6 曇り空の晴れ間
「警部補、色々とお世話になりました」
駅前。車から降りた栄田は、ドアを乱暴にバンと閉じた。その窓から顔を出した巡査が笑顔でそんな風に声をかける。その顔には、片道三時間の運転の疲労は感じられない。
「それが俺の仕事だ」
対する栄田は、ニコリとも微笑まず、ぶっきらぼうにそう返した。左手に持ったカバンは、数日前にこの駅で降りたときと同様、荷物がパンパンに詰まっている。しかし、ここに来たときとは一点だけ異なるところがあった。たった1つだけ、カバンの中の荷物が増えていた。
「あの饅頭、みなさんで召し上がって下さい」
「気を使わなくていいって言ったろ……荷物増やしやがって……」
そう言って、栄田は自分のカバンに目線を振った。その中には、初めて署で事件の説明を受けたその時、お茶請けとして出された饅頭の包みが入っている。署を出る前、巡査が『本庁の皆さんへのお土産に』と、栄田に無理矢理持たせたものだ。
「そんなこと言わないで下さい。この街の名産品なんですから」
「このさしてうまくもない甘いだけの饅頭がか」
「ひどい……」
途端に巡査は機嫌を損ね、口を尖らせた。その様子を見て栄田も苦笑する。この感想は思った通りそのままを口にしたのだが、事実を口にするのは必ずしも得策ではなかったようだ。己の浅はかさを栄田は反省した。
空を見上げると、厚い雲がどこまでも広がっていた。署を出たときから今も変わらず、今にも雨が振りそうな曇り空だった。
……
…………
………………
あの日の夜、白鳥みちるとその内縁の夫の男は、任意同行で署に連行され、そのまま逮捕となった。
取り調べでのみちるは素直だった。巡査からの事情聴取に素直に応じ、男が白鳥勝を虐待していた事実を認めた。また、自分が男から暴力による洗脳を受けていたことを認め、自身も自分の身を守るため、勝への虐待を見て見ぬふりをしていたことを素直に認めた。
「……はい。私が近所の街灯の下に勝を置いてきました」
「理由を説明していただけますか?」
「いつもは弱々しく泣く勝が、その日はとても静かでした。彼が面白がってほっぺたを叩いても、笑いながら床に落としても、まったく反応しなくなりました。それで彼は……」
――つまんねーなぁ……もういいから、どっか捨ててこい
「そう言って、私に、勝をどこかに捨ててくるように言いました。私も普段から彼に暴力を振るわれたり、行為の最中にお腹にタバコの火を押し付けられたりされてましたから……反抗すると何をされるか分からなくて……」
「自分の身を守るために、勝くんを街灯の下に捨ててきたんですか……」
「はい……」
「そのまま警察に保護を求めようとは思わなかったんですか?」
「思いつきもしませんでした……それに、そんなことをして彼にバレたら、どんな酷いことをされるか分からないですから……」
「……」
「仮に思いついたとしても、そんなこと実行出来なかったと思います……酷いですよね私……我が子が酷い目に遭ってるのに、我が身可愛さで見ないふりをしてたんですから……」
栄田はその聴取には同室しなかったが、そんな風に語るみちるの顔は、疲れ切ってはいたものの、とても穏やかで吹っ切れたようだったと、巡査からの報告を受けていた。
一方で、男の方は最初口を割らなかった。『あの女が全部悪い』『俺の息子じゃない』『俺はガキを躾けていただけ』とうそぶき、ふてくされたように口を開かなかった。
業を煮やした栄田が取り調べに同室すると、男の態度は一変した。最初はふてくされた態度で横柄に机の上に足を乗せていた男だったが、栄田が部屋に入った途端に足を下ろし、肩を小さく縮こませて、ガタガタと震え始めた。
栄田はそんな男の肩を抱き、くわえタバコで至近距離から目を睨みつけた。ジジジと燻るタバコの音が、男の耳に届くように。
「なぁおい」
「は、はい……」
「お前の理屈でいけば、クソガキは躾けてもいいんだよな?」
