3 白い少女
赤ん坊の母親、白鳥みちるの自宅に着いた頃には、すでに周囲は薄暗くなっていた。街灯が少ないせいか、栄田が普段暮らしている街の何倍も暗く感じた。
「白鳥さん。警察です。ちょっとよろしいですか」
少々乱暴にドアをノックし、そう呼びかける。しばらくの後、ドアが恐る恐る開いた。
「あの……なんでしょう?」
開いたドアから出てきたのは、いかにも気弱そうで疲れた女性だ。資料によるとまだ20代ということだが、あまりに寂れた背格好が実年齢上に歳を取っているようにも見える。無造作に束ねられた長い髪にはところどころ目立った白髪があり、顔も疲れ切って青白い。署であの巡査が言っていた通り、目には殴られた痕がある。服もくたびれた白い半袖のシャツで、しっかりと洗濯されたものであるかは疑わしい。
「夜分遅く申し訳ない。警察の者です。あなたの子供ね白鳥勝くんが行方不明になった件について、二、三ご質問をと思いまして……」
懐からメモを取り出しながら、みちるにそう伝える。実際のところ、彼女の証言は資料を見ればわかる。だがこうやって本人から改めて証言を聞き出すことで、新たな気付きや発見があるかもしれない。栄田はそれを狙って再度みちるの元を訪れたのだが……
「あの……もう、警察の方には何度もお話したんですが……」
みちるはそう言って、改めての証言を渋った。しきりに背後を振り返り、部屋の中を気にする素振りを見せながら。
「それは重々承知しているのですが、やはり直接白鳥さんの口から事件のことをお伺いしたいと思いまして……」
栄田がそういってみちるに改めての証言を促したときだった。
「おい!! 誰だよ!?」
そんな怒号が部屋の中から響き、途端にみちるが体をビクンと強張らせた。栄田は反射的に部屋の中に視線をやる。
「な、なんでもない! すぐ、終わるから!」
そう切り返すみちるだが、声は細く、身体も少し震えている。
「まだかよ!! 早くしろよてめぇえ!!」
また怒号が響いた。その声が栄田の癪に障った。
「ッチ……っせーガキだな……」
栄田は開いていたメモ帳を懐にしまい、苛ついた機嫌に身を任せて部屋の中に割って入ろうとする。玄関に足を踏み入れ、そのまま強引に中に入ろうとしたその時。
「や、やめて……ください……っ」
みちるが制止した。両手で栄田の胸を必死に押さえていた。貧弱な力ではあるが、それ以上栄田を部屋の中に入れさせまいとする意思だけは、栄田には伝わった。
栄田のイラつきが、若干静まった。
「と、とにかく……もう、何度も、警察の方々にはお話しましたので、もう結構、です……勝が見つかったときに、また、来て、下さい……」
みちるはうつむき、涙声でそう言った。その言葉自体は本心ではない。だがそれ以上に、一刻も早く栄田をここから追い出したい……そんな本心が見て取れた。
これ以上の無理強いは出来ないし、無駄である。そのことを悟った栄田は今度は懐から一枚の名刺を取り出した。
「あんたの状況が今のでわかった。奥のクソから逃げ出したいと思ったら、警察に保護を頼め。連絡し辛いなら俺に直接連絡をくれても構わない」
名刺の裏に急いで警察署の刑事課の直通番号を書いた。多少乱暴な文字だが、読めなくはない。その名刺をみちるの服のポケットに入れようとしたが、そのみすぼらしい服にはポケットがない。
「迷惑です……! お願いですから、もう帰って……!」
「なにやってんだよみちる!!」
三度響く怒号に紛れ、みちるが精一杯の抵抗を見せた。弱い力で栄田を必死に玄関から押し出そうとする。栄田はその名刺をとっさにみちるが履いているモンペの隙間に差し込んだ。
その瞬間栄田は押し出され、そして扉が閉じた。ガチャリと聞こえた音が、まるでみちるが栄田の助けを拒絶しているかのようだった。
「……クソがっ」
そう毒づき、栄田はドアを睨む。いくら凝視してもドアは開かない。部屋の奥から悲鳴でも聞こえようものならドアを蹴破る覚悟で、栄田はドアをにらみ続けた。
突如、栄田の全身の産毛が逆立ち、背筋に一本の針金を通される感触が走った。
「……!?」
冷や汗が吹き出る。空気が冷たい。湿度が増して体中にまとわりつく。
「な……!?」
吐いた息が白い。全身が小刻みに震え、奥歯がガチガチと音を立て始める。
