5 初めて食べたそれは、涙の味がした

 社の中を見た一時間後、栄田は巡査とともに白鳥家の玄関の前にいた。


「警部補……いくらなんでも、この時間には……」


 巡査が自分の腕時計を見る。時刻は午後八時。周囲はすでに真っ暗で、街灯はあるのに周囲は薄暗い。


「うるせぇ」


 そう吐き捨てる栄田の眉間にはシワが寄っている。乱暴にドアをノックし、中に呼びかけた。


「白鳥さん。警察だ。出てきてくれ」


 何度もそう呼びかけ、執拗にドアをノックした。ほどなくしてドアが開き、白鳥みちるが顔を出す。その顔には変わらず痣がある。そして変わらず、怯えきっていた。


「……なんですか」


 みちるは小さな声でそう言った。声が少しだけ震えている。


「夜分遅くに申し訳ない。白鳥勝が見つかった。すぐに来て欲しい」

「へ…… ホントですか……?」


 みちるの表情が少しだけ動いた。その顔に浮かんだ感情は、喜びではなく、困惑と恐怖だった。


「本当だ。身支度が必要なら待つ。だから急いで来てくれ」

「あ、あの……」

「おい!! 誰だよ!!!」


 みちるの声を遮る形で、部屋の奥から怒号が響く。みちると同居しているであろう男の声だ。栄田の口は無意識のうちに舌打ちをしていた。


「あの、し、しばらく、待ってもらえますか? 着替えたい……ので」

「構わない。だが急いで……」

「みちる!! 早く帰らせろよ!!!」


 再び怒号が響いた。そのたびにみちるは身体をすくませる。


 栄田は、そんなみちるの全身をジッと見た。


「な、なんですか……?」


 自分の全身をくまなく見つめられると、人間は誰しも居心地が悪くなる。みちるは栄田に自身を凝視され、もじもじと身体を動かし始めた。栄田はジッとみちるを観察している。みちるは今日もくたびれきった白いシャツを着ている。肌着は着ていない。


 唐突に栄田はみちるのシャツの裾を掴み、ぐいっと上に持ち上げた。痣と丸い火傷だらけのみちるの腹が、栄田と巡査の前にさらけ出された。


「な……なにするんですか……ッ!」


 みちるは慌てて裾を押さえ、自分の腹を隠した。


「それ……」


 巡査がみちるの腹を指差し、絶句する。巡査もいっぱしの刑事だ。傷なぞ見慣れていてもおかしくない。そんな巡査ですら思わずうろたえてしまうほど、一瞬見えたみちるの腹の傷はひどかった。


 シャツの裾を掴み、うつむくみちる。必死に自分の腹を隠すみちるを、栄田はジッと見つめた。


「なにやってんだみちる!! 早くそいつら追い出せよ!!!」


 三度、怒号が響いた。


「あいつがやったのか」


 栄田は静かに、怒りを押し殺してみちるに問いかけた。みちるはうつむいたまま、顔を上げない。


「……」

「もう一度聞くぞ。部屋の奥にいるあいつにやられたのか」


 部屋の奥からの怒号が激しくなる。窓ガラスが震えるのではないかと思えるほどの大きさの声だ。


 しばらくの間の後、下を向いたみちるの頭が、ほんの少しだけコクリと頷いた。


 その途端、栄田は靴も脱がず、部屋の中にドカドカと上がった。


「あ! 警部補ちょっと待って!!」


 巡査の制止は栄田の耳に届かなかった。栄田の心は今、怒りで満ちている。


 男の怒号が響く中、土足のまま栄田はどんどんと部屋の奥へと入っていく。台所を通り抜け居間に入る。男がいた。


「てめ! 何入ってきてやがんだ!!」


 男の服装は、白くくたびれた肌着にボロボロのズボン。髪はみすぼらしくボサボサで、前歯が欠けている。ちゃぶ台の上には吸い殻が山盛りの灰皿。男自身は火が着いたタバコを咥え吸っていた。


「……」

「てめー! 警察だからって何勝手に入ってきてやがるんだよ!!」


 男が栄田に怒鳴り散らす。だが、栄田はまったく狼狽えない。


 男が顔を下げたその瞬間、唐突に栄田が男の顔面を蹴り上げた。


「ごふぉッ!?」


 栄田の足の甲は綺麗に男の顔面を捉えている。足が離れた途端、男の鼻から鼻血が溢れ出した。


「な、何しやがる……!」


 鼻血を飛ばしながら男は吠えるが、栄田はまったく狼狽えない。そのまま男の首元をつかむと、右腕で再び男を殴った。そうして暫くの間、居間には男の悲鳴と殴打の音が響き続いた。


