4 身体は大丈夫ですか

 栄田たちが未知の化け物の襲撃を受けたその翌日、栄田と沙雪は病院にいた。


「ここが病院と申すところか」

「ああ。怪我や病気を治すところだ」

「どれぐらいで病を治してくれるのだ」

「病気の種類にもよるが、短かければ数日で治してくれるな」

「昔は一度病にかかってしまえば命はなかった。それに比べれば良き時代となったものだな」

「ああ」


 栄田と沙雪は、二人で廊下の長椅子に座っている。二人が腰掛ける長椅子のそばには、閉じられた病室へのドア。表札には丁寧な字で『高鶴千代子様』と書かれていた。


 沙雪と話す最中、栄田はチラチラとドアの方に目を向けていた。


「高鶴さん、大丈夫だろうか」


 フと、栄田の口から弱音が溢れる。沙雪はそれを聞くなり、小さなため息をついた。


「案ずるなとは言わぬ。だが今のお前の仕事は案ずることではあるまい」

「わかってんよ」


 舌打ちし、栄田は改めてわざとらしく廊下を見回した。自分たち以外に人はいない。他の病室の扉も閉まっている。本当に自分と沙雪だけがこの廊下で佇んでいた。




 昨晩、正体不明の化け物からの襲撃を受けた後、栄田は千代子を病院へと運び込んだ。診断結果は『命に別状は無いものの精神が不安定。暫くの間、様子見で入院』とのことだった。


 診断結果を聞いてひと安心した栄田は、状況の報告のため、病院の電話で署に連絡を取った。


「……というわけで、高鶴千代子は実際に付きまといの被害に遭っていました」

『んでお前は襲撃を止められず、高鶴千代子は被害を被って入院したって顛末か。何やってんだ栄田ァ!!』


 受話器の向こうから聞こえる課長の怒声が、栄田の耳に衝撃を与えてくる。『んじゃ俺以外に誰が対処できたよ』と、毒づきそうになるのを栄田は必死にこらえた。


「申し訳ありません。俺はこのまま高鶴千代子の警護に付きます。入院中だと知れたら、また犯人が襲いかかってくるかもしれない」

「うるせえ! 別に警官二人をそっちによこすから、お前はこっちに戻ってくるんだよ!!」


 栄田はどうしてもそれは飲めなかった。失敗を挽回したいという気持ちももちろんあるが、それ以上に、今回のケースは栄田以外の警官では対処できないという現実的な理由もある。


「……いえ、俺がこのまま警護に付きます」

「おい栄田!!! おい!!! 返事……」


 課長の怒声が終わらないうちに、栄田は受話器を乱暴に置いた。ガシャンという受話器の音が、病院の廊下に必要以上に大きく鳴り響き、深夜勤務を行っている看護師たちが『何事?』と目を向けた。




 こうして栄田は、一晩中、千代子の病室の警備をしている。


 この病院は患者の数が少ないのか、看護師や医師を含む人の往来がとても少ない。しかし栄田は気を抜かなかった。トイレの入り口、踊り場、階段……目に入るあらゆる死角に目をこらし、化け物の襲撃に備えた。


 不思議と腹は減らず、喉も渇かなかった。見かねた看護師の一人が栄田にアンパンと牛乳を差し入れたが、それを口に入れるときも、栄田は周囲への警戒を解かなかった。足音が聞こえれば耳をそばだて、音はせずとも何かしらの気配を感じれば素早く懐の拳銃へと手を伸ばした。


 一度、男の医者が往診に来た。四十代の医者で、人の良さそうな柔らかい表情をしている男だ。ドアのそばの長椅子に腰掛ける栄田を見るなり、医師は笑顔で話しかけてきた。


「ああ刑事さん、お疲れ様です」

「先生、お世話をかけます」

「いえいえお気になさらず」


 そう答え、医者はドアを開いて中に入る。


「高鶴さん、体調はどうですか」


 その千代子への言葉とともに、ドアはすぐに閉じられた。ドアが開いて閉じるその短い時間、栄田からも千代子の様子が見えた。千代子はベッドの上で眠っていた。医者が入ってもまったく動かなかった。今は静かに眠っているようだ。栄田はほっと胸をなでおろした。


