7 気持ちが分からん
光一の生まれ故郷に到着して後、かつて『お石さま』があった場所を住民に聞き込みしていく中で、栄田は住民の年寄りの一人から一つの話を聞いた。その年寄りは体も耄碌して震えていたが、それでも頭と話し方はしっかりとしていた。滑舌も良く、聞き返さずとも栄田の質問には、明確にはっきりと受け答えをしていた。
「んじゃ、いつの間にか戻ってた?」
「へえ。ワシゃ毎日『お石さま』の社の前を散歩で通っとるんですがね。ずっと無くなってたお石さまが、数日前に突然元に戻っておったんですよ」
「……」
「きっと誰かが戻したんだろうって話になっとるんですがね」
栄田の心の中に、ジグソーパズルのピースが気持ちよくはまっていくような感覚が走る。自身の予想は間違っていなかったという快感にも似た確信が心地よい。
だが同時に、だからこそ光一とハナを元の仲睦まじい二人に戻さなければならないという使命感も強くなっていく。
そんな気持ちを抱えながら、栄田がメモを取っていたらである。
「しかしね刑事さん。ワシゃ、思うんですわ」
年寄りが再び口を開いた。メモに落としていた視線を年寄りに戻すと、年寄りは遠い景色のその向こう側を眺めるような眼差しで、窓の景色を見つめている。微笑んではいるが、その微笑みに、ほんの少しの寂しさをにじませながら。
「お石さま、ここ最近はご自身でどこかに行ってらっしゃったんじゃねーかって思っとりまして。んで、何かがあって、ここに戻ってきたんじゃねーかなって」
「……」
「お石さま自身の決断でここに戻ってきたのならええが……なんかあって戻らざるを得なかったってんなら、なんだか寂しいなぁ、楽しかった場所に戻ってって欲しいなぁって思っちまうわけなんです」
「……優しいな。親父さん」
「そんなんじゃねーんですよ。ただ、ワシゃ生まれてから八十余年の間、お石さまをずっと見てきました。晴れの日も雨の日も、空襲のときもそうでない日も、毎日ずーっと見続けてきました」
「……」
「そんなお石さまですから、ワシゃなんだかお石さまのことが、自分の子供っつーか孫っつーか、はたまた親父っつーかおふくろっつーか……そんな風に感じてしまうんですわ」
「……家族っつーのかな。そういうの」
「ですです。家族。そう言いたかったんですわ。そういうふうに感じるヤツ、この村には多いと思いますよ」
「なんだそりゃ」
「なんせ物心ついたときからずーっと見てますからね」
そういって、年寄りは笑う。しかししばらく栄田に笑顔を向けたその後は、再び窓の外を見て、遠い景色のその向こう側を眺め始めた。
「お石さま……何かあったんかねぇ……」
寂しそうにつぶやく年寄りの様子は、落ち込んだ孫娘を見守る祖父のようにも見え、塞ぎ込んだ母の様子をオロオロと見守る幼い男児のようにも見えた。
そんな年寄りの様子を見た栄田は、なぜその『お石さま』に心が芽生えハナという人格を持つまでにいたったのかが、理解できた気がした。
その後も栄田は聞き込みを続け、やがて『お石さまの柳の木で、誰かが腰掛けている』という証言を子ども二人から取り付けた。それが光一であるという核心を持った栄田は、急いでお石さまの社がある小川のほとりへと足を運ぶ。
小川の辺に到着した。乳児の背の高さほどの社に、人の背の高さほどの高さしかない小さな柳の木が生えている。静かにサラサラと流れる小川の音が優しく響いており、素朴だが神聖な気配に満ちている場所のように栄田には感じられた。
そんな小さな柳の木にもたれかかるように腰を下ろす男がいた。光一である。
「……光一さん」
栄田は静かに光一に近づき、腰を落として顔を見た。光一は憔悴しきっており、以前会ったときにはまったく生えてなかった無精髭が顔全体に目立っている。顔は脂ぎっており、ここ数日の間は風呂どころか顔すら洗ってない印象だ。洋装のスーツを着ているが、ワイシャツの裾はズボンから半分出ており、襟の一番上も外されて乱れている。髪もボサボサで、以前出会ったときのような瀟洒な実業家の姿は、今は見る影もない。