「こ、こんなことして! ただで済むと」


 殴った。


「警察が、ふ、ふざけ……!」


 殴った。


「や、やめ」


 殴った。


「おねが」


 殴った。


 栄田は殴り続けた。男が口を開けば殴り、閉じれば殴る。目が合えば殴り、目を逸らせば殴った。何かをしようとすれば殴り、何もしなくても殴った。栄田はただただ機械的に男を殴り続けた。


 そうして数分間殴り続け、男の顔が原型を留めないほど腫れ上がった頃、栄田は殴るのをやめた。


「ゆ……許し……」


 ピクピクと痙攣しながら、膨れ上がった唇で男はそう懇願した。今までの殴打で、歯はさらに何本か欠けていた。


「警部補なにやってんすか!?」


 玄関から巡査が部屋に入ってきた。栄田と異なりキチンと靴は脱いでいる。男の惨状を見て、血相を変えていた。


「うるせぇ。公務執行妨害だ」

「だからってやりすぎです!」

「こういうガキは想像力が足りねぇんだ。身体で理解させなきゃダメなんだよ。自分が悪いことをしたってな」


 肩で息をする栄田は、そう言いながら男を見下ろした。みちるも部屋に入ってきた。男の惨状を見るなり、口を押さえて絶句している。


「あなた……!」


 みちるの目に涙が浮かんだ。その涙が、栄田をさらに苛立たせる。だがその苛立ちは表面上には現れない。


「白鳥みちるさん。急いで着替えてくれ」

「で、でも……」

「俺たちは外で待つ」


 戸惑うみちるを尻目に、栄田は男を無理矢理に立たせる。そのまま勢いよく玄関に男を放り投げ、男は勢いよく玄関のドアにぶつかった。男はもはや悲鳴すら上げなかった。




 それから30分後。栄田たち4人を乗せた車が、薬師川之江神社に到着した。運転していたのは巡査で、助手席には栄田。白鳥みちると男は後部座席だ。男の方は手錠でドアの取手に繋がれていた。


「降りろ」


 栄田はみちるに降りるように促すが、みちるはただうつむいているだけで降りようとする気配がない。業を煮やした栄田は車を降り、男の方のドアを開けた。途端に男がドアに引っ張られ、地面に投げ出された。


「ひぃい……!」


 男がか細くて情けない悲鳴を上げる。みちるの顔が恐怖に歪んだ。


「降りろ、白鳥みちるさん」


 そんな男を無視し、栄田は車内を覗き込んだ。自分では押し殺しているつもりだろうが、栄田の目には怒りが隠しきれていない。臆病な人間は相対する者の怒気に敏感だ。みちるは栄田の目から怒りを感じ取り、慌ててドアを開いて車を降りた。


「お前も立て」

「うっ……」


 みちるがドアを閉じたあと、栄田は自分の足元に転がる男の髪を掴んだ。上に引っ張っても男は中々立ち上がらない。男の腹に蹴りを入れた。少し悲鳴を上げた後、男は涙目で立ち上がった。


「すみません……すみません……だからもうやめて……」


 うわ言のように、男は何度もそうつぶやく。


「うるせぇ。お前らが許しを請うのは俺じゃねぇ」


 そう吐き捨てながら、栄田は立ち上がった男の髪を掴んで、境内へと引っ張っていった。




 そうして四人は階段を登り、鳥居をくぐって社の前に立った。


「こいつ頼む」


 そう言いながら、栄田は男の身体から手を離す。途端に男はその場にぐしゃりと倒れ込んだ。


 社の扉を開いた。キイと音が鳴り、屋内の暗闇が招き入れる。最初に栄田が入り、次に3人が足を踏み入れた。


「あ、あの……警部補」

「……」

「暗くてまったく見えません。何が……?」


 男の体を支えた巡査が、不安そうにそうつぶやく。みちるも同じようで、不安そうな顔で周囲をキョロキョロと見回すばかりだ。屋内には、男の浅い呼吸音だけが鳴り響いている。


