3 自己紹介とプレゼント
赤く焼けた陽が沈みかけ、お互いの顔が分からないぐらいに薄暗くなった中、栄田は千代子と共に田んぼのあぜ道を歩いていた。
「もうしばらく行けば、住宅街に出ます。そうすれば、家はすぐです」
「分かりました」
「ところで、刑事さんはどちらにお住まいなんですか?」
「署から少し離れたところです。ちょうどこちらとは真反対になりますね」
「では遠回りさせてしまいましたね。すみません」
「いえ、戻ったらまた仕事ですから。それに、これも仕事ですから」
「ありがとうございます」
そんな他愛無い会話をする二人。最初は千代子の少し前を歩いていた栄田だが、会話が続くに連れて、次第に歩幅を狭めていた。ほどなくして、二人は横に並んで互いの顔を見ながら会話を進めていた。
しかし警戒は緩めない。周囲や物陰に不審に人物がいないか注意を払う。今は田んぼのあぜ道を歩いているため、周囲の見晴らしは良く注意を払いやすい。だが千代子の話によると、もうすぐ住宅街に入る。そうすれば死角が多くなり、栄田の警戒が及ばない箇所が増える。もっと注意を払わなければ……
「くすっ……」
不意に千代子が上品に笑う息遣いが聞こえた。千代子を見ると、栄田に微笑みかけているように見える。
「どうかしましたか?」
「いえ。とても難しい顔というか険しい顔というか、とにかくそういった顔をされていたものですから」
「ああ失礼。周囲を見ているとどうしてもこんな顔になってしまうもので」
「ありがとうございます。笑ってしまって失礼でしたね。すみません」
「いえ」
自分でも気付かないうちに険しい顔をしていたようだ。いるかどうかも怪しい不審人物への威嚇になるとはいえ、あまり露骨な警戒は控えなければ……意図して眉間のシワを栄田は伸ばした。
ある程度眉間のシワを取ったところで、改めて千代子をジッと見た。多少不安そうな素振りは見せているが、それでも薄暗い夕焼けの陽の中に浮かぶ彼女の顔は美しい。
「? どうしました?」
千代子が栄田の視線に気付き、微笑みかける。誰かに襲われるかもしれないこの状況で、よくこちらのことを気遣う余裕があるものだ、と栄田は関心した。
「……いえ」
「おかしな方ですねぇ」
顔をふいっとそらし、栄田は改めて周囲の警戒を行う。千代子が不思議そうな顔でこちらを見ていることは気付いているが、それはあえて無視した。
やはり、千代子は自身の気付かないうちに男を寄せ付ける雰囲気を持っていると栄田は確信した。ならば、つきまとうような男が出てきたとしてもおかしくはない。栄田の警戒度が増した。
ほどなくして田んぼのあぜ道を抜けて住宅街に入った。その頃には陽は完全に落ち、街灯以外に光源のない夜のような暗闇に二人は包まれた。
「真っ暗になりましたね」
「ですね……私の家はもうすぐです」
千代子が少し足早になり、栄田もそれに合わせて歩幅を広げる。
周囲を住宅の塀に囲まれた住宅街の道は死角が多い。街灯はあるが、それだけでは物陰を視認するには光量が足りない。無意識のうちに栄田の神経が研ぎ澄まされ、周囲のいたる死角を素早く目で追う。物陰から不審人物が飛び出してきたら、それには素早く対処しなければならない。栄田の全身がいつでも非常時の身動きが取れるよう、万全の態勢を取り始める。
千代子の様子を伺った。暗闇に浮かぶ千代子の顔には、不安の色が強く浮かび始めている。
栄田の耳が、前方の街灯そばに人間の存在を感じ取った。
「止まって」
「はい?」
栄田は右手を上げ、千代子を制止した。千代子も足を止める。二人で街灯を見た。街灯に照らされた女性の足が見える。それがザッザと音を立て、一歩、また一歩と二人に近づいてきた。
「こんばんは!」
栄田は声をかけた。これは挨拶ではない。『お前を捕捉している』という栄田からの警告である。
それに感づいたのか、女性は街灯の明かりの下で足を止めた。三十代ぐらいの女性だ。『国防色』とも呼ばれる薄茶色のもんぺに、頭には分厚い濃い赤色の頭巾をかぶっている。まるで戦時中のような姿だ。顔は頭巾の影に隠れて口元しか見えない。
もんぺの女性は立ち止まったまま、口をつぐんでいる。
「こんな時間にどちらへ向かってらっしゃるんですか!?」
もう一度、栄田は声をかけた。言葉そのものはありふれているが、声には勢いと覇気がこもっている。先程よりも警告の意味合いが強くなった声かけだ。
女性は動かない。微動だにせず、二人の前にたたずんでいる。栄田はそっと千代子に耳打ちした。