「ああ、刑事さん」
栄田に気付いた光一は顔を上げ、力なく微笑んだ。自身の隣に佇む社の屋根に力なくそっと右手を乗せる。その手に力が入っていないことは、栄田からもよく見て取れる。
「お石さまが戻ったって話を聞いたんで、ハナのことを報告しようと思って帰ったんですよ」
そういって社をさすり、そして見下ろす光一。優しく柔らかな眼差しだが、目には涙が浮かんでいる。腫れた両目は、ハナがいなくなったその日から今日のこのときまで、ずっと泣き続けていたことを物語っている。
「刑事さん、聞いてくれ。俺はさ。何かあるにつれお石さまに報告してたんだ。うれしいことや悲しいこと、残らず全部お石さまに報告してた。最近はお石さまが無くなってたから報告できなかったけど……」
「……」
「だけどさ……まさか自分が『婚約者に逃げられた』って報告を、人生の中で二回も報告するとは思わなかったよ」
「……」
「ハナとは結婚できる……一生を添い遂げられるって思ってたんだけどなぁ……」
光一の嗚咽混じりの独白を聞きながら、栄田は社の中を覗き込んだ。話の通り、まんまるい石が一つ、ボロボロの赤く小さい座布団の上にある。社の中で陽の光に当たらないからだろうか。影が刺し、ひどく落ち込んでいるようにも見える。『石が落ち込んでいる』というのもおかしな話だが、村人たちの話を聞いた今、栄田にも妙にこの石が感情を持っているように見えた。
「うえぇえぇぇえぇ……」
ほどなくして、光一が泣き声を上げた。左手を顔に当てて隠しているが、涙が流れているのは見て取れる。こうやって光一は一体何度泣いているのだろう。泣いても泣いても、なお涙は枯れない……それだけの苦しみを今味わっているのだろうか。
一方のお石さまもまた、ただ寂しそうに佇んでいる。ように見える。なんだか表面がしっとりと湿っているようにすら見える。これはハナの涙だとでも言うのだろうか。
光一とハナは今、お互い隣にはいる。しかし寄り添ってはいない。ただ、並んでそこにいるだけだ。ハナの方はどうか分からないが、光一は今、隣にハナがいることに気付いていない。
なんとかそのことを光一に伝えようと思案する栄田だが……いい案は何も思い浮かばない。光一はハナだけでなく、化け物の存在すら知らない。そんな光一に『この石がハナです』と言ってもたちの悪い冗談だとしか受け取らないだろう。今の状況なら。
そうして栄田が途方にくれていたら……である。
「失礼つかまつる」
栄田の隣で沙雪が腰を落として光一を眺めていることに気付いた。小さな身体で腰を下ろしているその姿は、背の低さも相まって女児と言っても差し支えないほど小さい。
突然に少女に声をかけられた驚きもあるだろう。ハッとした光一は慌てて袖口で涙を拭き、沙雪を見つめた。腫れた両目はキョドキョドと泳いでおり、光一の動揺が見て取れた。
「この石、お石さまとお見受けするが、いかがか」
沙雪は社の中のお石さまを指差し、光一に問うた。栄田は二人から距離を取り、様子を伺う。沙雪の言葉遣いが普段に比べて物々しいが、恐らく相手に誠意を持って接しているが故のことなのだろう。言葉の端々から恭しさ(うやうやしさ)は十分伝わってきた。
「そ、そうです」
「左様か」
「はい」
「この土地の者ではない私が触れることを、お石さまはお許しいただけるか」
「い、いいと、思います……」
『では失礼つかまつる』と丁寧に頭を下げ、沙雪は社の中へと手を伸ばす。お石さまに触れ、細く美しい人差し指で輪郭を優しくなぞった後、慈しむようにお石さまを静かに撫でた。
沙雪の顔を見た。いつかの日と同じく微笑みを浮かべている。栄田と出会ったあの事件での、髑髏を優しく丁寧に撫でるあの日の沙雪。その後ろ姿が、今の沙雪と重なった。
「光一殿と申したか」