 栄田が無言で懐中電灯を点けた。社の中にある物が、明かりに照らされて姿を見せる。


「え……?」

「……」

「警部補、これは……?」


 社の中にあるそれは、一目で正体を推理出来るものだった。みちるは絶句し、巡査は栄田に問いただす。だがその質問は形式的なものだ。おそらく巡査の心のうちでは、自分の目の前の物が何を意味するかは、すでに予想はついている。


 社の中にあったもの。それは、手の平に乗るほど小さい頭蓋骨だった。




……

…………

………………




 夕暮れ時。少女が見守り懐中電灯に照らされた社の中で、栄田はその小さな頭蓋骨を見た。その瞬間、栄田は懐中電灯を捨て、ホルスターから拳銃を抜いた。


「やっぱりてめーが喰ってたのかッ!!!」


 すばやく照準を少女に合わせ、ガチリと撃鉄を起こした。引き金に指をかけるが、少女はまったく狼狽えない。ただ、焦点の合わない眼差しで、ジッと栄田を見つめるだけだ。


「答えろ!! これは白鳥勝の骨か!! お前が白鳥勝を喰ったのか!!!」

「喰ったとしたら、何とする」

「人に害をなす妖怪として撃ち殺すしかねぇ……!」

「それがお前が出した結論か……」

「あン!?」

「私もかような繰り返しは疲れた。それも一興やもしれぬな」


 そういい、少女は口の端を少しだけ上げた。その眼差しには、寂しさのようなものが浮かんでいるように栄田には見えた。


 栄田を素通りし、少女は頭蓋骨の前でしゃがんだ。優しく頭蓋骨を撫で、愛おしそうにそれを見つめる。栄田はその様子を、銃を構えたまま睨みつけていた。


「お前、名は何という」

「うるせえ! 質問に答えろ!!」

「何もお前を取って喰ろうたりはせぬ。教えぬか」

「チッ……栄田だ。栄田宗介……!」

「栄田か。……のう栄田? この赤子、白鳥勝はな。私が見つけた時、命の灯火が消えようとしておった」


 栄田の腕が、わずかだが銃を下ろした。少女は今までの無機質な声とはまったく異なる、優しげだが切なく悲しい声で、ぽつぽつと話し始める。




 少女が白鳥勝を見つけたのは、白鳥夫婦から失踪届が出された二日前の夜だった。少女が見つけた時、白鳥勝は街灯の下で薄いタオルケットにくるまれ、泣き声も上げずぐったりとしていた。


 両親が戻ってくるかもしれない……そう思った少女は暫くの間、白鳥勝を見守り続けた。しかし両親は一向に現れない。そうしている間にも、白鳥勝の呼吸は次第に浅くなってくる。


 タオルケットを解いてみた。赤ん坊とは思えないほど痩せ細り、肌は痣まみれだ。丸い火傷の痕もいくつもある。実際にその現場を見ずとも、誰か……恐らく両親のどちらかだと思うが……がタバコを押し付けた痕だというのが分かる。


 両親の迎えを待っていてはいけない。そう思った少女は、勝を社へと連れ帰った。だが連れ帰った後も、勝は確実に衰弱していく。


 なんとかしたい。だがここはもはやかつての自分の家ではない。かつての知識も長い年月の果てですべて忘れた。今の自分には何も無く、何も出来ない。そうしているうちにも、勝の呼吸は止まってしまいそうに弱々しくなっていく。


 意を決した少女はやがて……




「喰った」


 栄田と少女の間に流れていた時が、止まった。


「……」

「赤子喰らい……栄田は私をそう呼んでおったが、実際に赤子を喰ろうたのは初めてだった」

「……」

「丹念に喰ろうた。腱、臓腑、目玉……すべて喰ろうた。骨だけは喰えぬゆえ、こびりついた肉を丹念にこそげ取り、そして喰った」


 少女は、悍ましい事実を次々に口にした。


 しかしその内容とは裏腹に、声は優しく、切なげだ。優しく頭蓋骨を撫でるその顔は、かすかに微笑んですらいる。


 少女のその様子は、栄田の怒りを鎮めた。拳銃をしまい、タバコを口に咥える栄田。タバコに火をつけると、その場がほんの少しだけ明るくなった。


「美味かったか」

「分からぬ。ただ、塩の味がした。涙を流しながら喰ろうておったからやもしれぬな」

「なんで食いながら泣くんだよ。だったら食わなきゃいいだろうが」


 吐き捨てるようにそういい、栄田は目一杯にタバコを吸った。吐き出した紫煙が社に立ち込め、部屋の中を曇らせた。


「私には、この赤子のために出来ることが、それしかなかった」

「あ?」

「あのまま命を落としては、この子の生が本当に無意味になってしまう。いや、無意味ならまだよい。両親に疎まれ、世話もされず一時の愉悦のためだけに傷つけられ、最後には捨てられる……そんな意味しか持たぬ生、お前は耐えられるか」

