私があなたを助けます

1 序

 礼拝堂に、バチンという何度目かの痛々しい音が鳴り響いた。


「ああ……かはッ……」


 磔のキリスト像の前で、菅野康弘は倒れた。下着姿で半裸の菅野。背中は自ら行った鞭打ちのせいで皮膚が破れて血に塗れ、右の太腿には鉄の楔がついたベルトがきつく巻きつけられている。背中と右太腿の傷から流れた血が、菅野の周囲に血溜まりを作り出していた。


「神よ。なぜ、なぜあなたの忠実なる下僕たる静を助けていただけないのですか……このように私は己に苦痛を強いて、罪を悔いております。それとも、静自身が何かの罪を背負っていると仰せなのですか……まさに今、静は己の罪を贖っていると、そう仰せられるのですか……あの子が、あのような幼い子が……」


 菅野はそう懇願し、目の前のキリストに手を伸ばした。今は夕刻。礼拝堂の窓から差し込んだ西日が、礼拝堂とキリストを赤く赤く照らしていた。そのせいか、キリスト像が茨の冠によって血を流しているようにも見えた。


 赤く輝いた礼拝堂に、ひときわ大きな叫び声が響いた。菅野のものではない。猛獣の咆哮のようにも聞こえ、泣き叫ぶ少女の慟哭のようにも聞こえる、そんな叫びだった。




 菅野は、数年前にとある街の教会に赴任した。


 菅野は信心深く、心穏かで布教にも熱心に取り組む神父だった。故に彼を慕う神父や司教も多かった。菅野自身もそれに驕らず、ただ一心に神を信じる、まさに模範的な宗教家だった。


 そんな菅野が赴任した街は、戦後の復興が遅れた寂れた街だった。陰鬱とした雰囲気が漂う街角には家のない浮浪者が幾人も寝転がり、商店街では万引きや恐喝、暴力が当たり前のように存在していた。すれ違う人々に笑顔はなく、ただ今日を生きることに必死な人々ばかりだった。


 街に唯一あった教会も、小さなあばら家だった。ステンドグラスは割れ、キリストの像も聖母マリアの像もなかった。十字架は打ち砕かれ、金属製のものは金になるとしてすべてが盗難にあっていた。


 目を覆うばかりの教会と街の惨状を見た菅野は、ある決心をした。


――この街の住人に神の愛を届け、そして皆を笑顔にしよう


 菅野は早速行動を起こした。自ら大工道具を持って釘を打ち、教会を修繕した。自らノミを持って大木を削り、十字架を彫った。割れたステンドグラスをガラス窓に張り替え、ベンチを一つ一つ自ら組み上げた。大工仕事に慣れてきた頃、無骨ながら立派な礼拝堂を持った教会が姿を現した。


 教会を立て直した菅野は、次に家が無い者たちを教会に招き入れ、温かい寝床として礼拝堂を使わせた。怪我をした者や体調を崩したものがいれば、医者を呼んで治療をさせた。腹をすかせた者には惜しみなく食事を与えた。それらの費用は、すべて菅野が負担した。


 一年を過ぎる頃には、休日のミサには礼拝堂がいっぱいになるほど、教会は……もっといえば菅野は街に受け入れられていた。相変わらず街の中には陰鬱な雰囲気が漂い、街角には行き場を無くして行き倒れになった浮浪者たちが倒れていたが、それでも、街の未来は良い方向に向かいつつあった。


 この頃になると、町の住人の中にも菅野の手によって洗礼を受け、キリスト教徒になったものもいた。


 その中に、羽鳥静という娘がいた。


 戦争で隣の町に疎開してきた静は、両親を亡くし疎開先の親戚の家からは追い出され、この街でゴミを漁り生きていた。ある時、何日も食事を摂ることが出来ず意識朦朧なまま教会を訪れたところを、菅野によって保護された。


 初めて静が礼拝堂に来たときのことを、菅野はよく覚えている。礼拝堂のベンチに敷いた布団にくるまった静は、とても不安そうな顔で菅野の顔をジッと見ていた。


「ん? どうかしましたか?」

「ねえ神父様? こんな温かい布団で寝ても、いいの?」

「いいんですよ。今夜はゆっくりお眠りなさい」

「どうして? どうしてこんなに神父様は私に親切で優しいの?」

「あなただけにではありませんよ? この礼拝堂に来られる方々はもちろん、この街の人々……いやすべての人たちに対して、私は誠心誠意、親切にしたいと思っています」

「どうして?」

「おそらく、それを神が望んでいるからです」

「神さま……?」

「そうです」


 そんな会話を交わした。布団が温かいからだろうか。会話の途中で静はストンと眠りに落ちた。周囲がどれだけうるさくとも、菅野が優しく頭をなでても、静が起きることはなかった。その時の静の安心しきった寝顔は、他の者達はもちろん、菅野に対しても安堵をもたらした。