「俺の名前、なんで知って……」
不意に名を呼ばれ、光一は戸惑う素振りを見せる。しかし沙雪は光一の返事を待たず、お石さまを撫でながら優しく続けた。
「光一殿は、『果報啜り』と呼ばれる化け物をご存知か」
「へ……」
「運の流れを操る者よ。そやつは周囲から微量の幸運を吸い取っては、それを己が内に溜め込み続ける。溜め込み続けた幸運は何かのはずみで誰かに流れ込み、それを受けた者には大きな幸運が訪れる。……そういう化け物だ」
「……」
「恐らく何百年何千年もの長きに渡り、人の気持ちに触れ、人の願いを聞き続けてきたと見える。ゆえにそのように幸運を操る力が備わったのであろう。よほど良き人々と触れ合ってきたようだ。かように強き力と優しさを備えた者は、なかなかにおらぬ」
沙雪は静かに恭しく、しかし柔らかな口調で『果報啜り』のなんたるかを語っているようだった。光一に語っている体で話しているが、栄田にはそれはお石さま……ハナへの言葉であることに気付いている。
「ゆえに、『果報啜り』が周囲の者を不幸にすることはない。ましてや幸運を吸い付くし死に至らしめるなど、絶対にありえぬ。せいぜい猫の糞を踏んだとか、冬場に家具の角に小指をぶつけたとか、その程度の不運だ」
「そんな話……」
「その程度の不運を我慢することで、いざというとき……たとえば商いがうまくいくか行かぬかの瀬戸際や心の臓の病の発病、そんなときに幸運を発揮するのだ。周囲の者にとっては、むしろ『果報啜り』がそばにおることは喜ぶべきことであろうな」
「なんで、俺の前でするんですか……?」
食い入るように沙雪の話を聞いていた光一が、力なく立ち上がった。足取りに力は入っていないが、それでもそのたどたどしい足取りで、お石さまを撫でる沙雪の背後まで移動する。
「……あ」
沙雪の背後に回った光一が小さく声を上げた。何かに気付いたようだ。何事かと栄田も二人の背後に回る。栄田と目線が、お石さまを撫でる沙雪の手に向いた。
「お石さまが無くなってる……」
ポツリと光一がこぼした。あまりに唐突のことで呆気にとられたのかもしれない。その声に戸惑いや焦りはない。
沙雪が丁寧に撫でていたはずのお石さまは、いつの間にか無くなっていた。
しばらく呆気にとられていた光一だったが、すぐに我に返った。キョロキョロと周囲を見回し始め、無くなったお石さまを探し始めたようだった。
「あれ……お石さま……あんた、今ずっと撫でてたよな? どこやったんだ? なぁ、どこにやったんだ?」
光一は沙雪を問い詰めるが、沙雪は、ただ静かに光一を見つめるだけだ。
「なぁ。どこやったんだよ? あんたがどこかにやったんだろ?」
次第に光一の声のトーンが変化してきた。戸惑いが色濃かった声に次第に焦りの色が見え始め、そしてそれは怒りに変わりつつあった。しかし沙雪は何も言わない。
「なぁ! どこにやったんだよお石さま!!」
ついに怒りが表に出始めた。光一は沙雪の襟を無造作に掴み、そしてぐいと力強く持ち上げた。その勢いで沙雪の身体が持ち上がり、あまりの勢いに栄田がその手を拳銃に伸ばした、その直後である。
「光一さん……」
栄田の背後。消え入りそうな声が、かすかに栄田の耳に届いた。その声は、光一の気の昂りを沈め、注意を引いた。
その一瞬、周囲は時を止めていた。小川のせせらぎも柳の葉が揺れる音も、何もかもが音を止め、光一を見守った。故に、周囲の音に紛れて消え入りそうなその声が、光一の耳に届いたのだ。
光一はゆっくりと首を動かし、栄田の背後を見た。
「ハナ……」
そしてポツリと名を呟いた。栄田も背後を振り返った。沙雪は優しくほほえみ、目を閉じている。この状況が予想出来ていたかのように動じない。
栄田の背後には、ハナが立っていた。まっすぐに背筋を伸ばしているが、顔は光一から背けている。目には今にも零れ落ちそうに涙を浮かべているように見える。
「ハナ……ハナ……」
