ただ、あなたを愛しただけで

1 序

 その者は、いつから自分がそこに存在していたのか分からなかった。


 あるのは、自分が人ではない別の生き物であるという自覚と、人は自分にとっての食料であるという本能、そして、人に擬態して人の社会に潜伏して生きるという生態への理解だった。その者は社会の闇に紛れ、己の生態に従って人に擬態し、本能に従って人を喰い続けていた。


 しかし人間社会というものは、とてもよく出来ていた。その者が人を食えば、それは殺人事件として社会に広まり、次の犠牲者を出さぬようにと社会全体が事件を警戒する。その者が人を食えば食っただけ、得体のしれない殺人者への警戒度は高まり、人が喰いづらくなっていく。


 そうしていつしかその者は、日々の食事の確保に困るようになっていった。


 その者は考える。このまま社会の警戒が高まっていけば、やがて自分は食事にありつけなくなって自分は死んでしまう。このままではまずい。何か対策を考えなくては、自分に訪れるのは死だけだ。


 そうして悩み抜いたその者は、時を遡って古い昔の時代に移り住むことにした。一度時代を遡ってしまえば、元の時代に戻ることは難しい。それでもその者は、生きるために時を遡った。


 慣れない旅の果てにたどり着いたのは、元々いた時代から数百年遡った時代。思ったより時を遡ることは出来なかったが、それでも元いた時代に比べて人の命の扱いが軽い。ゆえに食事にありつくのはまだ易しいといえた。決して欲張らず、少しずつ食事を摂ってさえいれば、犠牲者は他の殺人事件に紛れて目立つことはなかった。


 そうして時を遡りたどり着いた時代で生活をはじめて数ヶ月経った、ある日のことだった。その者は、一人の人間と出会った。


「こんにちは。なんだか突然降ってきましたねぇ」


 その日は昼過ぎに突然激しい雨が降ってきた。ちょうど人間に擬態していたその者は、服が濡れるのを嫌い建物の軒下で雨宿りをしていた。そこに『ひゃぁぁああ』と可愛らしい悲鳴を上げながら走り込んでくる一人の女性がいたのだ。


 その女性は、穏やかだが明るい声でその者に声をかけた後、優しい微笑みを浮かべた。


 その瞬間、その者の身体を心地よい鼓動が駆け抜けていった。


「は、はぁ……」


 何か返事をしたいが、たどたどしくそう答えるのが精一杯だ。熱病にでも侵されたかのように身体が熱い。今の天気が雨でよかった。油断すると汗が出る。それほど緊張し、身体がこわばっている。


「いつ頃止むんですかねぇ」


 女性は優しい微笑みを浮かべたまま、空を見上げてつぶやいていた。雨は女性の身体に激しく降り注いでいたようだ。女性の濡れた髪の先から雫が垂れ、それが頬を伝ってポタポタと地面に落ちている。


 その者も女性につられて空を見た。空は分厚い雲で覆われていたが、そこにうっすらと割れ目ができていることに気がついた。


「あ、あの……」

「はい?」


 雫が垂れる彼女の頬が妙に視線を誘う。妙に緊張する。喉が震えて言葉を発することも難しい。落ち着けと必死に自分に言い聞かせる。ゆっくり、一言一言を確実に……


「そのうち、止むと思います……」

「そうですか? でも雲分厚いですよ?」


 その者は震える右手を空に向けた。女性の視線が、指先のその先へと向けられる。指先にじんわりと彼女の視線を感じる。それはけっして不快ではないが、緊張で力が入らない。


「見て、ください。あそこに雲の割れ目があります」

「……あら。ホントですね」

「多分しばらくすれば、あそこから雲は割れます。そうすれば雨はきっと止むと思います」

「そんなにうまくいきますか?」


 女性の追求にその者が答えようと必死に口を感じるように動かした、その時だ。その者が指差した先のその割れ目が開き、その隙間から太陽の光が差し込んだ。それはさながら輝くレースのカーテンのようにも見えた。


「あ!」


 女性の微笑みが満面の笑みへと変わり、輝きを増した。太陽の光を反射してキラキラと輝く女性のその目が、その者には、宝石よりも美しい何か尊い宝物のようにも感じられた。


 やがてその者が言ったとおりに雨が止み、二人に太陽の光が降り注いだ。


「ホントだ! すごいですね!」

「いや、そんな……」

「お天気を読むことが出来るなんてスゴいじゃないですか!」

「見てれば分かることですから……」


 何よりも輝いて見える女性の笑顔が、自分へと向けられる……かつてないほど緊張し、胸が痛いほどバクバクと鼓動する。でも不思議とそれが不快ではない。


 だがその者は知っている。心地よい時間が過ぎ去るのは、何よりも早い。


 その者を笑顔で見つめていた女性は、やがてその笑顔のまま前を向いた。キラキラと輝く眼差しが、その者から離れた。


「さて。私はそろそろ行きますね。止んでる今のうちに家に戻らないと」

「そ、そう……ですか……」

「またどこかで会いましょう。同じ街に住んでいれば、どこかでまた会えますから」


 やがて、降り注ぐ心地よい陽の光の中、女性はその者に一礼をして走り去っていった。その場に彼女がいたのだという、心地よい残り香とぬくもりを残して。


 走り去る女性の後ろ姿を、その者は朗らかな気持ちで見送った。


「……」


 さっきまでのキラキラとした眼差しと笑顔が、その者の記憶から消えない。刻み込まれた笑顔は、その者の心に温もりと同時に寂しさも植え付けたようだ。その者は緊張から解き放たれ安堵したが、同時に『寂しい』『また会いたい』と再びの逢瀬を乞うていた。




 その時はまだ、その者は自分が恋に落ちたということに気付いてなかった。いや気付いたが気付かないフリをしていたのかもしれない。気付きたくなかったのだ。


 なぜなら、その者にとってその女性は、食べ物なのだから。


 その者は、食べ物に恋をしてしまったのだった。

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