4 幸か不幸か

「それじゃあ俺はこのあと予定があるのでこの辺で。ハナ、あとはよろしく頼むよ」


 そう言って、木村はハナに後を託し、足早に喫茶店を出ていった。


「分かりました。光一さん、お気をつけて」


 それに対し、ハナは笑顔で木村を見送っている。だが栄田と沙雪にぶつける強大な重圧はそのままだ。木村が喫茶店を出るまで、ハナは笑顔で木村を見守っていた。笑顔で小さく手を振るその仕草は、どこからどう見ても、人の動きを縛るほどの重圧を持つ人物には見えない。


 木村が喫茶店を出た。ドアが締り、備え付けられたベルが『カランカラン』と店内に鳴り響く。外を足早に歩き去っていく木村の背中を、ハナは少し寂しそうに見送っていた。


 その一部始終を、栄田はジッと見つめていた。


 木村の姿が、雑踏に紛れて見えなくなった。ハナは目に見えてしょんぼりした表情を浮かべ、目の前の紅茶が入ったティーカップを手に取る。


「ホントに愛してるみたいだな」


 つい口が動いていた。沈んだ眼差しで木村を見送るハナの姿に、栄田は思わずそう質問せずにはいられなかった。


「ええ。あの人の心の強さと弱さに、恋い焦がれております」


 ハナはそう答えて紅茶に口をつけた。頬はほんのりと赤いが、相変わらず寂しさは抜けきっていない、憂いを帯びた眼差しだ。


 そんな様子のハナを前に、栄田は次の一手をどうするか決めあぐねていた。


 このハナという女は、栄田から見てやはり化け物で間違い無い。だが、それをどう確認するかが問題だ。まさか本人に直接聞くわけにもいかないが……


「確認したいことがある」


 動けない栄田に代わり口火を切ったのは沙雪だ。栄田はチラと沙雪を伺う。緊張は幾分解けたようだが、その目は相変わらず目の前の化け物を警戒しているように見えた。


「はい。なんでしょうか?」

「お前は石か?」


 周囲の空気が肌に冷たくなり、重く、硬質になったことを栄田は感じ取った。


 一方のハナだが、きょとんとした目で沙雪を眺めている。まるで『言っている意味がわからない』とでも言いたげな雰囲気だ。


「……はい?」

「お前は石かと問うておる」

「石……ですか?」


 改めての沙雪の問い詰めにも動揺はしない。きょとんとした眼差しはやがてやがて呆れたように沙雪を見下ろし、そしてため息をついて紅茶を口に運ぶ。


「はて……何のことやら」

「この栄田と申す男、お前の男に請われ、昨今の不幸の元凶を探っておる」

「らしいですね」

「聞けば、お前の男が不幸に見舞われ始めたのと同時期に、男の村で祀られていたまん丸い石が無くなったそうだが」

「……」

「お前、その石に取り付きし妖かしか、もしくは石そのものであろう? よもや、お前があの男の運を吸っておるのではあるまいな」


 沙雪の問い詰めは続く。栄田から見ても、次第に言葉に勢いと鋭さが増している。沙雪と栄田の付き合いももう一年近くになるが、それでもここまで饒舌になる沙雪ははじめてだ。それは、あるいはハナという無害そうな娘から発せられている、この上ない危機感ゆえかもしれない。


 ハナは涼しい顔で沙雪の言葉を受け流している。その顔からは先程までの屈託のない笑みが消えている。紅茶をテーブルに置き、チラと栄田を伺った。


「刑事さん、こちらの方は?」

「すまねぇ。だが別にあんたをからかっているわけじゃない。至極本気だ」

「冗談にしか聞こえませんが……?」

「こいつ……名前は沙雪って言うんだが、こいつ人間じゃなくてバケモンだ。俺たちはこういう話に慣れてる。こういう世界で行きてる人間だ」

「……」

「つまり、今の沙雪の話は、至極真剣だ」

「ふむ……」


 栄田の説明を聞いても、ハナの表情は晴れない。感情の読めない眼差しを紅茶に落とし、そしてジッと紅茶を見つめるだけだ。


 呆れや軽蔑の色も感じない。困惑の表情も見えない。しいて言えば、日頃沙雪が浮かべているような虚無を感じる。


 その虚無の裏に隠された感情を読み取ろうと、栄田は必死に神経を尖らせていた。


 しかし次の瞬間、鋭敏になっていた栄田の肌は、ハナの感情ではなくまったく別のものを感じ取った。


「……?」


 自身と沙雪の間に何かがぬるっと通った感触を感じた。それは目には見えなかった。何がどこから、どの方向に向かって通ったのかもわからない。だが、自身と沙雪の間を、濡れた獣の毛皮のような感触をした生ぬるい何かが、ぬるりと通り抜けていったことを感じた。


「何だ今の?」


 思わず口に出した。反射的に沙雪を見る。沙雪も栄田を見ている。


「お前は感じたか?」


 沙雪に問うてみるが、答えは口にしない。ただし、珍しくうろたえ冷や汗がたれているその頬は、言葉以上に栄田に『感じた』と答えていた。


 栄田と沙雪、二人でハナを見る。ハナは目を閉じ、そして紅茶に口をつけていた。


「今のはアンタか?」

「今の、とは?」

「ふざけんな。今、俺と沙雪の間を何か変なものが通った。ぬるっとした手触りの、生暖かい感じのやつだ。何だあれは」

「……」


 栄田の言葉が圧を上げ始めた。今の生暖かい感触がハナのものだとすれば、その正体を突き止めなければならない。


 栄田は刑事であり、故に時には荒事に対応しなければならない場合もある。そんな栄田の圧が籠もった声は、普通の人間なら聞くだけで震えが来るほどに恐ろしいものだ。


 だが、ハナには動揺が見えない。恐怖を感じている素振りも見せず、涼しい顔で紅茶を味わっているようだ。その、まったく動揺の感じられない素振りは、栄田の焦りにさらに拍車をかけている。その余裕の出発点が『お前らなどいつでも殺せる』というものだったとすれば……栄田の手は無意識に拳銃をつかもうと動き出していた。


