるの?」


 光一は再びそう問いただすが、ハナはほんのりと笑顔を浮かべるだけだ。


 光一もはじめはハナの様子を警戒していたが、ハナの温かいほほえみに、次第に心がほだされ始めた。


「……ま、いっか」

「はい」


 そうして二人は静かに降る雨の中、寄り添いながら家路を急ぐ。お石さまに幸子の話をしてきたときと比べ、光一の足取りは軽く、そして暖かくなっていた。




 その日から数カ月後、光一とハナは、結婚の約束を交わすほどに仲睦まじくなっていた。



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