「いや、あ、あの……」
「俺もお前を躾けてやる。白鳥勝がされたことと同じ躾けをしてやるよ。殴り倒して蹴り回してやる。うれしいだろ」
「……」
「それとも素直にやったこと全部吐いていい子になるか? それはそれで別に構わん。お前をどつき回せないのは癪だけどな」
耳元で栄田がそう囁いた途端、男は素直に自分が行ってきた虐待の数々を吐いた。
その間、栄田はずっと男の自供を聞いていた。わざわざ準備したオイルライターで時折大げさにタバコに火を点け、そのたびに男は恐怖でビクッと身体を強張らせていた。
男の自供によると、勝は街灯に放置される寸前、男の手によって三回、床に頭から落とされたらしい。それによって致命傷を受けた勝は昏睡状態に入ったようだ。男のこの供述は、神社で発見された頭蓋骨の特徴とも一致し、それによって頭蓋骨は白鳥勝のものであると断定された。同時に、男の殺人と虐待、白鳥みちるの保護責任者遺棄が確定した。
ちなみに勝の頭蓋骨は、その後、近所の寺の無縁塚に埋葬された。栄田も村を離れる前に巡査とともにそこを訪れ、手を合わせてきた。落ちてきそうなほどの、分厚い曇り空だった。
………………
…………
……
「嫌な事件だったな」
ひとしきり苦笑いをしたあと、栄田はそんな言葉を巡査に向けた。大の男二人が、赤ん坊を助けることが出来なかった。その事実は、栄田の心に暗い影を落とした。
栄田も刑事として活躍するようになって長い。その長い刑事としての人生の間、犠牲者が出た事件を体験したこともけっして少なくはない。
それでも今回のように犠牲者を守れなかった度、栄田は無力感を感じずにはいられなかった。自分は赤ん坊を助けることができなかった。もっと、勝を助けるために出来ることがあったのではないだろうか、と。
自分が応援要請を受けてからこの場所にやってくるまで、時間がかかり過ぎていたのではないだろうか……もっと早く応援要請が届いていれば……もっと早く到着することができていれば……そんなことを考えてしまう。“ありえないもしも”が頭をちらつき、責めても仕方がないのに自分を責めてしまう。自分が最善を尽くしたのは自分が一番わかっているというのに。
「でも、我々は白鳥みちるを助けることは出来たと思いますよ?」
そう言って、巡査は車の窓の向こう側から栄田を見上げた。なんとか栄田を元気づけようという意図はわかるが、その巡査本人の表情もあまり優れない。
「確かにそうかもしれないけどな。俺は白鳥みちるを助けるために来たわけじゃない」
「はい……ですね……」
「本来助けたかった勝を助けられなかったのは、無念だな」
そう言って栄田は力なく笑った。巡査の表情からは、自分と同じ無力感のようなものを感じる。背格好や年齢から見たところ、彼は警察官になってまだ日が浅いように見受けられる。そのような若い警察官には、今回のような苦い経験はよい経験になる。
だが同時に、心が折れるきっかけにもなりうる事件である。特に、この巡査のように性根がまっすぐな者にとっては。
「お前、まだ警官は続けるか?」
「?」
「こんな事件のあとだ。嫌になっても仕方ないだろ」
「あぁ」
「どうだ? 嫌になってないか?」
思わず口をついて出た。ここにきて数日の間、巡査と行動を共にした栄田。短い時間ではあったが、その間は同僚だったと言ってもいい。同僚の心配をすることは、とても自然なことのはずだ。
巡査はしばらく言葉を選んだ後、栄田にニッと微笑んでみせた。
「大丈夫ですよ。やめません」
「……」
「確かに残念な事件でしたけど、今回の失敗で警察官はやめませんよ」
「そうか」
「はい。これからは、犠牲者は出しませんから」
そういって、巡査は栄田に向けてグッと力強い握りこぶしを作っていた。巡査は、栄田が思っていた以上に単純で、そして、それゆえに頑丈な精神をしていたようだった。
「それよりも警部補」
