5 果報啜り

 光一が倒れて三日ほど経過した。容態はあまり好転していない。光一も意識を取り戻したり、また発作で意識を失ったり……という日々が続いている。


 栄田自身も頻繁に見舞いに顔を出しているが、その栄田の前で発作を起こしたこともある。そしてそのときも、あの日のように自身のそばを生暖かい湿った感触のものが駆け抜けていったことを感じていた。


 今日も栄田は業務の合間を縫って光一の病室に顔を出していた。ベッドの上で静かに眠る光一の寝顔は、本当にただ眠っているだけのような、穏やかな寝顔だ。心臓の病に今まさに苦しめられている者とは思えないほど安らいている。


「光一さん、まだ回復しないのか」

「ええ……」


 光一のベッドの傍らに座るハナは、憔悴しきった表情だ。その様子から、一睡もせずに光一を見守っていることがわかる。


 栄田は、病室を訪れる前に木村を担当する医者に会って話を聞いていた。それによれば、発作の回数そのものはとても多いものの、落ち着いてしまえば心臓に異常はまったく見られなくなっているそうだ。そのため光一の心臓のどこが悪いのか特定が出来ず、手術に踏み切ることが出来ないらしい。


 原因が特定出来ない病気を治療することは難しい。対症療法しかできなくなる。つまり光一は、倒れたあの日から、まったく治癒していないことになる。


『原因さえ特定できれば我々も全力で治療出来るのですが……今では対症療法が精一杯です』


 状況を話してくれた医師の顔が、栄田の頭から離れない。本人は努めて穏やかに話しているが、悔しさと焦りが隠しきれていなかった。医師もかなり頭を悩ませている状況だというのが、栄田にも良くわかった。


 ハナが、眠る光一の手を取った。光一の手に力が全く入っていない。そして、それはその手を握るハナの手も変わらない。


「光一さん……早く起きてください……」


 光一にそう語りかけるハナの表情が痛々しい。彼女はもう何度こうして光一に話しかけたのだろう……見覚えのある光景とハナの表情……栄田の過去の記憶が、否応無しに呼び覚まされる。


 不意に病室のドアがガチャリと音を立てた。


「すみません。光一さんのお見舞いに……栄田?」


 それと同時に、聞き慣れた静かな声が病室に響いた。ジャラジャラと数珠の音を響かせ病室に入ってきたのは妙庵だ。光一が入院したことを妙庵に伝えたのは昨日の話。自身が相談を受けた人間としては、光一の容態が気になっていたのだろう。


「なんだ、お前も来たのか妙庵」

「ああ、まぁ……」


 そう言葉を交わす。ハナも妙庵に気づいたようで、光一の手を離し、妙庵に会釈をしていた。




 ハナへの挨拶を終えた妙庵とともに病室を出て、そばのベンチで二人で腰掛けた。廊下はとても静かで、静寂が二人を包み込んでいる。


 ベンチのそばには筒状の大きな灰皿があった。タバコを吸っていいものと判断した栄田が、懐からタバコを取り出して火をつける。妙庵が一瞬怪訝な顔をしたが、それにはあえて気付かないふりをした。


「いい女だよな」


 一服を終えた栄田に、妙庵がこんなことを言う。数多の女を泣かせてきた生臭坊主の妙庵のそのセリフは、栄田に余計な心配を抱かせた。


「駄目だぞ妙庵。ありゃ光一さんの女だ」

「うるさいよ。私にだってそれぐらいの分別はある。単純にいい女だと思ったからそう言っただけだ」

「ならいい」


 タバコの灰が伸びてきた。灰皿にトンと打ち付け、その灰をキレイに落とす。灰が落ちた『パサリ』という音が聞こえるほど、周囲は静かだ。壁の向こうで光一が生死の境をさまよっているとは思えないほど、穏やかな時間が流れている。