背後に圧迫感を感じる。何かがいる。栄田の本能が死の危険を感じ取り、ここから逃げろと命令している。
しかし身体は動かない。まるで見えない何かにがんじがらめに縛られているかのように動かない。懐の銃に手をかけようとするが、手も動かない。
そうしているうちにも、背後の圧迫感はどんどんと大きく、強くなっている。気を抜くとその圧迫感に吹き飛ばされそうになる。必死に耐えるが、その圧迫感の中では栄田はこうして立っていることしか出来ない。
「ほう」
女の声が聞こえた。少女のようにも聞こえるが、その声には感情……いや、熱を感じない。体温がない。
「私を感じるか。単に見えるというだけでなく」
声はそう続く。何者かが栄田の背後にいて、少しずつ近付いている。渾身の力を振り絞り、右腕をギシギシと動かして銃に手をかける。そうしている間にも、背後の存在は少しずつだが確実に自分に近付いているのがわかる。
声の主が栄田のすぐ背後まで近付いた。栄田は錆びついたような両目をギギギとぎこちなく動かす。背後の存在を確認したいが、姿が見えるほど動かせない。
しかし。
「あの赤子を探しておるのか下郎」
その言葉を聞いた瞬間、栄田は全身の血液が逆流したのを感じた。途端に身体を動かす力が戻り、ホルスターから銃を抜いて振り返った。
「テメェか!」
振り返りながら銃を構え、自分の背後に正確に銃口を向けた。しかし、栄田の背後には誰もいない。
「!?」
周囲をキョロキョロと見回す。さっきまでの圧迫感とまとわりつく空気はもはや薄い。すでに危険は去ったことを栄田の肌は感じ取っている。だがそんなはずはないと栄田は周囲を見回した。
5メートルほど先に、赤く輝く両の眼を見つけた。
「やめよ。すでに赤子はおらぬ」
四度、声が聞こえた。栄田は赤い眼差しに銃口を向けた。
「どういう意味だ! 答えろ!!」
そう叫ぶ栄田。赤い眼差しに目を凝らす。よく見ると、そこには眼だけでなく少女の姿が見えた。真っ白な着物に真っ白な肌、そして灰色を帯びた白い髪……それらは薄く薄く透けて見え、気を抜くと周囲に溶け込んで見えなくなってしまいそうなほど透明に近い。そのせいで、その真っ赤な眼差しだけが宙に浮いて見える。
赤い眼差しはしばらく栄田をジッと見つめた後、周囲の暗闇に溶け込むように消えた。栄田の質問には、答えなかった。
赤い眼が消え、周囲の圧迫感が完全になくなったその瞬間、かつてない疲労が栄田の全身を襲い、地面に片膝をついた。この疲労は長旅による疲労だけではない。先ほど相対した何者かが、栄田の体力を限界以上に消費させたのだ。
額の冷や汗をぬぐい、周囲を確かめる。白鳥みちるの家の明かりはすでに消えている。時計を見ると、白鳥みちると話をしてからだいぶ時間が経過しているようだ。栄田にとっては数分にも満たない時間だったが、実際には一時間近くの時間が経過していたようだ。それほど相手の重圧が凄まじかったのだ。
「あいつが報告書にあった化け物か……畜生がッ」
そう悪態をつくが、今の疲労困憊の栄田に余裕はない。
程なくして息が整ってきた。立ち上がり、改めて周囲を見回す。あの赤い目をした少女はやはりすでに消えている。姿は確認出来ない。
落ち着いてきた頭で、栄田は思い返した。
栄田は、今までこの世ならざるものと何度も相対してきた。人の恨みつらみが形になった幽霊……命を弄ぶ化け物……人知を超えた呪い師……あらゆるものと出会ってきたが、さきほどのあの少女は、その誰よりも霊格が高く、そして悍ましい。
今までの相手は、いずれも栄田でも対処出来る化け物たちだった。しかしあの少女は違う。自分では対処できない。相対すれば……やつを排除しようとすれば、殺されるのは自分だ。
心地よい風が吹き、栄田の冷や汗をぬぐった。少女の気配は完全に消えた。栄田に深い安堵が訪れる。銃を胸元のホルスターにしまい、ポケットからタバコの箱を取り出した。
「何モンだよ……クソがッ……」
そう言いながら、タバコを一本取り、マッチで火をつけようとするが……
「クソッ……」
身体が恐怖を引きずっているのか、はたまたあまりの安堵のためか、震える両腕でこするマッチは、中々に火がつかなかった。
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