光一はハナの眼の前まで歩いていった。相変わらずたどたどしい足取りだが、それでも先程よりも意思を感じさせる足取りだ。
「私は……私は、あなたを不幸に陥れる女かもしれません」
申し訳無さそうに、消え入るほどの声でハナがつぶやく。しかし光一は足を止めない。次第に光一の足がしっかりと大地を踏みしめ始めていく様が、栄田にも見て取れる。
「今までのあなたの不幸は、私が原因だったのかもしれません……あなたの発作も、私が原因だったのかもしれません……」
「……」
「すみません光一さん……本当にすみません……」
ハナの謝罪が止まらない。しかし、光一の足もまた止まらない。今では力強く大地を踏みしめ、一歩一歩、意思を持った足取りでハナに向かって歩を進めている。
ついに、光一はハナの前に立った。
「ごめんなさい光一さん。愛するあなたに不幸を振りまく女で、本当にすみません……」
「……」
「もう会わない、この姿であなたの前に現れない……そう決めたのに、こうやって再びあなたの前に現れてしまって、本当にごめんなさい」
ハナの言葉が終わる前に、光一はその場を吹く風よりも早く、ハナを抱きしめていた。恐ろしいほどの力がこもっていることが分かる。『ハナをもう離すまい』という光一の気持ちが嫌というほど伝わっていた。
「光一さん……おねがい」
「……」
「やめて、下さい……離れられなくなる、から……」
ハナも口では拒絶するが、光一の包容に抵抗せず、受け入れている。
今この瞬間、光一とハナはやっと寄り添えた。離れていた二人が、やっと並んで立ったのだ。二人を見守る栄田の胸に大きな安堵が訪れた。心地よい倦怠感に包まれ、栄田は小さなため息を漏らした。
「お願いします光一さん、後生ですから」
「俺にとって本当の不幸は!!! ハナが俺から離れることだ!!!」
「でも私が隣にいたら、あなたの幸運を吸い取って、あなたが不幸になってしまう……」
「そんなことでハナが俺と一緒にいてくれるなら! いくらでも吸い取ってくれ! 猫のフンなんていくらでも踏んでやる!! 財布なんか一日に何度落としてもいい!!!」
「……」
「だから俺と一緒にいてくれ!! ずっと一緒にいてくれ!!! 一緒に笑ってくれ!!! もう俺の前からいなくならないでくれ!!!」
「……」
「謝るのなら!!! 俺の前から姿を消したことを謝ってくれ!!!」
光一に抱きしめられたハナは目を閉じ、じっと光一の言葉を聞いていた。光一が言葉を発するたび、大声でハナへの思いを叫ぶたび、ハナの顔に朱が戻っていった。涙を流し続けているせいか頬が紅潮しているが、それは光一に別れを告げる悲しみからではなく、光一の言葉に喜びを噛み締めているからだということが分かる。
「光一さん……少し、苦しいです」
どれだけ抱き合ったあとだろうか。光一の耳元で、ぽそりとハナが告げた。さっきまでの消え入りそうな声ではない。小さく静かな声ではあるが、その声は力強く、栄田の耳にもキチンと届く声だ。
「あ、ああ、ごめん」
光一は慌ててハナをパッと離す。栄田から視覚になっていて見えなかった光一の顔が見えた。目からは涙がポロポロとこぼれ、鼻からは鼻水がたれている。口からはヨダレも垂れていて随分と酷い有様だが、顔には生気が戻っている。
「クス……光一さん、ヒドい顔」
「う、うん……」
ハナはいつか見せた上品な所作で顔でクスッと笑った後、袖から出した手ぬぐいで光一の涙を丁寧に拭った。愛おしむように光一の鼻を拭き、口元のよだれも優しく拭き取った。
綺麗になった光一の顔を、ハナは優しい微笑みのままジッと見つめた。
「光一さん、あなたの前から姿を消してすみませんでした」
「うん」
「こんな私ですが、ずっとあなたのおそばに置いていただけますか」
「うん」
「小さな不幸を呼び込む女でも、おそばに置いていただけますか」
「うん」
