6 沙雪の凶行
「静は、浮浪者に殺されたんです」
菅野神父が、再び牢の中の静に手を伸ばす。その頭を軽く撫でると、ボロボロに傷んだ静の髪が神父の手にまとわりついた。神父が手を離すと、髪は表皮ごとごっそりと抜けた。
「聖職者が家族を持つことは許されない……静は、そんな私の元に神が遣わした娘だったんです。血は繋がっていませんが、私たちは間違いなく互いを家族だと思っていました」
「……ッ」
「静が殺されたとき、大陸にいる知り合いから聞いた死人返りの術の話を思い出し、早速その本を送ってもらいました。それがあなた方が見つけた鬼甦法の本です。届くまで間があったせいで身体は傷みましたが、それでもなんとか静を助けることは出来た」
「それで死んだその子を蘇らせたのか!」
静が泣き叫ぶ中、菅野神父は静かに語り、栄田は怒号を上げる。栄田は拳銃の撃鉄を起こし、神父に照準を合わせた。しかし意識は二人に向ける。静に不穏な様子があれば、いつでも照準をそちらに合わせて引き金を引けるように。
菅野神父は手にまとわりついた静の髪をほどいた。血と表皮がこびりついた汚らしい髪だが、神父からはそれらに対する嫌悪感は感じられない。
「それがお前の罪だって言うのか!!」
「違います」
「あン!?」
「牢の奥をご覧なさい」
静の髪がほどけた手で、菅野神父が静の背後……牢の奥を指差した。栄田の目が神父の指し示す先を凝視する。薄暗い闇の中に、横たわる男性の姿が見えた。
「あんた……ッ!」
「あの日から静は人を欲しがりました。だから私は、時々街の浮浪者を捕まえ、ここに連れてきて静に与えたんです。それが私の罪です」
「やっぱり一連の犯人はあんたか!!」
「警察が動いたのは誤算でしたね。静の事件はキチンと捜査しなかったくせに」
「開き直るんじゃねぇ!!」
「静のときも、あなたに来て欲しかったですよ」
二人の交わらない会話が続く。叫び続けていた静がピクリと動いた。そして背後を振り返り、ハァハァと息を切らせてジッと横たわる男性を凝視する。
「ハァァァ……ぁぁァァアアアアア!!!」
「まだ生きてたみたいですね」
そしてたどたどしい足取りでドタドタと男性の元に駆け寄り、両手を勢いよく振り落とした。途端にグチャグチャと嫌悪感を含む音が部屋に響き、血しぶきが周囲に飛び散る。
突然のことで栄田は拳銃の照準を静に合わせ損ね、そのため静を制止出来なかった。引きちぎられた男の手や肉片が血と共に飛び散り、血のしずくが栄田の顔に数滴かかった。
改めて照準を静に合わせる栄田だが、薄暗い中で距離が離れ、しかも興奮した猿のようにせわしなく動いて男性を弄ぶ静には、中々照準を合わせられない。そうこうしている間にも、静の爪や歯は男性をかじり、引き裂き、引きずり出して引きちぎっている。
はじめ栄田は、静は男性を食っていると思っていた。だがそうではないらしい。それは、静がこちらを振り返った時に分かった。
「フゥー……ッ」
「……んの野郎ッ」
静は、口に管状の長いものを咥えていた。そしてそれを存分に引きちぎった後、天井や床に何度も叩きつけ、そして投げ捨てる。
つまり、静は浮浪者を食うために引き裂いているわけではなく、ただ遊んでいるだけなのだ。それが愉悦のためなのか、それとも苦痛を紛らわせるための八つ当たりなのかはわからない。ただ、食うためではなく弄ぶために浮浪者を襲っていることだけは分かった。
「フゥーッ……フゥーッ……ぁぁああ! あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛!!!」
そして再び叫ぶ。その絶叫は、何かを必死に訴えかけているかのようにも聞こえる。
静がこちらに肉片を投げてきた。その肉片が牢の隙間を通り抜け、栄田の目の前にボトリと落ちる。暗がりの中ではそれがどこの肉なのかは栄田にはわからない。ただそれが何かしらの内臓であることだけはかろうじてわかった。