 静はそれ以来教会に足繁く通うようになり、菅野と親交を深めていった。


 半年を過ぎたある日、静は菅野の手によって洗礼を受け、キリスト教徒になった。その日、菅野一人だけで切り盛りしていた教会に、小さく可愛らしいシスターが生まれた。


 菅野と静は二人で神への祈りを捧げた後、よくこんな会話をした。


「ねえ神父様? 私は神父様のような人になりたい!」

「またその話ですか?」

「うん! だって神父様は優しくて、大きくて、優しいから!」

「“優しい”を繰り返してますよ?」

「ありゃ。しまった……だけど神父様は街のみんなに優しくて、そして私を助けてくれたし!」

「それが神の僕たる私の役目ですからねぇ」

「私も神父様のおかげで神様に仕える身になれたし、街のみんなに優しくしたいんだ!」

「……なれますよ。今の気持ちを忘れず、今のままのあなたでいれば」

「へへ……」


 そしてこの話をした後は、菅野は必ず静の頭を撫でた。


 菅野の頭を撫でられて嬉しそうな静の微笑みと、手に伝わる静の暖かさは、同時に菅野の心にも安息をもたらしていた。


――いつの日か私がこの地を離れるときは……私が神の御下に旅立つ時には、

きっと静がこの教会の後を継いでくれることだろう

その時までには、この街をもっと平穏と安息に愛された街にしなければ

その時まで、私が責任を持ってこの子を守らなければ


 そう思うようになった。


 これは、ひょっとすると娘を見守る父親の気持ちというものなのかもしれない。


 神に仕えると決心したその日に自分が諦めた、家族を持つという行為。


 その決心に後悔は無い。自分は神に仕えることを決心したのだ。自分が愛を向けるべき相手は、神と、神の子である無辜たる人々。


 しかし静の頭を撫でると、キリストやマリアの像を見るときとはまったく違う喜びが、自分の胸を満たしていく。街の人々の幸せそうな笑顔を眺めるときとはまったく違う感情で、自分の胸がいっぱいになる。


 そうか。これが父の気持ちか。


 家族を持つ喜び、家族を守る嬉しさ……それは、こんなにも暖かく、心地よく、そして切ないのか。


 神よ。感謝いたします。


 あなたに仕えるため家族を諦めた私に、たとえ擬似的とはいえ、娘をくれたことに。




 しかし、菅野と娘の別れは突然に訪れた。




 ある日、街の大通りにお使いに出た静は、夜、路地裏で死んでいた。


 知らせを聞いた菅野は汚物の匂いが漂う路地裏を走って駆けつけ、変わり果てた姿となった静を抱きかかえた。身体の小さな静のために特別にしつらえたシスターの修道服は無残に破かれ、そこから見える素肌には多数の傷が刻まれていた。額はぱっくりと割れ、夥しい量の血が流れている。顔には殴られた痕もあり、右目の瞼は大きく腫れ上がっている。


 静の腹部に何か書かれているのが見えた。服をそっとめくると、そこには『クソガキ』『偽善者の娘』と殴り書きがされていた。線に沿って血が滲んでいる。ボールペンで力いっぱいに何度も引っ掻いたのだろうか。


 静を抱く菅野は、意外にも冷静だった。菅野自身、意外なほど冷静だと思っていた。




 教会に戻った菅野は、静を新しい修道服に着せ替えた。血と汚物に塗れた顔を綺麗に拭いてやり、腹の落書きを綺麗に拭き取った。髪も洗って綺麗になった静を、菅野はキリストの像の前に静かに寝かせた。


 神に静かに祈りを捧げる。かつて静とともに読み上げた聖書の一節を、今、菅野はたった一人で読み上げている。菅野一人の声が、薄暗い礼拝堂に静かに響いている。


 不意に入り口のドアが開き、ギイときしんだ音が鳴り響いた。それでも菅野は、一人で静かに神への祈りを捧げていた。


「……あの、神父様」


 壮年の女性が教会に来たようだ。この女性は名を久子といい、菅野と静にとても良くしてくれた女性だ。決して上品とはいえない女だったが、性根は優しく、そして親しみやすい性格をしていた。


「ちょっと、いいかな」


 久子がためらいながら口を開く。菅野は答えない。ただひたすら、淡々と聖書の言葉を読み上げる。


「最近さ。よそ者が一人、静ちゃんが死んでた路地裏の近くにいるらしいんだけどさ。旦那がさ。そのよそ者が『ガキを犯した』って自慢気に話してるのを聞いたんだって。聞いてるやつらは引いてたみたいだけど」


 菅野は、聖書の読み上げをやめた。


 そしてその時、ある一節が菅野の頭を駆け巡った。それは聖書の言葉ではない。神の怒りによって世に起こる災厄を書き記した、外典の一節である。




――偉大なる父である神ご自身が

沢山の星を創り

天空の真ん中に天軸をかけ

高い所に柱を立て

大きな火でそれをお測りになるだろう

それを見る事は、人間たちにとって大きな恐れとなる

その火の火花は、禍を行う悪しき人々の群れを滅ぼすであろう

一旦は、人々が神を宥める時期が来る

しかし彼らには、果てることのない苦痛を留めることは出来ない




「あの路地裏ですか」


 意外なほど冷静で温度を感じない菅野の声が礼拝堂に響いた。その途端、燭台のろうそくの炎が揺れた。


「あ、ああ。そうだよ」


 久子が答える。菅野は手に持った聖書を静の枕元に置き、久子を振り返った。


「へ……?」


 途端に、久子は恐怖に飲まれた。


「わかりました。ありがとうございます」


 菅野は丁寧に、だが冷淡に久子に礼を述べ、そしてまっすぐ近付いてきた。久子の肩が小刻みに震える。冷や汗が出る。身体が呼吸を忘れる。手に力が入らない。


 菅野が近づき、そしてすれ違ってドアから出ていった。その瞬間、久子はぐしゃりと崩れ落ちた。


 恐怖。


 それが久子に立ち続ける力を失わせ、そして声を上げる体力を奪い、泣き叫ぶ気力を打ち消した。


「し、神父……様……ッ」


 菅野自身がいなくなってもなお、久子は安堵できなかった。振り返ったその瞬間、あの神父がまだ背後にいたら……そう思うだけで、背後を振り向けず、そして立ち上がれない。息ができない。恐怖で涙があふれる。泣き叫びたくなる。


 久子が見た菅野……それは、聖書に書かれた神の敵……悪魔を思わせる憤怒の形相をしていた。


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