2 成長を褒める母親
高鶴千代子が警察署に付きまといの相談を持ちかけてきたのは、ちょうど栄田が遅刻して出勤してきた昼前のことだった。
「いやしかし……」
「本当なんです! 信じて下さい!」
栄田が正面玄関から建物に入ったとき、薄い水色の着物を着た髪の長い女が、受付の中年男性と押し問答をしていた。無視してもよかったが、『遅刻をしてしまった』という後ろめたさが心の中でくすぶっている栄田は、ついその水色の着物の女――後に高鶴千代子と名乗った――に声をかけた。
「どうかしましたか?」
受付と千代子の間に割って入る栄田。すぐさま受付の男が栄田に事情を説明しようとするが、それを遮って千代子は栄田に必死にすがりついた。
「あの、刑事さんなんですか?」
「ええ。この署の者です。栄田といいます」
「助けて下さい! 変な人に付きまとわれているんです!」
「? 付きまとわれてる?」
「はい!」
千代子は栄田にすがりつくように訴えていた。栄田に比べて背が低い千代子が、距離をつめて栄田に上目遣いで助けを乞う姿からも、本人の必死さが伝わってくる。
栄田は千代子の話を聞くことにした。受付の男性には『自分が預かる』と伝え、千代子を署内の会議室へと案内する。自分の席がある課に案内してもよかったが、隔離された部屋のほうが話もしやすいだろうという栄田の配慮だった。
千代子を会議室へと案内する。会議室は中心に長いテーブルが置かれ、それを囲うように十脚ほどの椅子が並べられている。机の上には吸い殻が山のように積まれた灰皿が3つほどあり、その会議室がまったく掃除されていないことを物語っていた。
「高鶴さん、あなたタバコは?」
「私は吸いません」
「では匂いが気になったら申し訳ない。俺はちょっと茶を淹れて来ます」
「ありがとうございます」
千代子はそういい、頭を下げた後に椅子に座った。椅子から栄田を見上げるその顔が、不意にクスッとほころんだ。
「どうかしましたか?」
「ああ。タバコの匂いのことを気にかけてくださる方は初めてでしたから。お優しいんですね」
「いえ。相棒というか仲間というか、そいつの影響です」
「きっとお優しい方なんですね。その方も」
そういって、おかしそうに千代子はクスクスと笑う。本人の潤んだ眼差しも相まって、その様子が妙に栄田には艷やかに見えた。気を取り直し、栄田は一礼して部屋を出た。
会議室から出た栄田はその足で給湯室に向かい、やかんを火にかけて湯呑をふたつと急須を準備した。普段はあまりこういうことをやらない栄田だが、テキパキとこなすその様子には、やり慣れない不器用さはない。
「のう栄田」
コンロにかけたお湯が湧くのを待っていたときだった。いつもの興味なさげな様子で沙雪が話しかけ、姿をぼうっと表した。栄田が壁にもたれているからなのか、今日は栄田の肩越しではなく正面に浮かんでいる。沙雪の背の高さは栄田に比べてかなり低いが、目線は同じ高さになっていた。
「……なんだよ」
「まさかあのようなおなごが好みとは思わなんだぞ」
「?」
突然の意味がわからない質問に、頭に疑問符が浮かぶ。沙雪がそんなことを言い出した真意を考えるが、正解がまったく思いつかない。
「どういう意味だ。さっぱりわかんねぇ」
あまりに意味がわからず、吐き捨てるように沙雪にそう言った。正直なところ『こんなことをいちいち考えるのもめんどくさい』という怠惰な気持ちがむくむくと頭をもたげたという事情もある。
栄田にそう聞き返されても、沙雪の赤い眼差しはまったく動揺しない。
「以前のことを思い出してみよ」
「あン?」
「私がどれだけ『タバコが臭い』と言うても、栄田はタバコを飲むのを止めなかったではないか」
「吸ってたからな」
「それが、あのおなごに対してはどうだ。タバコの臭いに言及し、あまつさえ謝罪までしておる」
「あの人は吸ってないからな」
「私とあのおなごとの扱いの差はなんだ? あのおなごが好みだからであろう?」