部屋の中をじっと眺めていた沙雪が栄田を離れ、投げつけられた肉片を手に取った。栄田と静の間に位置取りした沙雪の姿は、ちょうど拳銃の射線を遮っている。
「なにやってんだ沙雪!!」
栄田の怒号にも沙雪は動じない。手に取った肉片をグシュグシュと揉みしだく。沙雪の純白の手が赤黒く染まり、血が滴り落ちた。
「クックックッ……この娘、胃の腑を引きずり出して、なお気が紛れぬか」
「ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛……あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛!!!」
「良いぞ……かように悍ましき闇には久しく出会わなんだ……」
「沙雪……?」
沙雪は栄田に背を向けている。故に沙雪がいまどのような表情を浮かべているのか栄田からは見えていない。
だがその声色から感じる沙雪の感情は、今、誰よりも高ぶり、高揚しているようだ。引き裂かれたのかと見紛うほど口角を釣り上げるほどに。
「おい神父とやら」
「? はい?」
不意に沙雪が菅野神父に声をかけた。神父に向けた顔が醜く歪んでいる。己の胸のうちに湧き上がる情動を抑えられず、ニタリと醜く笑っている。
「お前、娘のこの様を見ても、まだ娘を救ったと思っておるのか?」
「もちろん。でなくば静は亡くなっていた。確かに身体は崩れ理性も残っておりませんが、それでもこうして生きています」
「であろうなぁ……クク……」
「何がおっしゃりたいのですか」
菅野神父が苛立ち始めた。沙雪はクククと喉を鳴らして笑っている。
「たわけめ。娘は蘇ってなぞおらぬ」
「……は?」
「たかが人間ごときに死人を生き返らせるなぞ本当に出来ると思っておるのか。この娘はただ死体に魂を縛り付けられているだけにすぎぬ」
「……」
「ようは土地に縛られた魂と同じよ。殺される時の恐怖と苦しみに囚われ、何人にも伝わらぬ慟哭を繰り返しながら、ただただそこに縛り付けられ成仏することも出来ぬ」
「……ッ」
「いやこの娘はもっと酷い。殺される時の苦しみだけでなく、己が肉体が腐り落ちる恐怖と苦しみも味わわねばならぬ。クックッ……悍ましきものよ」
「静はちゃんと生き返ったんです! 身体は腐り理性を失ってはいますが、こうしてちゃんと生きているではないですか!!」
菅野神父が怒号を上げ、静を指さした。しかし沙雪はたじろがない。むしろより顔を醜く歪ませて微笑み、頬を紅潮させていく。
沙雪の真っ赤な目がキラリと輝いた。室内の空気が硬質になり、温度が少し下がったことを栄田の肌が感じ取った。
「信じられぬと言うなら、この娘がお前に何を訴えているか教えてやろう」
「な……静の言葉が分かるのですか!?」
「しかし私が伝えてはお前も信じられぬであろう。娘の言葉を娘自身の声で聞かせてくれる。……のう栄田。お前も気になるであろう?」
「ッ!?」
栄田はギョッとした。心臓が一拍だけ強く打たれ、身体中の血液が逆流して冷たい汗が背中を流れる。栄田の本能が沙雪の提案を拒絶する。聞いてはならない、耳をふさげと警報を鳴らし続ける。
しかし沙雪は、栄田の返答を待たずして口を開いた。その顔は、変わらず醜く笑っていた。
「気が進まぬか。まぁよい。しかと聞け下郎共。これが、この娘の言葉。そしてこの娘が受けておる苦痛よ」
そういい、沙雪は手に持っていた肉片を捨て、返り血で赤黒い人差し指を上に伸ばした。美しくしなやかな沙雪の指が、トンと空を叩く。その瞬間、人差し指を中心に波紋が広がり、栄田の頭の中の一部分にチリッと熱い刺激が走った。
「……ッ!?」
「ウッ」
その感触はとても熱く、慣れない頭部への刺激に栄田は頭をつい押さえて顔をしかめた。菅野神父を見ると、同じく頭を押さえ顔をしかめている。神父の頭にも同じ刺激が走ったらしい。
そして次の瞬間。
『痛いよぉぉォォオオ!!! 神父様ぁぁァァアアア!!! 痛いよぉぉおオオオ!!!』