 妙庵を見ると、自身が持っていた数珠を懐へとしまい込んでいた。ジャラジャラと鳴り響く数珠の音が、廊下の静寂をより際立たせているように栄田は感じた。


「……で、光一さんの相談内容だが」

「原因が分かったのか栄田? やっぱり化け物の仕業なのか?」

「まだ断定は出来ねぇ。だけど気になる点はある」

「ほお?」

「まず、あのハナという女。十中八九、化け物の類だ」

「あのいい女のハナさんがか!? 根拠はあるのか?」

「喫茶店であの女と話をしていたとき、何かヌメッとした感触のものが動いたのを感じた。そしてその直後、光一さんが心臓発作を起こした」

「ぬめっとしたもの……?」

「ああ。最初は勘違いの類だと思ったんだがな。だが俺が光一さんの心臓発作と鉢合わせするたびに、あのぬめっとした何かが通り過ぎる感触を感じたんだよ」

「その感触を感じるのが、心臓発作の合図ってことなのか……」

「あと一つ。あの女は、格が高い化け物特有の威圧感がある」

「そんなことまで分かるのか栄田……」

「不思議と殺気までは感じないが、俺はあの女を化け物だと踏んでいる」


 そこまで話すと、栄田は持っているタバコを見た。話に熱中してしまっていたせいか、すでにタバコの火は根本近くまで迫っている。大して吸ってなかったことを多少恨めしく思いながらも、栄田はそのタバコを灰皿へと落とした。


 妙庵の方をチラと伺うと、一度しまったはずの数珠を懐から取り出し、手を合わせてしきりに『オンマリシエイソワカ……オンマリシエイソワカ……』と唱えている。本人は至極真剣な表情なのだが、その様子が妙におかしい。


 そんな妙庵のおかしな様子に栄田が失笑した、その時だった。栄田の肌に、再びぬるりとした何かが肌に触れる感触があった。


「!?」


 反射的に病室のドアを見る。その途端……


『ウガァァアアアアア!?』

『光一さん!?』


 光一の絶叫とハナの必要な声が病室から響いた。経を唱えていた妙庵もハッとして病室を見る。


「なんだなんだ!?」


 妙庵は事態を飲み込めてないようだ。目を泳がせているばかりだ。


 栄田は急いで立ち上がった。


「妙庵! お前、医者呼んでこい!!」

「へ、へ?」

「医者だ!! 早く!!!」


 栄田の怒号が廊下に響いた。妙庵はやっと我を取り戻し廊下を駆けていく。その妙庵を見送ること無く栄田はドアを乱暴に開け、病室に駆け込んだ。


「アアッ……ガァァアアッ!?」


 ベッドの上の光一が苦しそうにのけぞり、自身の胸を掻きむしっている。その様は恐ろしく、弱く小さな化け物よりも鬼気迫る恐怖を感じる。


「刑事さん!? 光一さんが!」


 一方のハナは、海老反りになった光一の身体を必死に押さえつけている。傍から見ても目一杯光一の身体を押さえつけているのは分かるが、それでも暴れ狂う光一の身体を抑えることが出来ない。栄田が部屋に入るなり必死な泣き顔を栄田に向けた。


 そんなハナに栄田は近づき、そして両肩をものすごい力で握って自身に振り向かせた。


「言え! いまお前は何をやった!?」

「へ?」

「お前が何かをやったから、光一さんが発作を起こしたんじゃないのか!?」

「そんな……私は、何もやってません!!」

「何もやってないはずがないだろうが!! じゃあ光一さんの発作の前に必ず感じるあの妙な感触はなんだ!? お前が何かやった証だろうが!!!」

「知りません! そんなことより光一さんを!!」

「お前が原因だろうが!!! 言え!! お前、光一さんに何をやってる!? 何を企んで光一さんに取り憑いてやがるんだ!!!」

「知りません! 私、ホントに何もやってません!!!」

「言え!!!」

「わかりません! 何も知りません!!」


 のたうち回る光一の隣で、二人の叫びが交差する。栄田もハナも、すでに互いの叫びは耳に入っていない。互いに主張をぶつけているだけだ。意思疎通になっていない。


 ほどなくして、ドアが乱暴に開き医者たちが入ってきた。妙庵が呼んだ医者ではないのだろう。ドアがバンと開いた音で、栄田とハナは我に返った。


「何やってるんですか!!! 治療しますから部屋から出てください!!!」


 先程までの二人の喧騒よりも重い一言が、栄田とハナの耳を襲った。呆気にとられた二人を看護師たちが部屋から追い出す。慌ただしく追い出された栄田たちの喧騒で騒がしくなった廊下だったが、ドアが閉じた瞬間、その喧騒は一気に遮断された。病室から叫び声や怒号は聞こえるが、廊下に静寂が戻った。