 しばらくしてドアが開き、医者が出てきた。栄田は立ち上がり、医者の前に立ちふさがる。


「先生。千代子さん、どうでしたか?」

「今は静かに眠ってらっしゃいますね。落ち着いてます。体調も悪くないようだ」

「……」

「とはいえ、起きたら取り乱すかも知れませんが……とにかく、高鶴さんが目を覚ましたら呼んで下さい」

「はい」

「あと、刑事さんもしっかり休んでくださいよ?」

「いえ……俺は……」

「『病院で倒れた』なんて、うちの評判にも繋がりますから。根を詰めるのもいいですが、ちゃんと休んでください」


 困惑する栄田の肩を、医者の男はポンと叩いた。肩にずっしりと重い医者の手からは、栄田を本気で心配している様が見て取れた。


 その後、医者はスリッパの音をパタパタと鳴らし、栄田をその場に残して去っていく。栄田は動かない。静かな病院の廊下に、スリッパの音だけが鳴り響いた。窓の外を見ると、すでに日が陰っていた。




「お医者様の言うとおりですよ宗介」


 いつの間にか隣で佇んでいた沙雪がそう口を開いた。


「そうも言ってられないだろ。俺のせいで千代子さんは……」


 栄田はそう答え、沙雪に顔を向ける。いつもと異なる、栄田を憂う眼差しの沙雪がそこにいた。


「……」


 見慣れない沙雪の顔である。どこか懐かしい面影の沙雪が、いつになく真剣な面持ちで栄田をジッと見つめている。赤い異形の眼差しに、栄田は不思議な安らぎを感じた。


「千代子さんが入院してからというもの、あなたは一睡もしてないではないですか。このままでは体に障ります」

「しかしなぁ母さん……」


 自分が沙雪のことを『母さん』と呼んだ違和感は、栄田には無い。栄田は、まったく何の疑いもなく、沙雪を母と呼び、そして母だと思っていた。


 真っ白い服を着た母は、その真っ赤な眼差しで栄田をジッと見つめ、そして諫めるように口を開いた。


「それこそ、もし宗介が倒れでもしたら、千代子さんは誰が守るというのですか」

「でも……」

「そうなったらこの母も、宗介以外の一体誰に取り憑けば良いのやら……」

「……」

「他の人間など、食べ物以外の何者でもないのですよ?」


 己を大事に思ってくれる母の優しさが栄田の胸を打つ。久々に口にする『母さん』という言葉の響きに己の胸が締め付けられるような郷愁を感じる。幼少の頃に亡くして以来、久しく感じることのなかった母親の愛。それを前にして、『母さん』と声を上げて抱きしめたくなる衝動が身体を駆け巡っていく。


 衝動を必死に抑え、栄田は周囲を見回す。母の眼差しのように、周囲は真っ赤に染まっている。外の夕焼けが差し込んでいるからか。


「……あの、すみません」


 不意に、男性の声が聞こえた。いつの間にか栄田と母の前には、一人の中年男性が立っていた。仕立ての良い黒のスーツに身を包み頭にシルクハットを被った品の良い男性だ。心持ち、顔つきが高鶴千代子に似ている。


 軽く咳払いをし、栄田は座ったまま男性を見上げた。母は相変わらず栄田から目を離さない。


「……はい?」

「すみません。私、こちらでお世話になっている高鶴千代子の父です」


 似ているはずである。この男性は高鶴千代子の父親だった。柔らかい低音の声が、静かに栄田の耳に届き、それが栄田の緊張をさらに和らげた。


「あ、これはどうも……」

「警察署の方から連絡を受け、こちらに来ました。娘は無事ですか」

「無事です。ですが、しばらく入院ということになってまして」

「娘に会ってもよろしいですか?」

「どうぞ」


 短いやりとりのあと、父親は軽く会釈してドアを開けた。コツコツと靴の音が鳴り響き、父親はそのまま病室へと入っていく。ドアが閉じるその瞬間、『お父さん!』『千代子!』という親娘の声が聞こえた。


 ドアが閉じる音が廊下に鳴り響いた。それを合図に、栄田の身体に疲労がドッと押し寄せた。何のことはない。栄田は気を張っていたのだ。自身がずっと緊張下に置かれていたことを、栄田はこの時やっと悟った。