ハナは光一に何度も問いかけていた。繰り返すたび、再びハナの目に涙が溢れ声に嗚咽が混じり始めるが、それでもハナは言葉を紡ぐことを止めなかった。光一への問いを止めようとはしなかった。
そんなハナの涙混じりの問いに、光一はまっすぐ、淀みなく答え続けていた。
「ひぐっ……例えあなたの、幸運を吸い取る、ひぐっ……女だとしても……あなたは、私と……添い遂げて、ひぐっ、下さい、ますか」
「もちろん。ハナが嫌じゃなければ」
「うわぁぁぁああああん」
すでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていたハナが、とうとう大声で泣き出し始めた。うろたえる栄田だが、別に止めなくとも良い、と即座に思い直した。
光一が再びハナを抱きしめた。ハナを愛おしむ気持ちは籠もっているが、先程のように『離すまい』という力だけが籠もった強い包容ではない。ハナを壊すまい、しかし守り通すという光一の覚悟が見て取れる、とても優しく包み込む包容であった。
「ああああ……光一さん」
「うん」
「ハナは、あなたをお慕いしております」
「俺も、ハナを愛しています」
そうして気持ちを確認したあと、二人はどちらからともなく口づけを交わし始めた。
「お、おお?」
栄田はつい声をもらした。二人をずっと見守り続けていた栄田だが、さすがにこれは気恥ずかしくなり二人に背を向ける。自身の鼻をポリポリとかき、誰に言うでもなくポツリと独り言を口ずさんだ。
「俺たちが見てんだぞ……状況を考えろ……」
栄田の心からの願いである。しかし光一とハナは止まらないようだ。二人の息遣いが背中越しでも聞こえるほど激しい。それだけ強く求めあっているということか。
「光一さん、光一さん」
「ハナ、ハナ!」
「……」
確かに栄田は二人を再び結び合わせるためにここまでやってきた。しかしこれはやりすぎだし予想外だ。いくら二人がそれだけ強く求めあっていたのだとしても、こちらの目を気にせず口づけを交わすとは思わなかった。それも、こんなに激しく、見ている自分の方が恥ずかしくなるほどに。
この場にいるのも辛くなってきた。栄田はこの場を離れようと沙雪に目配せをしたいのだが、栄田の記憶によれば、沙雪はちょうど光一たちの向こう側にいる。『行くぞ』と目配せをしたくとも、出来るわけがない。
「どうすんだよ……クソッ……」
タバコを吸って誤魔化そうとも思ったのだが、口づけを交わす二人の前でタバコを吸うのもはばかられる……沙雪に目配せも出来ないからこの場を離れるのも難しい……かといって二人の睦み合いがいつ終わるかもわからない……どうすればこの場を穏便に離れられるのかが分からず、栄田は途方に暮れた。
そのあと、栄田が『沙雪は自分に取り憑いてるし姿を消せるのだから、俺が勝手に離れればそれでいい』ということにやっと気付くまでのその間、光一とハナは、ずっと互いを求め口づけを何度も交わし続けていた。
それから1時間ほど経過した帰り道でのことである。時刻はすでに夕刻になっており、夕焼けの赤が周囲の景色をもれなく美しい茜に染め上げていた。
「なぁ沙雪」
「なんだ」
あぜ道を歩いて帰る栄田の肩口には、いつものように沙雪が浮いて佇んでいる。赤い夕日のためか、純白であるはずの沙雪の着物と長い髪すら美しい茜に輝いていた。
「お前、果報啜りのことをあの二人に訥々と聞かせてたよな」
「うむ」
「あれ、いまいち聞き取りづらかったんだが、何て言ってたんだ」
二人を見守っていたときから栄田が感じていた疑問だった。『果報啜り』という単語がかすかに聞こえていたので何について話しているのかは予想出来たが、具体的な部分が距離が離れすぎていてよくききれとなかったのだ。
沙雪の返答によると、『果報啜り』と呼ぶ化け物の、本当の生態についてのことだったようだ。
『果報啜り』とは、その名の通り周囲の人間の幸運を吸って生きている。それは人間にとっての呼吸と同じく、本人の意識の外で行われる行動であり、生きている限り止めることは不可能だ。