「あ?」
今度は、巡査が栄田に話しかける。その顔にさっきまでの力強い微笑みはなく、不思議そうに栄田を見ているだけだ。
「警部補、なんであそこに勝くんの頭蓋骨があるってわかったんですか?」
「あー……」
「そもそもとして、なんであの頭蓋骨が勝くんの頭蓋骨だってわかったんですかね?」
不思議そうにこちらを眺める巡査の眼差しが妙におかしくて、栄田は喉を鳴らしてクククと笑った。巡査が顔をしかめるが、栄田はまったく気にしない。
フと腕時計を見た。あと数分で電車が出発する。
「あ、悪いそろそろ時間だ。その話はまた今度な」
「あ! 逃げる気ですか! 教えて下さいよ!」
荷物を持っていない右手で拝み手を作る栄田。だが巡査は気にせず栄田を問い詰める。
「後学のために教えて下さい!」
思いの外しつこい巡査の問いを、栄田は無視することにした。素早く巡査と車に背を向け、駅に向かって歩き出した。背後からは『教えて下さい!』『警部補!!』という巡査の大声が聞こえてくる。栄田の羞恥心を煽ってきて仕方ない。
だが最後に……
「また来てください!!」
そんな殊勝な声が聞こえた。つい栄田が振り向くと、ドアを開けて半身を出した巡査が、栄田に向けて笑顔で右腕をぶんぶんと振っていた。
「警部補! またあなたと仕事が出来る日を楽しみにしてます!!」
そんな巡査の姿は、栄田の心を少しだけ緩ませた。『どうせ最後だ。もう来ることもないだろう』そんな思いがあったのかもしれない。気づいたら、栄田は声を張り上げていた。
「バケモンの女だ!」
「? はい!?」
「バケモンの女が俺に教えてくれた!!」
「バケモンですか!?」
「ああ!」
途端に不思議そうな表情で首をかしげる巡査。そんな巡査を尻目に、栄田は笑顔で駅ホームへと急いだ。
栄田が電車に乗り込めたのは発車する数秒前だった。乗車したその途端にドアが閉じ、栄田は車体が動いた反動でぐらりとバランスを崩した。
バランスを持ち直し、空いているボックス席を探す。といっても車内はガランとしており、乗客は栄田以外には数えるほどしかいない。手近なボックス席に荷物を置いて座り、栄田は懐からタバコを取り出して咥えた。
「座るなりタバコを飲むのか……」
火をつけようとうつむいていると、もう聞き慣れた声が聞こえた。自分が座ったときは向かいの席には誰も座っていなかったはず……そう思って顔を上げる。純白の和服に身を包んだ目の赤い少女が、そこに座っていた。
「……こんなとこで何やってんだ」
「お前はこの土地の人間ではないようだ」
「ああ。今から帰るところだ」
「故に、私もお前についていこうと思うてな」
「俺に取り憑くのか」
「そう考えてもよい」
少女の返答を聞きながら、栄田はタバコに火をつけた。口に広がる苦味は、あの日のそれに比べてずっと軽い。
「なんでだよ。お前は自分の神社に帰れよ。あのー……」
「薬師川之江神社か」
「そうそれ。別に俺についてこなくてもいいじゃねーか」
「あの神社は、すでに白鳥勝を祀るものへと変わった。私が棲むべき場所ではない」
少女は口をつぐんだ。というより、言うべきことは言ったと判断したようだ。何度か見た虚ろな眼差しで、ぼんやりと栄田を眺めていた。そうして互いを見つめた後、少女の視線は窓の外の景色に移った。眼差しはとても遠い。
そんな様子を、栄田は鼻で笑う。
「なぁ。お前は長い間あの村に住んでたんだよなぁ」
「そのとおりだ」
「今回みたいなことはあったのか?」
「かつては今よりも生きることが過酷だった。故にあのような出来事は、別段珍しいわけでもなんでもない」
「……ならそのたびに、お前はああやって子供を助けようとしたってことか」
「いつも間に合わなんだがな。それでも此度は……此度こそは……そう思って、何度も何度も……」
「……」
「此度は間に合いこそしたが……それでも、白鳥勝に生まれた意味を教えてやることしか出来なんだ……」