「とりあえずはお疲れ様でした、宗介」


 隣に座る母が、宗介の頭を優しく撫でた。


「母さん。ぼく疲れた。眠い……」


 栄田は大あくびをした。目に涙がたまりそれを指で拭いながら、いつの間にか三歳児ほどに幼くなった身体を母の膝にぽすんと預けてしまう。


「あらあら。宗介はまだまだ甘えん坊ですね」

「お母さん……ちょっと寝ていい?」

「いいですよ? 宗介がんばりましたしね」

「うん……」


 栄田の瞼が重くなってきた。襲い来る眠気に必死に抗うが、母の膝枕の心地よさがそれを許さない。母が背中をポン、ポンと叩いてくれる心地よい拍子が、栄田を睡眠へと誘ってくる。やがて瞼が閉じ、栄田の耳に自身の寝息が聞こえてきた。


「おやすみ宗介。ゆっくりお眠りなさい」

「うん……おやすみ……」

「あとはこの母に任せなさい。意地悪を働く輩は、宗介の代わりにこの母がみんな食ろうてやりますからね」


 心地よい母の声と、温かい母のぬくもり、そして母の優しさ……栄田はすべてに抱かれ、幸せな気持ちで眠りに落ちた。




……

…………

………………




「!?」


 発作を起こしたのではないかと思うほど勢いよく息を吸い、栄田は目を見開いた。慌てて自身の手を見る。手相が見えづらくなっていることで、周囲が暗がりになっていることに初めて気がついた。


「夢か……!?」


 額に冷や汗がたれてくる。自分の身体を見回すと、身体はしっかりと大人のそれだ。決して沙雪に身体を委ねた時の、子供の体ではない。


「なん……だ……!?」


 慌てて周囲を見回した。薄暗い廊下の所々で、控えめな電灯が頼りなくも温かい暖色系の明かりをぼんやりと灯している。どうやら知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。


 栄田はうつむき、額を右手で押さえた。


「沙雪」

「なんだ」


 沙雪の名を口ずさむ。いつもの極低温の返事が栄田の隣から聞こえた。栄田の隣に座る沙雪は、いつものように虚ろな眼差しだ。夢の中で見た母のぬくもりのようなものは感じられない。


「俺は寝てたのか」

「ああ」

「いつからだ」

「医者が立ち去った後、すぐに寝息が聞こえてきたな」

「結構な時間寝てたんだな……」

「それだけ疲れておったのだろう。ここ数日、ろくに寝ておらんかったゆえな」


 栄田の問に、終始愛想なく答えていく沙雪。その姿に、夢の中の母のような姿は重ならない。その事実に、栄田はどこか安心しながらも、落胆した気持ちを抱えていた。


 唐突に、沙雪が妙なことを口走った。


「では起きたのは今か……なるほど……」


 その言葉の意味が、栄田には分からない。


「あ? どういう意味だ?」

「先程はしっかりと受け答えをしておったゆえ、すでに目を覚ましたものと思うておったぞ」

「さっき? 受け答え?」

「先程、高鶴千代子の父と名乗る男が訪れ、お前は受け答えをしておったのだ」


 どうやら栄田が先程見ていた夢は、半分は現実だったようだ。


 沙雪の話によると、千代子の父を名乗る男は、黒い洋装を身にまとっていたようだ。自身を千代子の父と名乗り、栄田はそれを受けて男を千代子の病室へと通したとのことだった。


「まじかよ……全然覚えてねーぞ……」

「半分寝ておった状況で、よくもまぁあそこまでしっかりと受け答えが出来たものよ」


 栄田は頭を抱えた。チラと沙雪を伺うと、沙雪もどこか呆れているように見える。栄田も同様に、しっかりと受け答えをしておきながらも居眠りをしていたという事実に、呆れてしまう。


