6 頭の中にかかる霧

「ん……んん……」


 カーテンの隙間から柔らかい陽の光が射していた。心地よい風がそよそよとカーテンを揺らし、外気の温もりを病室に届けてくれている。


 そんな心地よい天気だからだろうか。光一のまぶたが静かに開き、彼は意識を取り戻した。


「……起きたか」

「あれ。刑事さん」


 枕元の椅子に座っていた栄田が声をかけた。こういった場合、『目を覚ました』と涙を流して喜ぶのが決まりではあるが、栄田と光一の間にはまだそこまでの関係性は育っていない。ただ、心からの安堵を感じ、ふぅと軽いため息をつくだけだった。


「……俺、一体どうしたんですか」


 光一はキョロキョロと周囲を見回し、栄田にそう問う。考えてみれば、光一は発作を起こして倒れたその日から今日まで、一度も意識を取り戻したことはない。光一からしてみれば、気がついたらベッドで寝かされていたに等しい。


 栄田はゴソゴソと上着のポケットの中を探った。しかし自分の手がタバコの包みを探り当てたところで、ここは病室であることを思い出す。病室で、しかも先程まで寝ていた大病人を前にしてタバコを吸うほど栄田も非常識な愛煙家ではない。手に当たったタバコを掴み出すことをやめた。


「俺と会った日のことは覚えてるか?」

「ええ、まぁ……」

「あんたは、あの日に心臓発作を起こして倒れたんだ。あれから一週間ほど経ってる。その間、あんたはずっと発作を起こし続けて、ずっと寝てたんだよ」

「一週間も……」


 光一は『一週間も……』と噛みしめるように口にしたあと、上体を起こした。一週間も発作を起こし続けていれば、体力はかなり消耗するはずだ。だが光一の動きに消耗は感じられない。まるで毎日の朝の起床のように、スッと自然に上体を起こした。


 上体を起こした光一は、なお周囲をキョロキョロと見回している。まるで何かを探しているようだ。


 風がそよそよとカーテンを揺らし、栄田と光一の髪をなびかせる。


「気がついたんなら、医者を呼んでこねーとな」


 そういって栄田が立ち上がった、その時だ。


「あの」


 光一が栄田を呼び止めた。決して大きな声ではないが、先程まで寝ていた病人とは思えないほど、若々しく、張りのある声だった。


 風は止まない。二人の間を、ただ静かにすり抜けていく。


「? どうした?」


 振り返る栄田の頬を撫で、その様子をじっと見つめる光一の髪を梳り、風は優しく吹いている。


「ハナは? ハナはいないんですか?」


 光一の顔を見た。そこには困惑も疑念も何もない。まるで母親を求める子供のような寂しさがあるだけだ。ハナの姿を求めて周囲をキョロキョロと見回す光一の姿に、栄田は、かつての自分の姿を重ね見た気分だった。幼い日、いなくなった母を求めて室内をトコトコと駆け回った少年の頃の自分の姿を見た気がした。


 少し間を置き、栄田は静かに口を開いていた。


「ハナさんは、姿を消した」

「へ……」

「あんたへの謝罪の言葉が書かれた書き置きだけ置いてな」

「そんな……」


 光一の顔に、途端な悲しみの色が広がっていく。そんなところもかつての自分そっくりだ。栄田は、少年の頃の自分に母の逝去を伝えたような、そんな不思議な感覚を覚えた。




 ハナが光一の下を去ったのは、沙雪が彼女を『果報啜り』と呼んだ、その二日後のことだった。


 栄田と沙雪の二人と一悶着があったあとも、ハナは光一にずっと付き添っていた。しかし光一の寝姿を眺めるハナの顔は、その間ずっと塞ぎ込んでいた。光一が何度か発作を起こしたが、その直前に何かに気付いたようにハッとしていたことを、ずっと一緒についていた栄田は見逃さなかった。


 そうしてあの日から二日目の朝、ハナの姿は光一のそばから消えていた。『光一さん ごめんなさい さようなら』と書かれた一枚の紙切れだけを残して。




 栄田は、その紙切れを光一に手渡した。万年筆で書かれた丁寧な別れの言葉は、『う』の文字が滲んでいる。書いている最中に涙が落ちたのだろうか。


「ほら」


 ハナからの別れの言葉を栄田から受け取った光一は、その紙をぼんやりと眺めた。小さな紙に書かれたその文章の意味が、まるで理解出来ないかのようだ。文章としてそれを読むことは出来るが、読解が出来ない……分からない、といった様相だ。