なんだか嫉妬にかられた言い方にも聞こえるが、沙雪の表情からは特に嫉妬は感じられない。
そもそも沙雪からは栄田を異性として見ているような素振りは感じない。しいていえば、飼育している小動物に向けるそれしか、感じたことはない。
しかし沙雪の指摘に関しては、言われてみればと栄田自身も疑問に思うが……ハッキリと言えるのは、気を使ったのは別に千代子が魅力的な女性に見えるからではない、ということだ。ゆえに栄田は、沙雪のこの指摘には違和感を感じた。
実際、すでにタバコを止めた栄田の鼻は、会議室に染み込んだタバコの匂いを敏感に感じるほどに鋭敏さが戻りつつあった。
会議ともなれば出席者全員が間を開けずにタバコを吸い、そのおかげで会議室には終始煙が充満している。そのような環境だから、部屋そのものにタバコの匂いが染み込んでしまっている。最近の栄田はその匂いを感じることが出来るようになっていた。だから栄田は千代子に気を使ったのだ。
さらに加えて、栄田が千代子を気遣ったのには、もう一つ理由がある。
「気を使うようになったのはお前のせいだよ」
「? 私か?」
「ああ」
キョトンとした顔で沙雪は栄田の顔を見た。付き合い始めてだいぶ時が経つが、沙雪が呆気にとられた顔を栄田に見せるのは、極めて珍しい。しかし構わず続ける。
「お前、俺に『タバコくせぇ』ていつも言ってたろ」
「実際に臭かったからな」
「だからだよ。俺もタバコやめたらあの匂いをよく感じるようになった。臭いとは思わないが、あれを耐え難い悪臭だと思うやつがいるのも分かる」
「ほう」
「だからだよ。俺がタバコをやめたのはお前のせいだ。だったら、今日あの人に気を使ったのも、元を辿ればお前のせいだよ」
そこまで言うと、栄田は腕組みをし、湯を沸かすやかんに目を向ける。注ぎ口から湯気が立っているその様が、あと少しで湯が湧くことを栄田に伝えている。
不意に頭を撫でられる感触があった。沙雪が栄田の頭に手を置き、静かに優しく撫でていた。
「よう言うた栄田。やっとおのこから男子へと成長したようだな」
「ガキ扱いすんじゃねぇ。大体、見た目で言えばテメーの方がガキじゃねーか」
「私から見れば栄田なぞただのワラシよ。しかしそのワラシがおなごをいたわれるようになった。これを成長と呼ばずして何と呼ぶ」
「うるせー」
「えらいぞ栄田? よう言うた。褒めてつかわす」
「黙れ」
軽口を叩きながら沙雪を見る。沙雪は珍しくほんのりと微笑んでいる。その様子を栄田は睨みつけるが、沙雪の手を払いのけようとはしなかった。
子供扱いが気に入らず、沙雪の手を払い除けたい気持ちはある。だが、栄田は沙雪の手を払うことがどうしても出来なかった。沙雪の手と微笑みに、心地よさとともに郷愁に似た気持ちを抱いたから。
栄田の頭を撫でることをやめない沙雪を見ながら、栄田はチラとやかんを伺った。いつもならそろそろ湧いてもおかしくないはずのやかんの湯は、今日に限って未だ栄田をじりじりと焦らし続けている。
そして、その間も沙雪は栄田の頭を静かに優しく撫で続けていた。それは湯が湧くまで続いた。
茶の準備が終わり、栄田は千代子の待つ会議室へと戻ってきた。
「お待たせしました」
「はい。ありがとうございます」
扉を開くなり、千代子の笑顔が栄田を迎え入れる。さっきまで玄関でひと悶着を起こしていた人物だとは思えないぐらいに可憐な笑顔に栄田の目には写った。
椅子に座り、千代子に茶をすすめる。千代子は両手で上品に湯呑を持ち、静かに飲んでいた。どことなく所作には気品を感じる。沙雪にも通じる気品さだが、もう一歩、沙雪には及ばないような気がした。
「……で、千代子さん。話を聞かせてくれますか」
ひとしきり茶を堪能させたところで、栄田が話を切り出す。茶の温かみで緊張が少しほぐれたのか……はたまた他に何か理由があるのかは分からない。だが落ち着いた千代子は、ホゥとため息をついたのち、頬を少しだけ紅潮させながら口を開いた。