「知り合いの方ですか?」
「いえ……暗くて分かり辛いですけど、知らない方だと思います……」
千代子が震える小声でそう答えた。栄田の右手が、静かに胸元の拳銃へと添えられる。まだ抜かないが、即座に抜き、撃てるように。
「こ、こんばんは!」
千代子も震える声で挨拶をした。聞く者に、千代子の緊張が伝わるほど声が震えている。
千代子の声を聞いたもんぺの女性は、その途端、広角を引きつらせた。
「こ、こ、こんばんは」
そして口を開く。口の動きがおかしいのか、はたまた発声の仕方がおかしいのか、なんともいえない違和感のある声だ。聞く人によっては『緊張している声』とも思うだろう。
「高鶴、千代子さんですか?」
「そ、そうです!」
「お久しぶり、です……こうして言葉を交わすのは、ひ、久々、ですね……」
「へ?」
知り合いか? 栄田は千代子に目配せをするが、千代子はそんな栄田に対し、無言で首を振るだけだ。どうやらまったく思い当たるフシはないようだ。
「すみません! 暗くて顔がよく見えないんです! どちら様ですか?」
続けて千代子は声をかけた。先程よりもさらに声に緊張が乗っている。少し上ずってすらいる。すでに非日常の恐怖に飲まれかけているようだ。
もんぺの女性もまた、態度を変えず千代子の言葉に答えた。
「い、いやすみません……覚えてらっしゃらない……いや、分からないと思います……でも、ぼくたちは一度、会ってるんですよ……」
「へ……?」
「あの、先日の雨の日……一緒に、雨宿りを、しました……」
「……へ? でもあれ、男の人……」
千代子の顔に困惑が広がり始めた。栄田は懐から拳銃を静かに抜く。暗がりで装填されている弾丸は見えないが、ここ数日間、発砲はしていない。6発すべて装填されているはずである。栄田の記憶がそう告げている。
もんぺの女性が足を一歩前に出した。ザッという足音が聞こえたその瞬間、栄田は拳銃を女性に向けた。
「動くな。そこで話せ」
そして静かに言葉で女性を制止する。声は静かだが警告度は増している。
もんぺの女性は、右手を栄田に向け、小さくカクカクと振った。
「すみません! 何もするつもりはないんです!」
「んじゃ何だ。これ以上は近づくな。話したいことがあればそこで話せ」
「ぼくは、ただ、千代子さんと仲良くなりたくて、プレゼントを……」
『プレゼント』……少し考え、それが贈り物の意味であることを栄田は思い出した。言葉としては知っていたが、実際にプレゼントという言葉を使う人間とは初めて出会う。
栄田の警戒度が上がり続ける。拳銃を握る手に力が入った。握りに刻まれた滑り止めの突起が、栄田の手の平に食い込み、痛みが走る。
「千代子さんに贈り物があるのか」
「はい」
「出せ。俺たちに見せろ。受け取るかはそれから決める」
「分かりました……」
千代子が栄田の服の裾をつかんだ。手が恐怖でカタカタと震えている。
栄田は拳銃を向けたままだ。もんぺの女性への警戒を解かない。栄田と千代子。二人の視線が、もんぺの女性にジッと集まり、そして凝視し続けた。
もんぺの女性が、被っていた防災頭巾を脱ぎ、それを足元に落とした。地面に落ちるなり、ドチャリと湿った音が鳴る。
真っ赤な頭巾は、真っ赤な色のそれではなかった。血をたっぷりと含んでいるが故に、真っ赤に染まっていたのだ。
そして、頭巾を取った女性の顔を見て、栄田は絶句し、千代子は声にならないかすかな悲鳴を上げた。
「ヒッ……!?」
頭巾を取り、二人にぎこちない笑顔を浮かべるもんぺの女性……彼女の頭は頭皮がごっそりと無くなっており、脳が剥き出しになっていた。
「てめッ!!!」
一瞬、栄田の意識はその異様な光景に飲まれたが、すぐに我を取り戻す。指を引き金にかけ、いつでも射撃ができる態勢を整えた。照準も女性に合わせている。ゆえに引き金をひけば、弾丸は女性に命中するが……
「雑誌で、読んだことが、あります……」
「何をだ!!!」
「仲良くなる第一歩……自分がもらって嬉しいものを……」
女性が両手で剥き出しの脳を抱え、そのまま上に持ち上げる。脳が頭から持ち上がる。女性の頭に収まっていたそれが、ぐちゃぐちゃという不快な音色と血飛沫、そして千代子の悲鳴と共に頭から引きずり出されていく。
「プレゼント……すれ、ば」
「……ッ!!!」
「仲良ク……ナレ、ル……ッテ……!!」