 栄田は周囲を見回す。廊下には誰もいない。医者を呼んだはずの妙庵はまだ姿を見せない。かなり遠くまで医者を呼びに行ったのかもしれない。戻るまでまだ時間はかかるようだ。


 栄田はハナの胸ぐらを掴み、力いっぱいにねじり上げた。


「おいテメー!!!」


 栄田に迫られたハナの顔に再び困惑が浮かぶ。それは本当に身に覚えがないものが見せる表情なのだが、興奮しきっている栄田にはそれが分からない。


 栄田はねじり上げた襟をグイと引っぱり、ハナの顔に自分の顔を近づけた。栄田の鬼気迫る表情には猛烈な怒気が籠もっている。故に相当な重圧がハナに襲いかかる。栄田の憤怒の気迫の直撃を受けたハナは、伏し目がちに目線を逸した。しかし栄田の目は構わずハナを睨みつけている。ハナから一向に離れない。


「てめぇ! いい加減に吐け! 一体何を企んでやがるッ!!!」

「何も企んでません!!」

「んじゃなんで光一さんはあんなに苦しんでるんだよ!!」

「分かりません! ホントに何もわからないんです!!」


 栄田のイライラが最高潮に達した。これだけ追い込んでも何も喋らない。光一の心臓発作の原因はこの女で間違いない。決定的な証拠はない。しかし確信はある。光一が発作を起こす寸前、必ず濡れた獣の毛皮のような感触が、自分の肌をかすめていく。あの見えない妙な感触の物体が、光一の発作の原因と考えて間違いない。


 あんなものを使役出来る存在は人間ではない。化け物以外に考えられない。……つまり、この女以外に考えられないのだ。


 それなのに、この女は未だ自分が何者であるのか白状しない。自分が原因であることすら認めない。一体この女は何が目的で光一に取り憑いているのか。この女は光一に何をしようとしているのか。一向に分からない。


 業を煮やした栄田は、懐から拳銃を抜いた。


「ヒッ……」


 ハナの息を呑む声が栄田の耳にも届いた。それが演技なのかどうかは分からない。あるいはこの怨霊調伏の加護の弾丸を本当に恐れているのかもしれない。しかしそれはどうでもいい。問題は、脅迫でこの女が本当のことを話すかどうかだ。この女に、この拳銃による脅迫が通じるかどうか……問題はそれだ。