 しかし、時が経てば頭も次第に理解し始める。その紙切れをぼんやりと眺めていた光一の目に、突然、ツウッと一筋、涙がこぼれた。


「……刑事さん」

「ん?」

「なんでハナは、俺から離れたんですかね……?」


 『あいつは化け物で、お前の幸運を食っていたからだ』と一瞬伝えようか迷った栄田だが、すんでのところでそれをこらえた。そんな事実を今の光一が受け止めきれるとは到底思えないからだ。


 では何か嘘をついて誤魔化すか……と嘘を思案してみるが、それはそれで栄田の良心が許さない。自分から愛する男の元を離れるほど、ハナは光一を慕っていた。確かに出自は化け物かもしれないが、ハナの光一を慕う気持ちは偽りなく本物だったのだ。そんな彼女の真摯な気持ちを自分が適当な嘘で誤魔化すのは、さすがに良心が許さなかった。


「……医者呼んでくるよ」


 そう言い、話をはぐらかすのが精一杯だった。


 唯一の救いは、光一の言葉が栄田への質問ではなく、口からこぼれ出た光一の気持ちだったことだ。この言葉に、光一は答えを求めていない。ただ、誰かに聞いてほしかっただけなのだ。栄田にとって、それだけが救いだった。


 栄田はうなだれる光一に背を向け、逃げるように病室を出た。扉を閉じたその瞬間、


「うえぇえぇぇえぇ……」


 そんな光一の嗚咽が扉の向こうから聞こえてきた。紙切れを握りしめ、涙と鼻に塗れた顔で泣いているのだろうか。


「ハナ……どうして……うえぇえぇぇえぇ……」


 病室から離れる栄田の耳に、その慟哭はずっと届き続けていた。病室から離れてもその声は耳から離れず、栄田の耳のそばでずっと泣き続けていた。




 ハナが光一の元から姿を消して数日後のことだった。この日、栄田は妙庵に呼ばれて妙心寺に姿を見せていた。『話がある』とのことだったが、光一のことだろうと栄田は目星をつけていた。


 寺に到着するなり、栄田はいつもの居間に通された。ほどなくして姿を見せた妙庵の顔色が沈んでいる。出された茶を啜りながら、栄田は妙庵に呼んだ理由を問うたところ……


「実は、先日光一さんがここに来てな」

「やっぱりか……」

「まぁ察しはつくよな……」


 と、やはり光一の話をし始めた。


 聞けば、光一が突然寺を訪れ、『おかげさまで運の悪さが改善されました。お世話になりました』と妙庵に報告と感謝を述べたそうだ。意気消沈し、顔全体に疲労と絶望の色を浮かべながら。


 心配に思った妙庵は光一に『本当に大丈夫か?』と問うたそうだが……


――大丈夫です……


 そう言ってまったく取り合わず、言いたいことだけ言ってすぐに帰っていったそうだ。


 がっくりと肩を落とし、ふらつく足取りで帰っていく光一の背中は、以前の活力に満ち溢れた彼と同一人物とは思えないほど覇気が感じられなかったらしい。心配になった妙庵は、こうして栄田を呼んだ……事の次第はこうだった。


 栄田は、妙庵の言葉を遮ることをせずタバコを吸いながら、ただ黙って聞いていた。タバコから立ち上る煙は、ゆらゆらとくねりながら天井へと漂っていく。消えそうで消えず、まっすぐ天井に向かわない煙は、まるで今の光一の姿のように感じた。


「なぁ栄田。ホントに光一さん大丈夫なのか?」

「大丈夫だろうよ。光一さんの運を吸ってた化け物は消えた。心配することは何もない」

「しかしなぁ……あれだったら、あのハナとかいう化け物に取り憑かれてたときのほうがまだ元気だったぞ。今はこう、なんて言うか……」

「なんて言うか?」

「今の方が、なんだか化け物に生気を吸われているような気がしてなぁ……」


 妙庵の心配事を聞きながら栄田は茶を啜る。この妙心寺では寺だからなのか上等の茶を出されることが多い。この芳しい茶の香りと心地よい苦味が、口の中に広がるタバコのくすみを洗い流してくれる。


 ハナの置き手紙を渡したときの光一の様子を思い出した。『うえぇえぇぇえぇ……』と情けない声をもらし、背中を丸めて肩をすくめて、光一は泣いていた。あの様子を見るに、光一もまた本気でハナのことを愛していたのだろう。本気で愛していた女性が、書き置きだけを残して自分のもとを去る……どれほどの悲しみであろうか。