「はい。最近、誰かにつきまとわれてる気がしていまして……」
「つきまとわれてる?」
「はい。なんとなく視線を感じるというか……」
そうして栄田は、千代子から詳しい話を聞いた。
千代子いわく、数日前からどうにも人に見られている気がしてならないそうだ。容疑者の姿を直接見たわけでもなければ、心当たりがあるわけでもない。だが街を歩けば誰かの視線が向けられる違和感を覚え、背後には自分の後をついてくる者の雰囲気を感じ、人混みに分け入れば誰かの吐息を耳元に感じてしまう……とのことだ。
「直接会うとかはしたんですか? 遠くから見られてるところを目撃したとか」
「いえ」
「そいつに心当たりがあったりとかは」
「ありません」
「知らないヤツから郵便が届いたり、待ち伏せされていたなんてことは」
「ありません……」
「……」
「すみません……でも本当なんです!」
その後も色々と犯人と思しき存在を確認していく栄田だが、千代子は漠然としたことを語るばかりである。決定的なものを見たり、あるいは誰かと接触したりといったことは無いらしい。
「信じてください! 私、もう怖くて……!」
こちらに恐怖を必死に伝えてくる千代子の言葉を聞き流し、栄田は茶をすすってしばらく思案した。
この手の相談は警察にしばしば持ち込まれる。ゆえに栄田が捜査を行なったり相談者の護衛を行ったりすることも幾度かあった。時には実際に犯人が逮捕出来る場合もあったが、大半が本人の気のせいの場合が多かった。今回のように証言が曖昧な場合は特にそうだ。
今回のケースも同様に、おそらく本人の気のせいだと栄田は踏んでいる。特に千代子は、栄田から見ても魅力的な女性だ。長く美しい黒髪を後ろで束ねることで顕になっている彼女の白い首筋や、紅潮した頬、うるませた瞳……不謹慎だが、それらすべてが彼女を魅力的に見せている。そんな人物が自分の魅力を自覚していたとすれば、このような不安にかられてもおかしくはない。
「……高鶴さん。とりあえず今日のところはお帰りください。あとで署の皆と話し合って、この件をどうするか決めます」
「でも!」
「その代わり、帰りは俺が送ります。そうすれば、仮に誰かに襲われても安心でしょう」
栄田がそういうなり、千代子の顔がパアっと明るくなった。千代子の両手が栄田の左手に勢いよく伸び、そして包み込むように握る。千代子の手は、栄田の筋張ったそれに比べ柔らかく、温かい。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「ん……家に付いたら、周囲をとりあえず見回りしてみます」
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!!」
栄田が言葉を発する度、千代子の手の力は増した。それだけ栄田の提案がうれしかったのか。
千代子に会議室で再度待つように伝え、栄田はパトカーの鍵を取りに再び事務所に戻った。パトカーの鍵は入り口そばの壁に打ち付けられた釘にまとめてかけてあるはずだが……
「マジか……」
パトカーはすべて出払っているようだ。鍵は一つも残っておらず、釘だけが虚しく整列していた。栄田は心の中で舌打ちし、先程聞いた千代子の家の住所を思い出しながら事務所を出る。住所は署から大して離れていない。とはいえ歩くには少し難儀な距離だ。
不意に、沙雪の言葉が頭をよぎった。
――やっとおのこから男子へと成長したようだな
「うるせぇバカヤロウ」
これは刑事としての職務の一つで、けっして千代子を気遣っているわけではない。自分にそう言い聞かせ、栄田は沙雪の言葉を頭から必死に振り払っていた。
窓から見える外の様子を眺めた。空はすでに赤く染まり、日没が近いことを告げていた。その時、栄田は自分が遅刻していたことを思い出した。
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