「……」

「だから喰ろうてやった。お前はただ無意味に生まれたのではない。ただ両親にいじめ抜かれるためだけに生まれたのではない。お前は、明日の私を活かす糧となる。お前は、私の中で永遠に存在を繋ぎ止められる」

「……」

「そう教えたつもりだった。私が出来る事で、この子の魂を救ったつもりだった」

「……なんで最初に白鳥夫妻に返そうと思わなかったんだよ」

「お前はタバコを飲むようだが、その火を平然と赤子に押し付け、あまつさえ外に放り出した両親の元に返すことが、お前は本当にこの子の幸せだと思うか」


 言葉に詰まった。その事実が本当なのだとすれば、確かに白鳥夫妻の元に返す訳にはいかない。どこかの施設に預けたほうが、勝にとってはより良い結果を生むだろう。


 複雑な気持ちを抱え、栄田は少女を見る。少女は慈しむような眼差しで、勝の頭蓋骨を再び優しく撫で続けていた。


 栄田には母の記憶が少ししか無い。栄田が5歳のときに、母が病気で亡くなったからだ。


 だがそんな栄田でも、頭蓋骨を撫でる少女の横顔が、少女ではなく母親のそれであることに気がつくのに、そう時間はかからなかった。


 少女は白鳥勝を喰らうその瞬間、確かに勝の母親だったのだ。勝のことを思い、勝の救済のため、勝を喰らったのだ。




………………

…………

……




「勝……勝……!」


 みちるが、ぼろぼろと涙を流しながら勝の頭蓋骨に近付いていた。おぼつかない足取りで歩み寄り、しゃがんで勝を抱え上げる。その姿が、勝を優しく撫でていた少女の姿と重なるように、栄田には感じられた。


「……お前ら。勝にずいぶんヒドいことをしてたらしいじゃねーか」


 栄田の、怒りが籠もった静かな声が響いた。みちるが肩をビクンと強張らせる。倒れている男も身体がピクリと動き、『すみません、すみません』とうなされるように小声でつぶやき始めた。


「その結果がこれだよ。お前らは二人で勝を殺したんだ」

「だって……だって、仕方ないじゃないですか……!」


 勝を強く抱きしめながら、みちるが顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃに塗れた顔がそこにあった。


「言うことを聞かないと、この人に乱暴される! この人の言うことを聞かないと、私が酷い目に遭わされるんですよ!? それなのに『お前が殺した』なんて言わないで!! じゃあ私はどうすればよかったんですか!? この人に殺されていればよかったんですか!?」

「そんなことを言ってねーよ! お前は勝の母親だろうが!! お前が守ってやらなくてどうするんだよ!!」

「無理言わないで下さい! 私に守れませんよ!!」

「無理ならなんで警察に来なかった!? 『旦那に私と息子が乱暴される』ってなんで助けを乞わなかった!?」

「そんなことをしたら! またこの人に何をされるか……!!」

「ッ立て!」


 不意に、栄田はみちるの服の襟を掴み、上に引っ張り上げた。勢いで立ち上がってしまったみちるに正面を向かせ、再び服の裾を無理矢理にめくり上げる。傷と火傷だらけのみちるの腹が、再び栄田と巡査の前にあらわになった。


「じゃあこれは何だ!! 自分の息子の命を犠牲にした結果がこれか!?」

「……ッ」

「無駄じゃねーか!! 両親に酷い目に遭わされただけならまだしも、命すら無駄だったじゃねーか!!」

「……ッ!」

「勝も母親のあんたにこんな仕打ちをされるために生まれてきたわけじゃねぇはずだ!! それなのにその母親に見捨てられ、挙げ句全部無駄だったんだぞ!?」

「だって……だって……!!」

「だってだってうるせぇよ!! そんなふうに俺に噛みつく勇気は出せて、なんで勝を守ってやる勇気は出なかったんだよ!!!」


 あとは、もう言葉にならなかった。みちるは泣き崩れ、『だって』と言いながら嗚咽していた。栄田は、みちるの襟から手を離した。ズシャリと音を立て、みちるはその場に崩れた。