 本来なら、破れた恋の傷心を癒やすのは、新しい恋が一番手っ取り早い。のだが……


「なぁ妙庵。お前、光一さんに誰か女を紹介してやれよ」

「それで光一さんが立ち直ると思うか?」

「思わねーな」

「だろう? 光一さんは私とは違うんだから……」

「わかってんじゃねーか」

「やかましいわ」


 光一がそんなことでハナを忘れてしまうとはどうしても思えない。まだ長い付き合いがあるわけではないが、人となりはある程度見えている。栄田から見た光一が、そんなことでハナを忘れられる人物だとは、どうしても思えなかった。


 難しい表情で、妙庵も茶を啜る。光一のことを本気で心配している者だけが見せる表情だ。湯呑をテーブルに置いた音と、妙庵の手首に通された数珠のジャラジャラとした音が、部屋に大きく鳴り響いたように感じた。


 栄田も啜った湯呑をテーブルに置いた。顔を上げると、妙庵が自分を見つめていることに気付いた。じっとこちらを見つめる妙庵の目には、疑念のようなものが浮かんでいた。


「なぁ栄田」

「なんだよ」

「その化け物……ハナさんとか言ったか。そいつ、光一さんから引き剥がしてよかったのか?」


 栄田の心臓が、一拍だけゾクリと脈を打った。


「どういう意味だよ」

「たとえ本人に不幸が降り掛かっていたのだとしても、あの化け物はそのままにしておいたほうがよかったんじゃないか?」


 栄田にとっては、痛いところを突かれた問いである。自分の顔から血の気が若干ひいたことを、栄田は感じ取っていた。


 なぜ栄田の身体がそのような反応をしたのか。理由は明白だ。同じ疑問を、栄田自身もうっすらと抱えていたからだ。


 ポケットからタバコを一本取り出し、口に咥えた。その動きに若干の苛立ちが籠もっていることは、栄田自身も自覚している。


「んじゃお前は、光一さんがあのままあの化け物に運気を吸われ続けて死んでもよかったって言うのか?」

「そうではないが、今の光一さんを見てるとだなぁ……」


 声も若干荒らげてしまう。テーブルの上のマッチに手を伸ばし火をつけようと必死に擦るが、火は中々つかない。その様が、また栄田の機嫌を損ねていく。


「んじゃなんだよ。そもそもお前が持ってきた話だったんだぞ。お前が心配していた化け物を見つけて、そいつを光一さんから引き剥がしたんだ。お前が望んでた通りの結末じゃねーか」

「それはそうだが……」

「それとも、そこまで考えなかった俺が悪いってのか? 光一さんの気持ちを汲んで、心臓発作を何度も起こさせるあの女をそのままにしておかなかった俺が悪いってのか?」

「そこまでは言ってないだろ!」


 栄田は何度もマッチをこするが一向に火はつかない。妙庵も声を荒げ始めた。普段は美しい声で経を上げる妙庵だが、今だけはその声も落ち着かず荒々しい。


 ついに栄田は咥えているタバコに火をつけることを諦めた。こすり続けたマッチと咥えていたタバコを灰皿に叩きつけ、栄田は椅子から立ち上がる。


「おい栄田!」


 妙庵が制止するのも聞かず、栄田は妙心寺を出た。最後は妙庵に背中を向けていたため、彼がどんな顔で自身を見送っていたのかは分からない。だが声の感じや『話はまだ終わってないぞ!』という怒声から考えると、あまりいい感情は持ってなかったように感じられた。


 妙心寺の門をくぐり敷地から出た後、栄田は顔を上げて空を見上げた。分厚い雲が空を覆い、今にも雨が振りそうな天気であった。しかし雨が降る様子は無い。


「チッ……降るなら降れよ……スッキリしねぇ……」


 そう悪態をつくが、雨が降ってくることはなかった。いつまでもどっちつかずの天気のまま、はるか上空から栄田を見下ろしていた。




 沈んだ気持ちを抱えながら、栄田は帰り道をしょぼくれて帰っている。人間は、仲間と諍いを起こしたとき、つい誰かに慰めてもらいたくなるものだ。それは、栄田とて例外ではない。


「なぁ沙雪」


 栄田はとぼとぼと歩きながら、つい沙雪の名を口ずさんでいた。沙雪はハナを『果報啜り』という名で断じた。ゆえに栄田は、沙雪に対して共犯のような心持ちでいたのだが……


「なんだ」


 共犯であるはずの沙雪は、意外と栄田に対して何の感慨も持っていなかったらしい。いつもどおりの冷たい声とともに姿を見せた沙雪の顔からは、特に後悔や苦悩の感情は感じられない。いつも通り、栄田と目を合わせずに遠くを見つめている。