しかし、果報啜りにはもう一つの特徴があった。何かの弾みで心が動いた時、自身の中に溜め込んだ幸運を、誰かに注ぎ込むのだ。注ぎ込まれた者は、その大きな幸運を得ることとなる。それはたとえば社会的な成功であったり、生命の危機の解決であったりと、目に見えた結果として本人に影響を及ぼすこととなる。それは幸運を吸うことと同じく生態であり、本人の意思で止めることなど不可能だ。
今回でいえば、ハナは光一の幸運を吸って生きていた。故に光一は妙庵に相談してしまうほど数多くの不運に見舞われていた。その原因は確かにハナだ。
しかし、そうして吸って溜め込んだ光一の運を使い、ハナは光一をずっと助けていたのだ。それはある時は光一の実業家としての社会的成功として現れ、ある時は発作を起こした光一の命が助かるといった形で現れていた。
栄田と沙雪が感じていた濡れた動物の毛皮のような感触。あれはハナから光一へと注ぎ込まれていた幸運だった。感触を感じてしまうほどの強い幸運を注ぎ込むことによって、ハナは何度も光一の命を救っていたのだ。
だが一連のそれらは果報啜りの生態であり、ハナの意識の外で行われていたことだ。ゆえにハナは、自身が光一の幸運を吸い集めて溜め込んでいたことはもちろん、その溜め込んだ幸運を使って光一を助けていたことにも気付かなかったのだ。人が意識せずとも呼吸をし、食べた食物から栄養を吸い取るのと同じように。
「なるほどな……」
だが栄田にとっては、狐に頬を抓(つね)られているような気持ちである。確かに幸運の手触りというものを感じたのだが、ハナがそんなだいそれたことをしでかすようには、とても見えない。
そんな栄田の気持ちを察したのか……
「まぁ、無理して理解をせずとも良い」
と、沙雪が口にしていた。その声色に呆れが籠もっていることを栄田の耳は鋭敏に感じ取り、そんなとこまで分かってしまう自分の耳を栄田は呪った。
「うるせー。……もう一つ疑問がある」
「なんだ」
「光一さん、途中でハナの正体に気付いてるフシがあったよな」
「ああ」
「仮にハナの正体に気付いてたとして、化け物相手に口づけするかね……」
「……」
「化け物と口づけを交わすって、どんな気分なんだろうな……知りたいとも思わんが……」
人間の中には、飼っている犬や猫を家族とみなし、それらとためらいなく口づけを交わす者がいる。栄田は彼らを否定する気はない。相手を家族とみなしているのなら、愛情表現として口づけを交わす者がいてもおかしなことではないとは思う。
だが、相手が化け物となれば話は違う。
ハナの場合は人の女の姿をしてはいるが、それでも一皮剥けばどんな醜悪な姿が潜んでいるか分からない。なんせ幸運を吸うのだ。もし光一がハナの正体に気付いてたとして、いくら相手を慕っていても、化け物と口づけを交わすなど出来るのだろうか……躊躇うものではないのだろうか……
そんなことを口にした栄田だが、ほどなく自分の肩口から沙雪の気配が無くなっていることに気付いた。
「あれ……沙雪?」
先程まで沙雪が漂っていた自身の肩口を振り返るが、そこに沙雪の姿は無い。慌てて周囲をキョロキョロと見回すが、姿はどこにも見当たらない。
「またいつものだんまりかよ……」
沙雪が話の途中で姿を消すなど別段珍しいことではない。呆れた栄田がぼやきながら再び前を向いたときである。
「試してみるか?」
いつの間にか目の前に沙雪が移動していた。夕日を受けて茜色に輝く髪をなびかせ、澄んだ真紅の眼差しで、沙雪はジッと栄田を見つめていた。
栄田はその時、『沙雪』はとても美しい少女の姿をしていたことを思い出した。
「は?」
沙雪の言葉の意味が分からず、栄田はつい呆けた返事を返してしまうが……次の瞬間、沙雪が栄田の襟を掴み、強引に自分に引き寄せた。突然のことで栄田は抵抗が出来ず、二人の顔は瞬く間に距離をつめ、そして……