部屋に少女の絶叫が響いた。元は年相応の可憐な声だったのであろうが、あまりにも大きいその声は甲高く、汚くてザラザラとし、栄田の心にいい知れぬ恐怖と嫌悪感を植え付けた。
『助けてよぉぉおおお!!! どこにいるの神父様ぁぁァアアアアア!!! 痛いよぉぉォォオオオオ!!! お腹が痛いよぉぉおオオオ!!! 痛いよぉぉおオオオ!!!』
耐えられず、栄田は拳銃を落として自身の両耳を手で塞いだ。しかし静の叫びは栄田の手などなんなくすり抜け、頭の中に侵食しまち針のようにザクザクと突き刺さっていく。
たまらず栄田は沙雪に対して声を上げた。それは命令でもなければ依頼でもなく、懇願に近い。
「おい沙雪!!! やめろ!!! 術を解け!!!」
必死に声を張り上げる栄田だが、沙雪は静の声を止めない。ただニタニタと笑顔を浮かべるだけだ。
「なぜだ? 自分が死人返りを行った結果、娘がどのような仕打ちを受けどのような思いをしておるのか、この者は知らねばならん。栄田はそう思わぬのか?」
確かにそうだと栄田も思う。たとえ理不尽に命を奪われたとしても、その魂を無理矢理に繋ぎ止めた結果を菅野神父は知るべきだと栄田も思う。しかし……
栄田はチラと菅野神父の様子を伺った。栄田と同じく両手で耳を塞ぎ、そして泣き叫んでいた。
「静!? 静ッ!!!」
「クックックッ……」
『神父様!!! どこにいるの神父様ぁぁァァアアアアア!!!』
「やめて下さい! 静のこの叫びを止めて下さい!!!」
「ならぬ。栄田はまだしも、お前だけはこの娘の慟哭を受け止めねばならん」
『お願いだからァァアアアア!!! 助けて神父さまぁぁああああ!!!』
「頼む止めてくれ!!! お願いだ!!! もう!! やめてくれ!!!」
『お腹が!! お腹がかき混ぜられて痛いよぉぉおオオ!!!』
「思い知れ外道。お前の浅慮な救済と身勝手な献身が娘に何をもたらしたのかを」
「静!! やめてくれ静!!!」
『お腹が痛いよぉお!!! 身体中が痒いよぉぉおおおおオオオ!!! 神父さまぁぁああああ!!!』
「ハッハッハッハッ……!」
沙雪の高笑いと静の慟哭の轟音が鳴り響く中、栄田は状況の打破の方法を必死に考えた。
菅野神父は静を蘇らせた張本人だ。しかし一連の浮浪者連続殺人の犯人でもある。沙雪がどのような意図でこんなことをしているかは分からないが、このままでは神父は発狂して死んでしまう。そうすれば逮捕は出来ない。
犯罪を犯した人間が逮捕もされずに死ぬ……栄田に言わせれば、それは警察の敗北で犯人の勝ち逃げであり、死への逃避である。そんなことは刑事として絶対に許さない。菅野神父は絶対に逮捕する。絶対に殺させない。絶対に生きて罪を償わせる。そのためには、静の絶叫を止め沙雪の凶行を制止し、菅野神父を救助しなければならない。
栄田は足元に落としてしまった拳銃をチラと見た。今日はまだ一発も発砲していない。弾丸は六発全弾、すべて残っている。
拳銃を拾うべく、耳から右手を離した。途端に静の悲鳴が栄田の鼓膜にザクザクと刺さり、耳はおろか頭全体が痛い。
「うがッ……!?」
それでも必死に耐え、栄田は拳銃を拾った。それを両手で握りしめ、照準を静に合わせる。頭と鼓膜の痛みをこらえ、目眩すら起こるほどの轟音の中、栄田はふらふらになりながら照準を静に合わせた。
「何をしておる栄田」
沙雪がこちらに気付いた。だが止めない。震える右手を左手でねじ伏せ、渾身の力を人差し指に込めて、栄田は引き金を引いた。
静の叫びに比べてあまりにも小さく弱々しい銃声が、室内にパンと鳴り響いた。
その途端、『ゴン』と重い金属音とともに、静の右腕が消し飛んでいた。
『痛いよぉぉぉおおおお!!! 手がちぎれたよ神父さま助けてぇぇええええええ!!!』
静の悲鳴に意識は割かない。続けて三回引き金を引き、静の身体を吹き飛ばして行く。四発目の弾丸が金属音とともに静の頭を削りきり、その途端、室内に静寂が戻った。
「!? 静!? 静ぁぁぁァァアアア!?」