「あのハナって女、果報啜りって化け物なんだよな」

「ああ」

「光一さんの幸運を吸ってたんだよな」

「間違いない」

「俺たちが感じてた、あのヌルッとした手触りのやつ。あれが光一さんの幸運みたいなものだったんだよな?」

「そのとおりだ」

「んじゃ、俺たちは間違ってなかったんだよな」

「間違ってなかった、とは?」

「あのハナって女と光一さんを別れさせて、よかったんだよなって話だよ」

「我らは事実を伝えたまで。そこからどのような判断を下すかは、本人たちの勝手よ」

「……」

「今回の件でいえば、我らが事実を伝えたことで、ハナは光一から離れることを選んだ。話はそれで終わりだ。そこに我らが介入する余地はない」

「そういう問題じゃねーだろ……」


 予想以上に冷たく他人事な沙雪の言葉に、同じく張本人のはずの栄田すら頭を抱えてしまう。


 確かに沙雪が言っていることも的を射ている。栄田たちは、ハナが『果報啜り』という化け物であることを本人に伝えただけである。その結果、ハナが光一の元を去ったのは、ハナ自身の決断だ。そこに自分たちが介入する余地は、沙雪が言う通り、無い。


 だが、それだけでは割り切れない気持ちというものもある。


「あの二人、愛し合ってたんだぞ」


 少し声を荒げ、栄田はそう反論するが……


「頭の良い鳥の中には、犬や猫、人間に恋慕の情を抱く者もおるそうだ。その思いが実るかどうかは、いかなお前でも容易に想像できよう」


 と、沙雪は正論めいた言葉で取り付く島もない。その目は変わらずどこを見ているか分からない眼差しである。


「人間様を鳥や犬呼ばわりするんじゃねーよ……」


 沙雪のこの様子に呆れた栄田は、ため息を付きながらポケットの中をまさぐった。さっきは吸いたいと思ったタイミングでは吸えなかったためか、タバコを探すその手の動きにイライラとした感情が余計にこもる。やっとのことタバコを掴み、取り出して口に咥えた。


「また飲むのか」

「うるせーよ。こんなもんですぐ死んだりしねーよ。タバコぐらい好きに吸わせろ」

「別にお前を心配して言っておるのではない。臭いから言うておる」

「それこそ黙れ」


 沙雪がため息をついたのが分かった。少しずつ感情が読めるようになってきたのはいいことだが、運悪く今は栄田の気持ちが沈んでいる。そこに気を割くほど、栄田の心に余裕は無い。


 栄田は一度立ち止まってマッチを擦る。しかし相変わらず火はつかない。今日はすこぶるマッチと相性が悪い……つい舌打ちをした。


 やっとマッチに火が付き、やっとの思いで咥えたタバコに火を灯しながら吸い始めたときである。


「しかしあのハナと申す者、早とちりをしたものよ……」


 と沙雪が口にした。栄田は次の瞬間、吸っていたタバコの煙が喉に絡み、激しく咳き込んでしまう。喉の変なところを刺激してしまったらしく、暫くの間、栄田の咳は止まらず、呼吸が出来なかった。


 沙雪は栄田のその咳き込む様子を、ただ不思議そうに眺めている。


「どうした? 大丈夫か?」


 挙げ句、このような気の抜けた言葉をかけてきた。どうやら栄田の大惨事を招いたのが自分の発言だとは露ほども思ってないらしい。


「げふッ……誰のせいだよ!? クソッ……ゲホッゲホッ……」

「自分の不手際を人のせいにするのは関心せんぞ」

「テメーが変なこと言うからだろうがクソがッ……!」

「まだ言うか」

「うるせえッ!! ゲホッ……ゲホッ……!」


 一通り咳き込んで落ち着いた後、栄田は吸い損なったタバコを捨てた。火をもみ消す足の動きについイライラを込めてしまっているのが、栄田自身にもわかる。吸い殻を踏み砕いて後、荒れてしまった息を整え、栄田は改めて沙雪を見た。