「んぶッ!?」
二人の唇が触れた。いや触れたなんて生易しいものではない。沙雪が栄田の唇に自身の唇を押し付けていた。
「んん!?」
しかも咄嗟に閉じた栄田の唇を、沙雪の小さな舌がこじ開けてきた。否応なしに栄田は沙雪の舌を受け入れてしまう。くちゅくちゅと湿った音を立て、沙雪の小さな舌が栄田の舌に絡みついてくる。その湿った感触と普段の沙雪にあるまじき舌の温かさが、栄田の身体から抵抗する力を失わせた。
そうして栄田は沙雪にされるがまま、求められるままに沙雪を受け入れてしまっていた。
どれだけの間そうしていただろうか。やがて二人の口は離れ、栄田はやっと息をすることが出来た。混乱した頭では、鼻で呼吸することすら出来なかったのである。
「ぷはっ……ハァッ……ハッ……」
「んー……」
「な、何しやがる!」
混乱した頭でやっと出てきた悪態がこれだ。
栄田も二十の半ばをとっくに過ぎた大人である。女性との口づけの経験が無いわけではない。
しかし、化け物との口づけもはじめてであれば、沙雪のような少女との口づけもはじめて……しかも沙雪の口づけは、少女のような成りをしているくせにやたらと妖艶で心地いい。そんな沙雪の舌によって口の中を味わいつくされた栄田は、不本意ながら頭が蕩けきってしまっていた。そんな情けない頭でやっと捻り出したものだから、あんな稚拙な悪態しか出なかったのだ。
「……」
「な、なんとか言え!!」
「……」
そんな栄田の情けない悪態をすべて聞き流し、沙雪はしばらくもごもごと口を動かした後……
「うげぇ……」
「!?」
思い切り顔をしかめ、舌を口からべろりと伸ばした。まるで熟しておらず渋みが残った柿を食べてしまった子供のようなその仕草は、普段の沙雪からは想像も出来ないほどだ。
その上沙雪は、唾をぺっぺっと地面に吐きながら、こう言った。
「ぺっ……栄田よ……ぺっ……ぺっ……」
「唾を吐くな! 人の唇を無理矢理に奪っといて失礼じゃねーか!」
「お前、やはりタバコを飲むのをやめよ……」
「な、なんだと……ッ」
蕩けていた頭が次第に回転を取り戻し、沙雪の失礼な行動に怒りを抱く余裕も出てきたのだが……
「ぺっ……タバコの匂いしかせぬではないか……」
「だからってなぁ! てめーが勝手にやっといてその言いぐさは……!」
「これではお前の舌を存分に味わえぬ」
「ッ!?」
「お前がタバコを飲むのをやめない限り、今後私がお前の口を吸うことは無いと心得よ」
沙雪のこの言葉に、栄田は再び絶句した。
その間に沙雪はスッと姿を消した。後に残されたのは、ただ呆然とそこに立ち尽くす、傷心の栄田である。顔も頬を中心にほんのりと赤い。
「ッのヤロ……ッ」
数々の予想外に見舞われた栄田の頭は今、そんな稚拙な悪態しかつくことが出来ないほど機能不全を起こしている。
それでも時が経てば次第に頭も冷静さを取り戻してくるものだが、別れ際の沙雪の言葉がそれを許さない。
――これではお前の舌を存分に味わえぬ
その言葉が、栄田の耳にいつまでも響き続けた。普段はあどけない少女のような成りをしている沙雪だったが、その言葉を発した瞬間の彼女からはそんな幼さは感じなかった。大人の女性の艶やかさすら感じた。
栄田の左手は、無意識に懐の拳銃へと伸びていた。
「おい沙雪!! 出てこい!!! 撃ち殺してやる!!! 無理矢理人の唇奪っといて何がタバコを止めろだ!! 口の中を目一杯舐め回しといて何が『存分に味わえない』だ!!!」
そう言い、栄田はいつまでも茜色に染まった空に向かって怒号を一人で浴びせ続けた。懐の拳銃を今にも抜いて空に向けて発砲せんばかりの怒気を撒き散らし、茜に染まった田舎景色のど真ん中で、栄田はいつまでも一人で吠え続けていた。
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