うずくまっていた菅野神父が立ち上がって牢を開け、崩れてしまった静の元に駆け寄る。静の身体は頭もなく腕は千切れ、腹のほとんどが吹き飛んでいる。傷口から吹き出す血はどす黒く、そしてひどく臭い。
それでも、菅野神父はためらわずに静の身体を抱きかかえた。どす黒い血に塗れ腐肉の悪臭にもうろたえず、静の身体を抱き上げて頬を寄せていた。
「チッ……まぁよい。そろそろ頃合いであろう」
一方で、沙雪は不機嫌そうに顔を歪ませたが、それは一瞬だった。すぐに持ち直し、ふわふわと菅野神父の背後まで漂っていった。
泣きじゃくる菅野神父の背後に、沙雪がきた。
「絶望に塗れたであろう。よいぞ外道。お前ほど闇に落ち、そして絶望した魂を喰らうは、さぞや甘美であろう」
菅野神父は背後の沙雪にまったく気づかない。沙雪が右腕を上げた。この薄暗い室内の中で、沙雪の右腕がほのかに光を帯びてくる。
「感謝せよ。この私がお前の魂を体ごと食ろうてくれる」
ここで、栄田は沙雪の行動にようやく合点がいった。沙雪は菅野神父を喰らいたいのだ。
この事件の説明を受け沙雪とともに被害者の死体を検分したとき、沙雪は言った。
――かように歪で暗い心は、化け物にとって無上の美味。故に化け物の心を掴んで離さぬ
つまり、沙雪は菅野神父を喰いたくて仕方ないのだ。それも、被害者の検分を行ったその時から、この瞬間を待っていたのだ。
最初から、今回の事件の犯人を沙雪は食うつもりだったのだ。菅野神父を追い詰めて絶望させたのも、極上の食材をさらに美味にするための調理のようなものだったのだ。
はじめはその積極的な姿勢を自分への助力だと思っていた栄田だったが、それは完全な勘違いだった。沙雪は栄田の手助けなどしていなかった。己の愉悦のために、栄田を誘導していたに過ぎなかったのだ。
「チッ……やってくれるぜバケモンが……ッ! おい沙雪!!」
栄田は銃の照準を沙雪に向けた。沙雪が栄田の制止に気付き、振り返る。
「邪魔をするな。いま私は久方ぶりの無上の美味を味わうところなのだ」
「それをさせねぇって言ってるんだ!!」
沙雪は栄田の制止なぞ気にしない。沙雪の腕の光がより強くなる。
「やめろッ!!」
栄田は引き金をためらいなく引いた。発射された弾丸はゴンと音を立て、沙雪の右腕を吹き飛ばした。
「……ほう。その玩具、使えるではないか」
「次は頭をふっとばすぞ! 俺はバケモンが相手ならためらいなく撃つ!」
沙雪が栄田を振り返る。その目は怒りで燃えたぎっているかのように真っ赤だ。しかし栄田も負けていない。強い眼差しでギンと睨みつけ、沙雪の怒りを押し返している。
吹き飛ばした沙雪の右腕の傷から、触手がビチビチと生えてきた。それらは例外なく先端に人間の頭を携えている。目を縫い合わせられたそれらはガチガチと歯を鳴らし、粘度の高い涎を床にビチャビチャ撒き散らしていた。
「慢心するなよ栄田。私はお前に心を許したわけではない」
「俺もだバケモン!」
「久方ぶりの愉悦を邪魔するというのであれば、お前も共に食い殺してくれよう」
「やってみやがれクソッタレが! その前にてめぇの頭をぶち抜いてやる!!」
沙雪の触手が顔を栄田に近づける。栄田の耳元でそれらはケタケタと笑い、ガチガチと歯の音を立て、舌を伸ばし涎を栄田に飛ばした。
しかし栄田は照準を沙雪から外さない。身体は恐怖におののき、右腕は相変わらず震えている。足腰ももう少しで立たなくなりそうだ。それでも歯を食いしばって沙雪を睨みつけ、息を荒くしながらも必死に沙雪を狙い続ける。
自分が食い散らかされる……沙雪と相対している間、時折そんなフラッシュバックが栄田の意識を襲う。『神父に手を出したら殺す』という気迫を、自分の何倍もおぞましい化け物である沙雪に対しぶつけ続ける。
そうして、栄田は沙雪としばらくの間にらみ合い続けた。その間、室内には栄田の呼吸音と触手たちの汚らしい息遣い、そして菅野神父の泣き声が鳴り響いていた。
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