2 不格好な教会

「そうですか……分かりました。また何か思い出したら、ご連絡下さい」


 栄田がそう言い切る前に、眼の前のドアはバタンと閉じた。あばら家といっても差し支えないこの家全体が、ドアの衝撃で少し揺れた気がした。


 ため息が自然と栄田の口から漏れ出てしまう。


「またも拒否か」

「だな」


 右側背後に沙雪が姿を表した。風もないのに純白の袖がたなびく。その赤く虚ろな眼差しは、栄田とともにドアを見つめている。


 栄田はポケットに手を突っ込んだ。ガサガサと音を立てて取り出したのは、真っ白い包み紙にくるまれた飴だ。包み紙を剥がすと、中から黄金色の飴が出てきた。栄田はその飴を口に放り込んだ。


「甘ぇ……」


 途端にしつこい甘みが口に広がる。栄田は酒はあまり飲まないが、かと言って甘党というわけでもない。普段は甘いものを嗜まない栄田にとって、この飴の甘味は少々くどく感じた。


「タバコは飲まんのか」

「うるせぇ。やめたんだ」

「この前私が言ったことを気にしておるのか」

「そんなんじゃねぇ」

「意外とウブで可愛らしいところがあるようだ」

「だまれクソガキ」


 二人で軽口を叩きながら萎びた街を歩く。右肩そばに浮かぶ不可視の存在にももう慣れた。


 空を見上げると、灰色の重い雲が一面に広がっていた。時折、ぽつりぽつりと栄田の鼻と沙雪の着物に雨の一滴が感じられた。




 この街では、数週間前から立て続けに五回の殺人事件が起きていた。


 死体はいずれも路地裏で発見された。この街は全体が寂れた街で、路地裏は家を持たない者やゴロツキたちの巣窟と成り果てている。その路地裏のゴミ溜めに、ある日死体がゴミのように打ち捨てられていた。それが数週間の間に五回繰り返された。


 捜査に来た栄田は、街に到着してまず死体を見せられた。


 検死台に寝かされた死体は損壊が酷く、その様は死体を見た栄田が思わず顔をしかめるほどだった。身体中のいたるところが齧り取られ、腹からは内蔵が引きずり出されている。そこまでの酷い傷にも関わらず、死因は失血性ショック死。つまり生きながらにしてこのような酷い仕打ちを受けたことになる。両足のアキレス腱が刃物で切断されているところを見るに、本人は逃げることすらできなかったようだ。


 しばらく一人で観察する許可を取った後、栄田と沙雪は死体の顔を見た。半分は肉が齧り取られてはいたが、その表情は恐怖と苦痛で歪んでいた。


 栄田が肩口の傷を観察しているときだった。沙雪が、死体の顔をジッと覗き込んでいるのに気付いた。


「なんだよ……まさか食いたいとか言い出すんじゃねぇだろうな」

「かような不味そうな人間、頼まれても食わぬ」


 沙雪でもこの酷い死体には食指が動かないようだ。


 気を取り直し観察を続行する。監察医の話によると、傷は『野犬かそれに類する肉食性の動物に食われた痕』とのことだが、どうにも違和感がある。野犬に齧られた痕というよりは、人間に噛まれた痕のようにも見える。残された歯型がそれを物語っている。


 中腰の姿勢から立ち上がり、栄田は死体を再び見下ろした。沙雪を見ると、やはり同じく死体を見下ろしている。相変わらず目は虚ろだが、視線の先に死体があるのは見て取れた。