 沙雪は相変わらず目を合わせない。遠くを見る眼差しは、一体何を見据えているのか……と栄田は幾分落ち着きを取り戻した頭で考えた。


「……んで、早とちりってどういう意味だよ」

「言葉通りよ。あの女、自分がどのような存在なのか分かっておらぬのであろう。故に『幸運を喰らう』という悍ましき言葉に早とちりしたのであろうな」

「は?」


 沙雪の言葉が要領を得ない。栄田は頭を抱えるが、沙雪は構わず言葉を続ける。


「よく考えてみよ。真にあの女が男から運を喰らうだけの存在として、あの男があれだけの成功を成し得ると思うか?」


 言われて栄田はハッとした。考えてみればそうである。光一は実業家として一定の成功を収め、その後も順調に活躍している。傍らに取り憑く化け物に運を吸われ不運に見舞われている者にしては、いささか不自然な状況だ。


「でもあれだ。ハナさんと出会う前に築き上げた財産なのかもしれねーぞ?」

「仮にそうであれば、女と出会ってほどなく没落していたであろう。真に幸運を喰われていたのであればな」


 感じた疑問をそのままぶつけた栄田だが、沙雪は冷静に反論をする。筋も通っている。沙雪の話には疑問の余地はない。


「であれば答えは一つ。あの女は、幸運を喰らう化け物ではないということだ」

「でも幸運を吸ってたってのは間違いないんだろ?」

「間違いない」

「んじゃ変わらねーんじゃ……」

「だが喰ろうてはおらぬ。『果報啜り』とは幸運を吸いはするが喰いはせぬ」

「は? 意味わかんねーよ……」


 沙雪の言葉が相変わらず意味がわからない。改めて頭を抱える栄田だが……ほどなくして、その言葉の意味するところが掴めてきた。


「……ちょっと待て。てことは、あの二人は別れなくてもよかったってことか? 二人で一緒にいても、光一さんは亡くならなかったってことだな?」


 核心をついた質問をした。そしてこれは栄田にとっての望みでもある。


 栄田にとって、ハナのような人外の化け物は抹殺すべき対象である。それは間違い無い。事実、栄田はこれまでにも霊的な存在や化け物たちをその拳銃で何体も撃ち殺してきた。しかしそれらは、いずれも人に害をもたらす者共であった。


 確かに化け物は栄田にとっては敵であり、抹殺対象である。だが、それが人に害をもたらさないものであるのなら……人と真の意味で愛し合う化け物なのであれば、栄田にとって撃ち殺す理由はない。


 もし、ハナと光一が一緒にいることで光一が命を落とすことにならないのであれば……栄田の胸に、次第に使命感のようなものが芽生え始めていた。事実を伝えたことで愛する二人を引き裂いてしまった張本人として。


「亡くならぬ。それどころか、女がそばにおったからこそ、男は命を長らえていたのであろう。男の成功も女の仕業だ」


 この沙雪のセリフを聞いた瞬間、栄田の頭の中が急に晴れ渡り晴天となった。


 静かに泣く光一の姿を見てから今日まで、栄田の頭の中には霧が立ち込め陰鬱としていた。道理が導き出した『これでよかった』という気持ちと、感情が出した『これでは駄目だ』という気持ちが衝突し、分厚い雲を心の中に生み出してしまっていた。


 その雲が裂け、霧が晴れた。そして気持ちが良いほどの晴天が栄田の頭を満たした。


 二人が一緒にいても光一が亡くなることはないというのなら、自身がやるべきことは一つである。


「なぁ沙雪。ハナさんがどこに行ったかわかるか」


 栄田は改めて沙雪に問う。さっきまでのイライラは鳴りを潜めているのは栄田自身もよくわかった。不貞腐れた気持ち悪さは、今は微塵もない。


 沙雪の言葉は、栄田の想像通りのものだった。その事実は栄田の心に核心をもたらした。


「我らの考えが事実だとすれば、あの女の行き先は容易に想像できよう。お前もよう分かるはずだ」


 右手が自然と力強く拳を握った。手応えを感じた栄田は、改めて空を見上げる。妙心寺を出たときはどっちつかずのスッキリしない重い曇り空だった空が割れ、いつの間にか雲の向こうの心地よい晴天が顔を覗かせていた。




 その日のうちに栄田は光一を訪ねたのだが、光一は外出中とのことで捕まえることはできなかった。空振りだったかと落胆しかけた栄田だったが……


「旦那様は、本日は故郷に戻っておいでです。なんでも奥方様の件を報告しなければならない方が故郷にお戻りになったとのことで」


 秘書のこの言葉で、光一と自分たちの目的地が一致していることを理解した。秘書に礼を告げ、栄田は沙雪とともに光一の故郷である村へと足を運ぶ。


 目的地は一つ。光一の生まれ故郷の川のほとりの社。かつて『お石さま』と呼ばれたまんまるい石が鎮座していた場所である。


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