「奥方様!!!」


 張り詰めた空気を男の声が破った。栄田の身体がびくんと波打ち、慌てて声の発生源を探る。男の声はハナにとっても寝耳に水のようだった。ハッとして入り口ドアの方を振り返った。


「こちらです!」

「奥方様!!」


 ハナが右手を上げ、栄田も入り口ドアを見た。上等なスーツを着た男性が一人、息を切らせて店内を見回している。ハッとしたスーツの男は、栄田たちがいるテーブルへと走ってきた。


「誰だ?」

「夫の秘書です。私にもとても良くしてくれる方です」


 ハナが答え終わるのと同時に、男がテーブルに到着した。息切れがひどい。相当な距離を走ってきたようだ。男の後ろ髪から汗が滴り、ワイシャツの襟の部分が湿っていることを栄田は見逃さなかった。


「お、奥方様……ハアッ……あの……!!」

「落ち着いて。お冷を一口飲んでください」

「あ、ありがとう……ハァ……ございます……ッ……!」


 ハナに促され、男はハナのお冷に口をつけた。水の冷たさが口の中と喉を潤し、多少なりとも息が整ったようだ。


 ハナの顔は真剣だ。それこそ、先程沙雪と栄田に自身の素性を問い詰められたときよりも。


「あ、あの……奥方、様! 旦那様が……旦那様が……ッ!」

「光一さんが、どうかされたのですか!?」

「ほ、発作を起こされ、び、病院に……ッ!!」




 栄田たちと別れた木村光一は、喫茶店から自身の会社へと移動中の車の中で、急な発作に襲われたそうだ。激しい胸の痛みと苦しみに襲われ、光一はそのまま病院へと向かった。医者の見立てでは、診断は心臓発作だそうだ。


 知らせを聞いたハナは、栄田たちと共に病院へと直行した。三人が到着したのと同時に、光一が寝かされたベッドが処置室からガラガラと出てきた。ハナは即座に寝かされた光一の元へと翔けより、彼に必死に語りかけていた。


「光一さん! 光一さん!!」


 しかしハナの必死の声を間近で聞いても、光一が目を開くことはなかった。




 光一は集中治療室へと搬送され、そこにはハナが付き添った。一方の栄田は、治療にあたった医師を見つけ、光一の状況を伺っていた。栄田は光一のことはあまり知らない。しかし共通の知人である妙庵がいる。彼には事の次第を説明しておきたい。そのためにも光一の状態を聞いておく必要がある、と栄田は判断した。


 医師ははじめ、光一の知人でもなんでも無い栄田のことをだいぶ警戒したのだが、栄田が出した警察手帳を見た瞬間に態度が一変。栄田の質問に素直に応じるようになった。こういう場合、警察手帳がとても役に立った。


 栄田と医師の男性は集中治療室前の廊下で会話をしていたのだが、その聞き取りのさなか、医師は意外な事実を口にした。


「二回め?」


 その話を聞いた栄田の声は、意図せず裏返った。だがその思いがけない素っ頓狂な声に驚いたのは、どうも栄田自身だけのようだった。予想以上に響く自身の裏返った声に狼狽したが、医師も驚いておらず、廊下も静かなものだ。栄田はキョロキョロと周囲を見回し治療室にも視線を送るが、どうやら大事にはなっていないらしい。安堵のため息をつき、会話を続行した。


「発作が二回目ということか?」

「ええ。ご本人は気付いてないようですが、心臓には過去に心臓発作を起こした痕がありました。少なくとも過去に一度、同じ発作を起こしたことがあるはずです」

「でも、心臓発作ってのたうち回るほど苦しいんだよな?」

「ええ。確かにおっしゃったとおりです。のたうち回るほどの痛みと苦しみに襲われるはずです」

「でも、本人は覚えてないんだよな?」

「そこが不思議なんです。木村さんは確かに『こんなに辛いのは今回が初めてだ』とおっしゃってました。もし心臓発作を起こしていれば、確実に今回と同じかそれ以上に辛いはずなんですが……」

「……」

「幸か不幸か……というやつです」


 晴れない表情の医師はため息をつき、集中治療室を見た。つられて栄田も、再度治療室へと視線をやる。


 半開きの扉の向こう側に丸まった背中が見える。付き添いのハナのものだ。光一の容態も落ち着いているのか、治療室はとても静かだ。


「別に命の危険があるわけじゃねえんだよな?」


 栄田の口から、ぽろりと口をついて出た。ベッドの横で背中を丸めて佇む人の後ろ姿……栄田は、その光景に見覚えがあったからだ。


 ハッとし、自分が口走った言葉に後悔してしまう。しかしすでに遅い。言葉は口から出てしまった。口から出た言葉は取り返しがつかない。


 『取り返しのつかない言葉』を聞いた医師は軽く息を吐いた。それはため息ではない。全身をリラックスさせ、次の戦闘に備えるための心の準備だ。栄田の目には、そう映った。


「大丈夫。そうさせないのが私たちの仕事ですから」


 栄田を振り返った医師はそう答えた。微笑む医師の眼差しには、使命感が写り込んでいた。

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