「栄田はこの死体を何と見る」

「何って、どういう意味だよ?」

「こやつを齧り殺したのが妖かしであれ畜生の類いであれ、足の腱は刃物で切られておる」

「だな」

「どのような形であれ人が関与しておるのであろう。かような仕打ちを行う人間……只者ではない」

「なんだよ。探偵ごっこでもやりたいのか。それとも化け物のくせに人間愛に目覚めたか」

「食い物に対する博愛精神なぞ無い」

「なら何が言いたいんだ」


 死体を見下ろしていた顔を沙雪に向けた。沙雪は、いつの間にか栄田を見つめていた。


「かように歪で暗い心は、化け物にとって無上の美味。故に妖かしの心を掴んで離さぬ」

「……」

「心せよ。此度の相手、人間であれ化け物であれ、かつて無い闇を抱えた者となろう」


 沙雪の真紅の眼差しは、死体よりも雄弁に、今回の事件の危うさと恐ろしさを物語っているように見えた。


 そう見えた理由……それは、ほんの少しだが頬を紅潮させた沙雪から、期待と喜び、胸の高鳴りを感じたからだった。




 そうして周辺の聞き込みに街に出て数日。その間、栄田はほとほと困り果てていた。住民が誰も栄田と話したがらず、聞き込みがまったく進まないのだ。


 ある者は口をつぐみ、ある者はあからさまに話題をそらしてごまかす。ある者は栄田が警察の人間であると分かるやいなや己の住居に引きこもり、ある店は栄田の姿を見るなり立て看板を『閉店』に切り替えた。


 住民のその様子は、栄田に『ここは街ぐるみで何かを隠している』という確信をもたらした。だがそれが何かは分からない。苛立ちを未だ慣れない飴の甘さで紛らわせるが、それは逆効果にしかならない。栄田はまだ口に入れて間もない飴をガリガリと噛み砕いた。


「意地汚いぞ」


 左肩の背後に、ボワッと沙雪が浮かぶ感触が生まれた。振り返りガリガリと飴を鳴らす。硬い飴を噛み砕いているためか、栄田の表情はしかめっ面になっていた。


「うるせぇ。人を食うヤツに言われたくねぇ」


 眉間にシワを寄せ、そう口ずさんだ。聞き込みもうまくいかずタバコも吸わず、口に入れた飴は甘すぎる……すべてが栄田の癪に障る。


「それよりも栄田」

「あん?」

「あの建物は何だ」


 沙雪が前方を静かに指さした。みすぼらしいあばら家たちから少し距離を離し、一回り大きな建物が立っている。見事とは言えない、無骨な作りの建物だ。屋根の上を見ると十字架が立ててある。カラフルな窓はステンドグラス……つまり、教会のようだ。あまりにも無骨で、思わず素人大工が建てたんじゃないかと思ってしまうほどではあるが。


「教会じゃねーか? ずいぶん不格好だけどなぁ」

「教会?」

「お前は知らないかもしれんが、キリスト教って外国から来た宗教の施設だ。日本で言う寺や神社みたいなもんだな」

「伴天連の建物か。話に聞いたことはあるが、見るのは初めてだ」

「そんなもんか」

「あの村には伴天連なぞおらんかったからな」

「確かにあの街にゃ教会はなかったな」


 沙雪とそんなやり取りをしながら、栄田は教会に歩を進めた。わずかでもいい。今は殺人事件に関する情報が欲しい。街の宗教施設なら、事件が明るみに出たときに犠牲者の慰霊を行った可能性もある。街ぐるみで事件を隠蔽しようとしているのならなおさらだ。栄田は教会に聞き込みをすることに決めた。


 入り口の扉の前に立つ。近くで見ると、教会が素人の手によって建立されたのがよく分かる。建付けも甘ければ扉の仕上げも上等とはいえない。手入れ自体はキチンと行われているようだが、元の仕上がり自体が良くないため、それがかえって不気味だ。


 肩の違和感がなくなっている。沙雪はいつの間にか姿を消したようだ。あの赤い眼差しは栄田の背後から無くなっていた。


 不格好な扉に取り付けられた無骨な鉄輪を掴むと、栄田はドアをノックした。


「すみません。警察です」


 栄田がノックをしてから、しばらくの間が空いた。すでにここは廃墟かと栄田が踵を返そうとしたその時。


「……警察ですか?」


 建付けの悪い不格好なドアが、ギギギと軋みながらもったいぶって開いた。扉の向こうにいたのは神父と思しき男性だ。血色こそあまり良いとは言えないが、人当たりも良さそうな人物で、栄田に対して柔らかい笑みを浮かべていた。


「ええ。最近この街で頻発している殺人事件の調査をしておりまして」

「はぁ。それはご苦労さまです」

「すみませんが……二、三お伺いしてもよろしいでしょうか? ええと……」

「菅野です」

「菅野神父……とお呼びすればいいですか?」

「はい」

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