女性の目がグルリと上を向いた。同時に全身が痙攣を起こすが、女性はまだ倒れない。脳があった場所からは、血が吹き出している。小刻みに震える両目からも涙のように血が流れ始めている。それでも女性は倒れない。まるで下手な腹話術人形のようにカクカクと歪な動きをしているが、まったく倒れる気配がない。
ついに脳は頭から引きちぎられた。女性はカクカクと動きながらそれを大事そうに両手で抱え、そしてたどたどしい足取りで、二人に一歩、また一歩と近づいてくる。
「ドウゾ、チヨコ、サン……」
「い、イヤ……!!」
「ボクカラ、ノ……プ、プレ、プレプレプレゼゼゼゼ」
女性が一歩進む度、足元の血溜まりがビシャ、ビシャと音を立てる。涙のように血を流しながら、それでも笑顔で歩いてくる女性の異様な姿は、超常現象に慣れているはずの栄田にすら嫌悪感と恐怖を抱かせた。
「イヤァァァアアアアアア!!!」
「……ッ!!!」
しかしそのときに千代子が悲鳴を上げ、それが栄田に正気を取り戻させた。我に返った栄田は、拳銃の照準を女性の身体の中心……みぞおちに合わせ、そして引き金を引く。パンと乾いた音を立て、拳銃は女性の身体に撃ち込まれた。
「!?」
だが女性の身体に命中した弾丸は、怨霊調伏の効果をまったく発揮しなかった。鉛の塊が女性の身体に傷を残しただけだった。
「外した……?」
栄田はもう一度引き金を引いた。再びパンと乾いた音がなり、女性の身体に鉛がめり込む。だがそれだけだ。命中部分が破裂することもなければ、身体を根こそぎ削り切ることもない。
「バケモンのはずだ……ッ!!」
三度、栄田は引き金を引いた。しかし結果は変わらず、軽い破裂音と共に女性の身体に三発目の銃創を刻み込むだけだった。
やがて、脳を手にした女性の身体はグラグラとバランスを崩し、奇妙なポーズで崩れ落ちた。バシャリと音を立てて手にした自分の脳を下敷きに倒れる様は、人間とは思えない異様さだ。糸が切れた操り人形のようにも見える。
その光景を引きつった眼差しで凝視していた千代子が、立ったまま気を失った。膝からグラリと崩れ落ち、栄田に無防備に倒れ込んでくる。
「ッ……」
「千代子さん!」
慌てて千代子の身体を支える栄田。こういった事件に慣れている栄田ですら、先程の光景は嫌悪感と恐怖を禁じ得なかった。そんな光景を普通の人間の千代子が目の当たりにしたのだ。この反応は当たり前だと言える。
つまりあの光景は異様ではあったが、栄田にとっては問題ではない。
問題は、怨霊調伏の加護が乗った弾丸が、女性にはまったく通用しなかったということだ。
梵字の効力が発生しない。つまり、女性は化け物ではない。人間なのである。
しかし、ただの人間には、自分の脳を頭から取り出し、それを持ったまま歩くなどということは出来ない。
栄田の頭に疑問符が浮かぶ。怨霊調伏の加護が通用しない化け物がいるというのか……
血溜まりの中の女性の身体が、粒状になって宙を待った。それらは栄田の背後へと吸い込まれるように移動していく。栄田は背後を見ることなく口を開いた
「沙雪か」
「ああ」
「食ったのか」
「毒にも薬にもならぬ味だ。ただの糧よな。それ以上でもそれ以下でもない」
背後を振り返る。いつものように沙雪が宙に浮かんでいた。ふわふわと漂うその姿からは給湯室の時のような朗らかさはなく、いつもの虚無を含んだ無表情があった。
「で、どうだ。こいつはバケモンなのか」
「……」
「俺の弾丸が通用しなかったんだぞ。どうなんだ」
栄田を蝕む緊張が、その目を必要以上に険しくさせる。その目で沙雪を見つめ、返事を待った。
もごもごと何かを咀嚼し、やがてそれを飲み込んで、沙雪は小さく口を開いた。
「まごうことなき人間だ」
「自分の脳みそを取り外してそれ持ったまま歩いたんだぞ?」
「そこは私も不思議に思う。だがこの女が人間であることは確実だ。人と化け物の味は違う。私は間違えぬ」
沙雪の言葉を聞きながら、栄田は千代子の顔を見る。栄田の胸の中で気を失っている千代子の顔は、血色が無くなり、唇も土気色へと変わり果てている。気を失っているはずなのに小刻みに身体が震えているように感じる。
不運なことに、この美女は化け物の類に見初められてしまったようだ。
彼女の『何者かに付きまとわれている』という訴えは、間違えてはいなかった。勘違いではなく、本当に付きまとわれていたのだ。
彼女が間違えていたことがあったとすれば、それはたった1つ。相手は人間ではなく、栄田と沙雪すら未知の化け物であるというところだった。
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