 しかもである。そんな自分が夢の中で何をやっていたのかというと、子供に戻って沙雪を母と見立て、その母に甘えるという体たらく……そんな自分が情けない……


「ふむ……」


 そんな様子を、沙雪はジッと見つめていた。そして……


「合点がいったぞ」

「何のだよ……」

「先程は栄田が気にする素振りを見せなんだゆえ、こちらもあえて何も言わなかったのだが……」


 沙雪の言い方が、奥歯に物が詰まったようで気持ち悪い。寝起きの栄田の機嫌をザラザラと逆なでしていく。


「何がだよ。さっさと言えよッ」


 怒鳴りはしないものの、声がつい荒らげてしまった。しかし沙雪はそれに物怖じしない。


 次の沙雪のセリフを聞いたとき、栄田は全身の血の気がサッと引く音を聞いた。


「あの高鶴千代子の父と申す男、一体どこで娘がこの病院におると知ったのであろうな」

「あン?」

「あの男自身は『警察に教えてもらった』と申しておった。だがお前は警察の仲間の誰にもこの病院の話はしていない」

「……」

「であれば、あの男は一体どこでここにあの娘がおることを知ったのであろうな」


 栄田の耳に、ザワッとした音が届く。この音の発信源は自分の全身だ。そして血が引き熱を失った栄田の頭は、沙雪が言わんとしていることを素早く正確に導き出した。


「ヤツか……!」


 そして栄田がその『千代子の父』と名乗る男の正体を突き止めた直後である。


「イヤァァァアアアアアアア!!!」


 病室から千代子の悲鳴がけたたましく響いた。


「バカヤロウッ!!! もっと早く言え!!!」


 栄田は跳ね上がるように椅子から立ち上がり、ドアの取手に左手をかける。右手は自然と懐の拳銃に添えられる。


「おのが不始末を人のせいにしてはならぬと、お前は母者に教わらなんだか?」


 沙雪は冷静に切り返すが、その冷静さが栄田の癪に触る。今この時に母の話を持ち出すことにも腹は立ったが、それ以上に見当違いの非難をしてくることも腹立たしい。そしてこれだけ怒鳴られてなお、涼しい顔で自分の右肩そばに浮かんでついてくることにも。


 怒りを込め、栄田は拳銃を抜いてドアを開いた。


「千代子さん!!!」


 部屋には、ベッドの上の千代子と、そのそばで椅子に座り佇む例の男の二人がいた。栄田はドアを開くなり、拳銃を構えた。


「イヤ!! イヤァァアアアアアア!!!」

「叫ばないで。おちおちおちおち落ち着いてください千代子さん」


 千代子はベッドの上で引き付けのような過呼吸を起こしていた。ベッドの上で必死にもがき、男から距離を取ろうとしている。顔が恐怖で引きつっている。


 そして、男はベッドそばの椅子に座り、千代子を必死になだめているように見えた。夢で見た通り頭にはシルクハットをかぶっている。黒い生地で出来た、ぐっしょりと赤く濡れたシルクハットだ。


 栄田は迷いなく男へと拳銃を向けた。指はすでに引き金にかけている。


「立ち上がってこっちを向け!!!」


 千代子の悲鳴に負けない強さの栄田の怒声が、病室に鳴り響いた。男はその声を聞いてピタリと動きを止める。


「……落ち着いてくださいよ、刑事さん」


 男の声だが、喋り方には既視感がある。忘れたくても忘れられない。あの夜の通りの喋り方だ。


 男の首が、たどたどしく動き始める。顔を真後ろの栄田の方に向けたいようだ。


「妙なことするんじゃねーぞ! 何かしたら撃つ!!」

「怖いこと言わないでください」


 男の顔が、自身の後方にいるはずの栄田の方を強引に向いてくる。ギリ……ギリ……と壊れた機械が少しずつ動くように、たどたどしく、しかしあり得ない角度に首が旋回し続ける。


 ついに男の顔が180度回転し、こちらを向いた。


「大丈夫です……彼女に害なんて、加えませませませませままままままま……ゴボッ」

「……ッ!」


 男は、右目が外側を向き左目が上を向いていた。そしてその両目が充血し、血がとめどなく流れ続けている。


「ボボボボボクボクボクボクハ……ごぼごぼごぼ……た、タダ、チ、チヨ、チヨチヨチヨコ、サンサンの、ソ、ソ、ソバ、ソバニ……」


 栄田は引き金を引いた。その瞬間、男の血塗れのシルクハットが脱げ、その中の脳が部屋の周囲に飛び散った。飛び散った血飛沫が、栄田と沙雪、そして千代子の顔にピシャとかかる。


「!? い、イヤ……」


 おのが顔にかかった血を指で確認した千代子はそのまま過呼吸を起こし、そして意識を失った。


 一方で、その様を見ていた栄田は、まったく別のことを思案していた。


 今しがたこの化け物を射殺した栄田ではあったが、その際、またしても怨霊調伏の力が発動しなかった。この事実が栄田に重くのしかかってくる。


「クソっ……何者なんだよこいつは……ッ!!!」


 怨霊調伏の弾丸がただの普通の弾丸として作用しなかった。つまり、『高鶴千代子の父』を名乗るこの男もまた、先日の襲撃者と同じくただの人間でしかなかった。

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