 幾分荒くなっていた息を整え、栄田は懐からタバコを取り出した。マッチをこすり火を点け、咥えたタバコに火を灯す。足元を見下ろすと、男がピクピクと痙攣していた。


「おい」


 口から紫煙を撒き散らしながら、栄田はしゃがみ、男の顔を覗き込んだ。『すみません』『ごめんなさい』と繰り返し呟いているようだ。


 男の髪を掴み、顔を無理矢理にあげさせた。栄田と目が合い、男の瞳が恐怖に歪んだ。


「ひ……ヒッ……」

「さっきからボソボソうるせぇけどな。もとを辿ればお前が一番クソなんだからな」


 静かに男を見つめながら、栄田は男に顔を近づけていく。栄田は口にタバコを咥えている。その火が、男の腫れ上がった顔面に近付いていく。


 男の顔が恐怖に歪む。顔を栄田からそらそうとするが、髪を掴む栄田の手がそれを許さない。ジジジとタバコが燃える音が聞こえ、ほんのりとその熱を感じるまでに、火が近づいてきた。


「や、やめてくれ……!」

「お前はやめたのか」


 男の目に次第に涙が溜まってきた。だが肌が腫れ上がっているせいか、頬を伝って流れていかない。不細工に腫れ上がった唇がもごもごと動く。男の荒い息が栄田のタバコの火にあたり、火が脈動する。


 あと少しで火が肌に触れるところまで近付いた時、タバコの火は男の顔から離れた。男はそこで安堵したように小さくため息をついたが、次の瞬間、栄田の平手が男の頬を捉えた。バチンという痛々しい音が社の中に響き、勢いで男は仰向けに倒れてしまう。


「焼くわけねぇだろうが。俺はお前じゃねーんだよ」

「……ッ」

「取り調べには俺も付き添ってやる。絞って絞って絞りきってやるから泣いて喜べクソッタレ」


 栄田は立ち上がり、室内を見回した。みちるは『だって』と嗚咽をしつづけ、男は仰向けになったまま『ごめんなさい』と口ずさむ。ふたりともに、勝への謝罪の言葉はない。


「……おい」

「は、はい!」


 巡査に声をかけた。巡査は場の空気に呑まれていたらしく呆然としていた。だが栄田の声で気がついたようだ。返事は威勢がよかった。


「こいつら署に連行するぞ」

「で、でも……あの……」

「なんだ」

「あの、別に、証拠とかはまだ、出て、ないですよね……?」

「今のコイツらなら取り調べで吐く」

「はぁ……」

「少なくとも、男の方は俺が吐かせる」


 そう言いながら、栄田は社の外に出た。


 社を出たところで、栄田は空を見上げてタバコを目一杯に吸った。口に苦味が広がり、身体に倦怠感が訪れる。この倦怠感に仕事をやり終えた後の心地良さはない。赤ん坊を救うことが出来なかった己の無力感だけが、重みとなって栄田の身体にのしかかる。


 上を見上げた。暗い紫のようにも見える夜空に、星々が宝石のように輝いている。だがその美しい光景すら、栄田の沈んだ心を浮上させることは出来なかった。ひどい疲れを感じてうつむき、栄田は紫煙を吐いた。


 人の気配を感じ、顔を上げた。


「……」


 暗闇に、真っ赤な目が浮かんでいた。昨日今日と見た、とても冷たい真っ赤な目だ。その目はじっと栄田を見ていた。


「なんだよ」


 栄田がそうつぶやく。真っ白い少女の姿が、すうっと姿を現した。


「お前と同じだよ。俺も白鳥勝のために、出来ることをやっただけなんだけどな」

「……」

「俺には、これしか出来ない」


 そこまで言うと、栄田はフッと力なく笑った。その笑顔に達成感はない。ただただ疲労と無力感があるだけだ。


 しばらく見つめ合った後、少女は振り返って背中を向け、姿をすうっと消した。


 最後に栄田に向けた少女の表情は、かすかに、だが確かに、優しく微笑んでいた。

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