 照星越しにハナの顔を伺う。フォーカスが合ったハナの表情は、拳銃に対して恐れおののき、顔が恐怖で引きつっている。


「これがなにか分かるか」

「こ、これ……け、けん」

「拳銃だ。だがただの拳銃じゃねーぞ。化け物を確実に殺す弾丸が装填されてる」

「ひ、ヒ……ッ」

「今から三つ数える。本当のことを言え。三つ数えて何も言わなかったら、光一さんを助けるため、俺はこいつの引き金をひく」

「で、でも、ホントに……!」

「ひとつ」


 栄田のカウントが始まり、ハナの表情がさらに引きつった。視線は拳銃に釘付けになり、いつ発射されるのか分からない弾丸の恐怖に怯えているようだ。


「ふたつ」


 次のカウントと同時に、栄田は拳銃の撃鉄を起こす。発射準備を整えているという警告だ。ガチリという音が、ハナの耳にも、栄田の耳にも届いた。


 ハナの様子は変わらない。引きつけを起こしたかのように息が乱れ始めていること以外は。


 栄田は人差し指を引き金にかけた。このままでは、次のカウントが終わったその時、拳銃から弾丸が射出されハナは自身の身体と命を散らすことになる。


 ハナの様子は……変わらない。過呼吸を起こしたように乱れた息をしながら、怯えた目でただ銃口を凝視し続けている。


 栄田が人差し指に力を込め、三つ目をカウントしようと口を開いた、その時だ。


「控えよ栄田」


 栄田の両手に力がかかり、銃口が下に下げられた。いつの間にか二人の間に姿を見せていた沙雪が拳銃を押さえつけ、銃口の狙いを下に下げていたのだ。


「邪魔すんじゃねぇ沙雪」

「控えよと申しておるのが分からぬのか」

「うるせぇ。おい早く言え! もう撃つぞ!!」


 沙雪の制止に栄田は耳を貸さない。実際、栄田の視界に映っているのは照星越しのハナの怯えた顔だけだ。ハナの口が事実を喋るかどうか……そこにのみ意識が集中している。


 その栄田の肌が周囲の変化を感じた。温度が下がり、空気が硬質化したことを敏感に感じ取った。尋常でない殺気が自身とハナを包み始めたことを栄田の肌が感じ取り、警報を鳴らしたのだ。危機を察知した栄田は、沙雪に視線を移した。


 沙雪が栄田を睨みつけていた。真っ白い髪の毛先がわずかに持ち上がり、拳銃を押さえつける力が増した。このまま抵抗して銃口を上げ続けていれば、無理をした栄田の腕が折れてしまいそうなほどの強い力である。


 視線を逸し、栄田は沙雪を見た。沙雪の瞳孔が開いている。今にもその小さい身体を内側から破裂させんほどの力が、沙雪の小さな体から迸っていることを栄田は感じた。


「四度目はないぞ栄田」

「……」

「控えよ」


 静かにそう口にする沙雪の全身から、憤りにも近い圧力を感じた。ハナにこのまま拳銃を突きつけ続けていれば、沙雪は確実に自身を殺すだろう。沙雪にとって自分はその程度の存在でしかない。どのような生き物であれ、種類の異なる他者の命の重みなど軽いものだ。


「チッ……」


 自然と舌打ちが出た。栄田の無意識が白旗を上げた合図だ。拳銃を掲げる両手の力が抜け、自然と沙雪の手に従って銃口が下に向く。


「命拾いしたな。バケモンが」


 気がつくと悪態を口にしていた。下げた拳銃を懐にしまい、そばの長椅子に腰掛ける。そばの灰皿が目に入り、右手が自然とポケットのタバコを物色し始めていた。


 一方の沙雪も猛りが収まったようである。開いていた瞳孔がいつの間にか閉じ、持ち上がっていた髪ももとに戻っていた。


「ハァ……ッ」


 ハナも安心したようだ。顔全体に安堵が浮かび、力が抜けたかのようにぐらりと姿勢を崩した。とっさに沙雪が肩を支えなければ、そのまま床に倒れ伏していただろう。


「あ、ありがとう……ございます……」


 疲れ切った声で、ハナはたどたどしく感謝を口にする。額が汗びっしょりだ。よほど緊張していたのだろう。その様は、栄田から見ても人間か化け物なのか分からないぐらいだ。


 栄田はポケットの中のタバコを手探りで見つけた。それを出して口に咥える。火をつけて紫煙を吸い込むなり、全身が倦怠感に包まれる。なんとことはない。自身も張り詰めていたのだ。それを栄田は今、身を持って実感した。


 ハナの両肩を支える沙雪が、うやうやしく口を開いた。


「お前のことがようやく分かった」


 その言葉はハナの乱れた呼吸にまぎれていたが、栄田の耳はハッキリと聞き取っていた。


「……? どういう……?」


 ハナの耳にもちゃんと届いていたようだ。フと項垂れていた顔を上げ、力なく沙雪を見た。


「お前、人の幸運を吸っておるな?」

「へ?」

「『果報啜り』か。自在に運を操るなど、まさに天に迫る化け物よ」



 沙雪の言葉を聞くハナの顔は、困惑に満ちていた。


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