紫煙をくゆらせながら、栄田はこっそりと少女の横顔を見る。その顔立ちに、初めて出会ったときのような脅威や圧迫感は無い。勝を撫でていたときのような母親の慈愛のようなものもない。
あるのは、ただ虚無。
外見は少女だが、何百年という長い年月の中で過酷な現実を見つめ続けてきたものだけが見せる虚無だけが、少女の赤い眼差しに宿っていた。
「ところでお前の名前は何だよ」
席に備え付けの灰皿に、栄田は吸い殻を押し付けた。少女はキョトンとした眼差しで栄田を見つめる。少女と出会ってから今の今まで見たこともない表情だ。それが妙におかしく、栄田はプッと吹いてしまった。
「なんだ」
「ああ悪い。お前が見たこと無い表情をしてたんでな。……んで、名前はなんだよ」
「栄田が申したであろう? 私の名は『赤子喰らい』だと」
「そうじゃねぇよ。そっちの名前じゃなくて、お前自身の名前だ。なんつーか、本当の名前っつーか……」
「……」
特に何か含んだ意味があったわけではない。栄田は、単純にこの少女の名前が知りたいだけだった。一緒に来るというのなら、名前は知っておいたほうが良い。『赤子喰らい』と呼んでもいいが、それは人に対して『人間』と呼びかけるのと似ている。できれば少女を指す名前で、この不思議な少女を認識したかっただけだ。栄田は少女の返答を待った。
しばらくの間、少女は外の景色を眺め続けた。その眼差しは景色よりもはるか遠く……時を超えて何百年も前の風景を眺めているような、そんな眼差しに見えた。
「沙雪」
しばらくの間の後、沙雪が名乗った。小さく開かれた口から静かに語られた名前だったが、それでも栄田は聞き逃すこと無く、しっかりと聞き取った。
「沙雪か」
「ああ。沙雪。それが私の名だ」
「いい名前だな。綺麗な名だ」
「そうか」
「ああ。お前そのまんまの、綺麗な名前だ」
車体にブレーキがかかったことがわかった。もうすぐ次の駅に到着するようだ。
「……っと。弁当を買ってなかったな。腹も減ったし、次の駅で買わねーと」
栄田はかばんを開いた。巡査に持たされた土産の饅頭の包みを押しつぶすように入っている財布に思わず苦笑いを浮かべる。窮屈そうな財布を取り出して立ち上がり、ドアの前に移動するべく歩を進めた。
ドアの前で到着を待っていると、自分の右肩近くに冷たい不思議な感触を感じた。振り返ると、自分の右後ろに沙雪がついてきている。真っ白く半透明な和服の裾をなびかせ、栄田の肩口ぐらいの高さにふわふわと漂っているようだ。
「お守りがいる歳じゃねーぞ俺は」
「そうか? 私から見たらまだまだワラシと変わらんがな」
自分の背後にいる沙雪からは、初対面のときのような重圧はもう感じない。夏の暑い日に小川で冷やした西瓜の冷たさのような、そんな優しく心地よい温度を肩口に感じる。
「栄田よ。こうして憑いておるとタバコの匂いが臭うてかなわん」
「吸ってるからな」
「金輪際タバコを飲むのをやめよ」
「うるせぇよ。なんで俺がお前のためにタバコをやめなきゃいけないんだよ」
「これから共に過ごすのだ。私に気を使うのは当たり前だと思うがな」
「勝手に押しかけといて女房面するな」
「お前のようなワラシに興味はない」
「ガキの身なりのお前にゃ言われたくねーな」
軽口を叩く二人。ドアが開いた。駅に到着したようだ。
ドアの向こう側の寂れた光景が二人を迎えた。いつの間にか雲が割れ、晴れ間に差し掛かっていたようだ。眩しい太陽の輝きが、栄田と沙雪の二人に降り注いだ。
「お前、太陽は平気なのか」
「ワラシが余計な心配なぞするでない」
「へいへい……」
陽の光は思ったより強い。それに照らされた栄田の身体がほんのりと汗ばむほどだ。その暑さに紛れた沙雪の優しい冷たさに、次第に栄田は心地よさを感じ始めていた。
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